つづき書斎から寝室は数歩の距離だ。寝室のドアをあけると、予想以上にがらんとしていた。部屋の奥のベッドに先生をゆっくり寝かす。苦しげな表情は変わらないままだったが、床に転がしているよりは良いだろう。
水を持ってこようと一度部屋を出て、ふと書斎の換気もすべきかと思い至る。あの煙草の匂いからして、まだ灰皿の中で煙っているかもしれない。私はすぐに書斎に向かった。
鼻が慣れてしまったのか、先程よりも匂いは薄い。テーブルの上の灰皿を確認し、それから窓に向かう。
書斎の窓はほんの少しだが開くようになっていた。窓をを開けると一気に風が吹き込んできた。思わぬ突風に目を瞑る。バラバラッと紙が強くめくれる音に、私は振り返った。
しまった、原稿が。
ばらけて飛んでしまいそうになっている原稿の上に、慌てて適当な重しを置く。そこで自分の目に入ったものに、私はどきりとした。
散らばる紙には、苦悩に満ちた文字が並べられていた。
いつも先生が提出してくる原稿用紙は綺麗なものだ。推敲や誤字などの言い回しの修正はあれど、脳内で理路整然と組み立てられたストーリーを書いているという感じだ。ところがその原稿用紙は真っ黒で。たった一文を何度となく消し、何度となく書き直し、原稿用紙を全て埋めても二行も進んでいない。言い回しの推敲レベルではない。途中まで書いてあるのに全てに線が引かれていて、また書き直し始めていたり。それどころか、ぐしゃりと潰した紙を再度広げて書いたような跡まであった。
私は見てはいけないものを見てしまったと思った。作家の苦悩はわからないでもないが、好きで物語を書いているような青年の裏側を見てしまったことに、動揺していた。
同時に、ひとまわりも年下の若者の苦しみを少しもわからないでいた自分が情けないとも思った。この煙たい部屋の中で、彼は何を考えて机に向かっていたのだろう。
私はしばしその原稿を眺めていたが、ふと我に帰って、少し空気の良くなった部屋を後にした。
水を手にして寝室に戻ると、やはり先生は眉間に皺を寄せて苦しげな顔をしていた。
「起きれますか?」
私の言葉に、ピクリと瞼が動く。
「つき……しま?」
目が合うと、掠れて殆ど音にならない声がした。ホッとしたのも束の間、先生はまた目を閉じて、浅く息を吐いた。
「水、飲めますか?」
「……飲まして」
その言葉に面食らったのは、普段の彼からは聞かない幼げな声だったからか。
「起こしますよ」
許可は貰わず、先生の上体を起こしあげ、背中に枕を挟む。背を支えながら口元にコップを持っていき、少し頭を後ろに傾げてやると、喉仏が小さく上下した。
唇の横から水が伝い落ちたが、拭おうともしない様子を見ると、相当気分が良くないらしい。何か拭くものを……と、コップを離してポケットに入っていたハンカチで拭ってやる。彼からは何の反応もなかった。
編集部に連絡をして事情を説明すると、そのまま先生についていてくれと言われた。「こんなこと初めてだ」と、前担当の先輩は言っていた。
先輩は彼が高校生の頃から担当していたのもあり、「まだ子供のように思っていたよ」と驚いていたが、私も同様に驚いていた。
私は彼のことを、品行方正で完璧な人間だと思っていた。彼との付き合いはまだ浅い方だとは思うが、その付き合いの中でも酒や煙草やギャンブルなんていう話を聞いたことがなかった。彼といえば、勉強と小説と、それから物のない部屋で一人机に向かっている、そんなイメージだった。そういえば彼がどこかに買い物に出かけたり、若者らしくしている姿を見たことがない。大学の友人と飲みに行くとか、どこかに旅行にいくとか、そんな話の一つもしたことがない。先生との距離が縮まったと勝手に思っていたが、私と彼を繋ぐものは、彼の作品だけだったのだ。
彼の作品から読み取れるものと、彼との少しの会話。そんな上部しか知らなかったのが悔しかった。インクと皺でぐちゃぐちゃになった原稿用紙に現れた、彼の奥深くにあるものに少し触れただけで、こんなにも動揺している。けれどその部分に触れたいと思った。触れさせて欲しいと思った。年上として若者を護りたいだとか、彼の編集として不甲斐ないだとか、そういう感情抜きに、彼という一人の人間の暗いところを見たいと思った。少しだけ、自分が先生にとって特別だと思っていたことを恥じた。
どうしたら踏み込ませてくれるのだろうか。
起きたら、話をしなければ。