月色の目の怪物「お前が抱えている問題を解決できるのは、この私のほかにはいないのだからな――そうだろう」
エンシオディス・シルバーアッシュといえば、このロドスで知らない人間はいないだろう。イェラ区の領主、シルバーアッシュ家の当主であり、カランド貿易のトップ。権謀術数に長けていることは勿論、戦闘能力も他の追随を許さない。彼の剣から放たれる白銀の光は、吹雪よりも苛烈に敵の命を奪う。その一方でカランド貿易にとっては不利だとわかっている条約をロドスと締結するなどの度量の広さも合わせ持ち、つまるところ欠点を上げることの方が難しい傑物だった。
リー自身も、彼を戦場で、そしてロドス内で見かけたことは一度や二度ではない。上に立つものらしい尊大さがあり、立ち振舞には高貴さが滲んでいる。肉食獣の優美さと獰猛さを併せ持つその人物が、ドクターの傍らに立っている姿を。
あの人は、彼にこう答えた。
「うん。期待しているよ」
***
もうそろそろ寝たほうが良いということはこの人自身もわかっているだろうに。
「ドクター」
「うーん、もう少し」
デスクの上には珈琲の染みが残るからのマグカップが置かれている。カフェインが切れれば、昨日も遅くまで仕事をしていたこの人は眠くなってすぐ仕事を投げ出すと思っていたのだが。ドクターは手元の書類と向き合ったままだった。
何かに熱中すると時間が経つのを忘れる姿は末の子どもにそっくりだ、とリーは嘆息した。とはいえ本日の秘書として、ドクターが過剰な労働をしないよう忠告しなければ。
「そろそろ休んだらどうです」
背後からドクターの傍らに回り、顔を近づける。振り向かないままに、ドクターがこちらに向かって手を伸ばした。丁度顎下を触ろうとするように。
「もう少し我慢して」
その指先がリーの肌に触れ、ドクターは熱いものに触れでもしたかのように手を引いた。弾かれたように振り返ったドクターと、ようやく視線が交わる。そこに立っている人間を認め、ドクターは間違いを恥じるように微笑んだ。
「あ、っと。ごめん。間違えた」
それは、誰と。
――思い出すのは、昨日の秘書を務めた人物だった。自分に業務の引き継ぎをした人物。
あの銀色が、鮮明に、脳裏に蘇る。
「――おれを、誰と?」
ワーキングチェアの背もたれに手を付き、顔を近づけると、ドクターが息を詰めるのを感じた。闇の中でも光を放って見えるという自分の瞳は、逆光の中、帽子の下で、どの様に見えるのだろうか。ドクターの瞳に映るのは、煌々とした鬱金色だ。
「……それ、は」
よく舌が回るドクターにしては珍しく、言葉に詰まる。それは生物としての本能故だろうか。瞳を逸らすことさえ出来ないようだった。それはそうだろう。野生においては、肉食獣と一度視線が合ったなら、逸らすことは御法度だ。その瞬間に食われても何も文句は言えない。
だから。
「冗談ですよ、冗談」
ぱ、とリーが手を離し、背筋を伸ばす。顔に落ちていた影がなくなり、ドクターは眩しそうに目を細めた。
「あなたが仕事熱心なのは知っていますが、でもまぁ、早めに休むに越したことないですよ」
夜更かしで身体をやっちまったら勿体ないでしょう、と。冗談めかしてそういえば、ドクターはようやく、満足な呼吸が出来るようになったようだった。そうだね、とぎこちなく笑う。
「今日はもう、そうしようかな」
そうしましょう、と。リーはドクターの手を引き、椅子から立ち上がらせる。お腹が空いたから夜食を作ってくれと、子どものようにせがむドクターを見てリーは苦笑し――ふと、思う。
この口から、その男の名前が出ていたら、自分は一体どうしたのだろう。
***
「おれも行きますよ」
そう言うと、ドクターは自分を見てぱちりと一つ瞬きをした。次の作戦に向けて人員を集めているのだという。なかなかに面倒かつ困難な任務のようで、ドクターは参加してくれそうなオペレーターに声をかけて回っているそうだ。ロドス中を探し回るのには骨が折れた。
「何も奢らないよ?」
「人がいつもドクターにたかっているみたいなこと言わないでくださいよ」
「半分は事実だろう」
「もう半分は誠実でしょう」
「でも本当に珍しいね。君から志願してくれるなんて」
ドクターが手元の端末を操作する。だからその向こう、先程までドクターが声をかけていた人物がよく見えた。もう話は終わったからだろう。去っていく後ろ姿しか見えない。けれど、思う。彼は珍しく、自分と同じ目線で話のできる人間なのだと。
「まあ、鷹に油揚げをさらわれるのは、面白くありませんからね」