扉を開けた瞬間、籠もった煙が吹き出した。
「ああもう、また換気もしないで」
天井まで伸びた本棚に入りきらない本が、足の踏み場をなくしている。
「先生、今日こそ出来ましたか」
アンティークなライティングデスクに向かっている着物の男は、こちらを振り向きもしない。デスクの上には山盛りの煙草が燻っている。
「先生」
私がもう一度声をかけると、彼は振りかえって不満そうな顔をした。
「もう書けんと言ったろう」
先生と呼ぶにはあまりにも若い彼は、彼の書く小説の文体のよう話し方をする。若者には到底似つかわしくない話し方だが、その丁寧さは嫌いではなかった。
「いえ、書いてもらわないと困るのです」
このやりとりは何回目になるのだろう。私は大きくため息を吐きながら、足の踏み場を作るべく床に散らばる本を拾った。
◇
総合出版社でビジネス雑誌の編集者として働くこと五年。この春、人事移動で兼ねてより誘いのあった文芸部への異動が決まった。
はじめは雑誌編集と文芸編集という仕事の差に戸惑ったが、社会人十年目ともなると仕事のコツなんかはすぐにわかってくる。新しい仕事にもすっかり慣れた初夏の頃、同部署の先輩から声をかけられた。
「月島、俺の担当編集を引き継がないか」
と。
断る理由は一つもない。寧ろ担当者を任されるなど、自分の働きが認められたような気がして、一も二もなく承諾した。
「最初は俺もフォローするし、先生も穏やかで良い人だ。担当が変わる話も快諾してくださった」
作家というのは癖が強いと勝手に思っていた私は、そんな聖人君子のような人がいるものなのかと感心したものだ。
「先生との顔合わせまでに、出ている本は全部読んどいてくれよ。編集仕事の基本だからな」
先輩はそう言って、私に数冊の本を渡してきた。それが、私が初めて担当することになった小説家、鯉登音之進先生との出会いだった。
鯉登音之進、稀代の若手純文学作家。
若干十七歳で賞を取った彼の作品は、十代の若者とは思えない重厚な言葉遣いで綴られており、あまりの完成度に、当初の編集部では年齢詐称やゴーストライターがいるのでは、などと噂が駆け巡ったそうだ。彼の処女作を手に取りながら、著者近影を見る。モノクロ写真には、詰襟の少年が写っていた。今時の若者らしく発育がよく、青年に近いな、などと思いながらもページをめくる。こんな若者が純文学か、などと少し小馬鹿にした気持ちで読み始めた私は、すぐに考えを改めることになった。
先輩曰く。
「絶対に写真は出すべきだと思ったんだよ。驚いたろう、あの若さであの文章力。ただ、今はみんな娯楽小説の方が好きなんだよ。だがあの小説を世に知らしめないのは勿体ないと思ったんだ。だから顔出しを勧めたんだ。あの見た目、若さ。それなのに書くものはまるで明治の文豪だろう?五冊目なんて校正担当が泣いてたぜ」
先生が五冊目に出したのは、確かに校正泣かせであった。全て旧仮名遣いで、言い回しも全て昔のものだった。今時そんな本が売れるのかとは思ったが、意外と売れたらしい。
「現役高校生の本ってだけで話題になるからな。先生はあまり気にしてないみたいだったけどな」
「今は大学生なんですか?」
「一応な。若いがしっかりした人だから、安心して引き継ぎができると思ってな」
「成る程」
そんな話をしながら、辿り着いた一等地の高級マンションは見上げるほど高い。これは実家かそれとも印税御殿か聞きたくなったがそこまで聞いてもいいものかわからずチラリと横を見る。先輩は慣れた顔でマンションの入り口で鍵と部屋番号と暗証番号を入力していた。
「えっ、カギもってるんですか」
「もし家で死んでいたら誰が見つけてくれるんだと言われててな」
「変わった人ですね?」
「確かに少し変わってはいる。今日はちゃんとアポイントがあるから心配するな」
と、先輩はさっさとエントランスに入っていってしまった。私もそれを追いかけて、エレベーターに乗り込んだ。静かに動き出したエレベーターは、最上階とはいかなかったが、そこそこ上層の階で止まった。高級マンションに入ったことのない私は勝手がわからず先輩について行くだけだったが、大きな扉の前に付くと、いつになく緊張した。先輩が呼び鈴を鳴らした。だが、鳴らしただけだ。結局中から反応がなかったので、先輩は鍵を使い、中へと入っていった。廊下の先にある広いリビングダイニングはモデルルームのように物がなく、本当に人が住んでいるのかと思うほどだった。
「先生?入りますよ」
先輩はリビングを横切って、奥にある扉の前まで向かうと、軽くノックをしてドアノブに手をかけた。私はその後ろについて、開かれたドアの中を覗き込んだ。
初めに見えたのは本棚だった。本棚は部屋の両側を天井まで埋めていた。それから、机が見えた。書斎ならば普通、机は入り口の方向を向いているのだが、その机は窓の方を向いていた。最後に見たのは人の背中だった。事務的な椅子ではなく、木で作られているアンティーク調の椅子に、着物の人物が座っていた。
「先生、大丈夫ですか」
「大丈夫だ。今日はあれだろう、次の担当を連れてくると」
若い良く通る声が、振り向くと同時に大きくなって聞こえた。著者近影にあった顔がこちらを振り向いている。彼は私の方をちらりと見てすぐに机に向き直ったが、またすぐにこちらを振り返った。綺麗な二度見である。
バッチリ目と目があってしまったので、軽く会釈をする。このまま挨拶すべきかと口を開きかけると、それよりも前に先生が口を開いた。
「すぐそっちに行くから、出て待っていてくれ」
「え?はあ」
先生は先輩に告げると、また机に向かってしまった。やはり先に「始めまして」だけでもいうべきだったなと思いながら、先輩がリビングに戻るのについて行った。
「先生のあれ、私服ですか?」
部屋を出て私が最初に聞いたのはそれだった。今時、和服なんて珍しい。私なんて一着も持っていない。
「変わってるだろ?」
先輩は面白そうに私を見た。それだけじゃなんとも言えないですけど、と、答えつつ、先輩の横に立った。リビングダイニングのダイニング側にある四人掛けテーブルの前で男二人立ち尽くす姿は側から見たら滑稽だろう。
確かにリビング側のソファーは対面になっていないのでダイニングテーブルで対面するのは正しいが、ふと、こういうのは外の喫茶店でやるべきなのでは?という疑問が湧いて出てしまった。それを問おうとすると、先ほどの扉がガチャリと開き、先生が現れた。少し見上げる長身を青鈍色の着物で包んでいる。ドアが開いた瞬間から、彼は私を凝視していた。見定められているような気分になって思わず背筋を伸ばす。目を離したらいけないような気がして、しばらく私の目を見つめる瞳を見つめ返していると、彼の方が先に視線を外した。
「茶でもいれようか」
「いえ、お構いなく。今日は顔見せだけですから」
先輩はそう言って私を前に出した。
「前にお話ししていた、私の後輩です」
「はじめまして。月島基です。よろしくお願いします」
私は用意していた名刺を差し出した。普段なら名刺を交換するところだが、先生は名刺を持っていないようで、私だけが渡す形になった。そのまま三秒程沈黙があって、先生は名刺を眺めていた。それから私の顔を見て三秒。何か悪い空気が流れている気がして、私はちらりと先輩に視線を向けたが、先輩も困った顔をしていた。微妙な沈黙の後、先生は「ちょっと座って待っていてくれ」と、短く言い残してまた書斎の方に消えてしまった。
「あの……私、何かしてしまいましたか」
「いや、月島はなにも……ちょっと変わってるとは言うが、いつもはあんな感じじゃないぞ。どうしたんだろう」
そのまま十分程待たされた。先輩とコソコソと話をしていると、また扉が開いた。先生は手に分厚い封筒を抱えていた。
「これは私が十五の時から書いている話だが」
どさりと机に置かれたのは合計で5つの封筒で、中には原稿用紙が詰まっている。
「新作ですか?」
先輩は驚いて尋ねたが、先生はそれに対して答えないで、口早に続けた。
「連作で五作分はある。読んで、それからまた来てくれ」
「え?」
「頭が痛い、私は寝る」
「えっ、先生」
先輩が声をかけるよりも早く、彼は寝室であろう部屋に入って行ってしまった。こちらを振り向きもしなかった。ガチャン、と鍵をかけた音がして、私達は顔を見合わせた。家主が居なくなった家に居続けるわけにもいかず、私達は封筒を抱えてそっと家をでた。
◇
顔合わせは散々であった。私が何かしてしまったのではないかと自責の念に駆られたが、理由が全く思いつかない。名刺の渡し方が気に食わない、とかそんな理由だったらどうしようもない。いや、ほんとうに体調が悪かっただけなのかもしれない。そうすると先生を放って置いて帰ってきてしまったのは悪かったのかもしれない。理由がわからず暫くの間ぐるぐるとしていたが、先輩もさっぱりわからないという様子だったので、考え続けるのは止めることにした。部屋から持ち帰った先生の原稿は、一枚でも無くしたら首が飛ぶと先輩に脅され、家に持って帰ることが叶わなかった。とりあえず読まねば進まないだろうと、封筒一冊分を数時間かけてスキャンして、データとして家に持って帰ることになった。今時、紙の原稿なんて、と、思いながらも、先生の文字は読みやすく、不思議と私を惹きつけた。先生の既存の本は先輩に言われて読んでいたが、家に帰って読み始めた新作は、これまでと違うテイストで書かれていた。
一人称で書かれたその小説は、明治時代に生まれ、日本陸軍に所属していた『私』が経験してきた過去を振り返るものになっていた。フィクションというよりは歴史小説のような小説は、実際に存在した人物の歴史をなぞるように事細かに書かれていた。
薩摩生まれの『私』は海軍将校を父と兄に持ち、何不自由なく育った。日清戦争の際に歳の離れた兄を亡くして以来、父親との間に確執を感じ、素行が悪くなっていき、生きることにも不真面目であった。そんな『私』は十四歳の時にとある人物と出会い、その出会いは忘れられぬ思い出となっていた。その後、十六の歳に事件に巻き込まれ、その人物と運命的な再会することになる。そうしてその人物を追いかけ、陸軍の士官学校にはいる、という話であった。そこまでが封筒一冊分の話だった。二つ目の封筒には士官学校での日々が、三つ目と四つ目の封筒には陸軍に入ってからの日々のことが書かれていた。五つ目の封筒に入っていた原稿は、途中で終わっていた。終わりを示唆するようなものもなかったので、まだ書きかけであると言うことがわかった。
『私』視点で語られるそれらは、夏目漱石の『こころ』を思わせるようなエッセイ風の書き物でありながらも、軍事記録に近く、陸軍での話など、どれほどの資料から書かれたものなのか想像もつかないほど詳細だった。
十五歳の少年が書いたとは到底思えない文章力と知識量に、先生は確かに天才だと思った。ここまでのものを書ける人間は成人でもそうそういない。単純に感心しながらも、編集者として、一読者としてこの話を完結させて欲しいという気持ちが湧いてきた。
「読んで、それからまた来てくれ」
先生はそう言った。ならばまた行くしかない。私は五作分読み終えた翌日、先輩にアポイントをお願いしていた。
◇
「月島、お前だけで来てくれと先生が」
青い顔をした先輩が、そう言って鍵を渡してきたのが昨日の話だ。
「俺、本当に何かしてしまいましたかね……?」
「『彼が何かしたわけではない』とはメールが来てたが……何だろうな?」
理由は先輩もわからないままらしい。怒らせるようなことはしていない筈だ、多分。何せ自信がない。あの着物のせいか、見た目の若さにはそぐわない謎の貫禄があったことは覚えている。
「……先生の好物とかありますか……」
手土産で機嫌をとれるとは思わなかったが、手ぶらで行くよりは数倍マシだと判断した私の言葉に、先輩も同情してくれたのか、「一番いいのを見繕ってやるよ」と、手製のマル秘手土産リストを渡してくれた。先輩はこういう細かいところに気がきく人であった。
そして今日、先生の好みの手土産を手に入れて、一等地のマンションへと辿り着いた。二度目の訪問とはいえ、場所を完璧に覚えているはずもなく。地図アプリを片手にようやくたどり着いた時には、約束の時間ギリギリになってしまっていた。何とか遅刻だけは免れた事に安心し、先輩からのLINEを確認する。事前にマンションの鍵の開け方を教えてもらっていたので、文章を読みながらオートロックエントランスで部屋番号を入力し、鍵を差す。今回も一応アポイントがあるとはいえ、勝手に入ってきて欲しいと言われているので、エントランスでチャイムを鳴らすことはない。他人の家に勝手に入る事に慣れていないのでかなり緊張はしたが、どちらかというと勝手に入ることよりも、何を話せばいいのかという事の方が緊張度は高かった。
先日借りた原稿は持っている、手土産も持った、先輩からのアドバイスが書いてある手帳もある、それから今日の話題の持って行き方……と、頭の中で整理をしていると、あっという間に先生の部屋の前まで来ていた。年下相手に情けない、とは思いはしたが、ここまできたらあとは勢いだった。
先輩から聞いていた部屋の入り方はこうだ。呼び鈴を鳴らして、二十秒経っても返事や物音がなければそのまま入って良い。返事がある時は入らない。「まあ返事があったことなんてないけどな」と、先輩は笑っていたが。
私もしっかり二十秒、耳を澄ませてみたが音も返事もなかった。つまり、勝手に入ってこいということだ。不審者に見られないよう、なるべく慣れたフリをして家に入ろうと、手の中の鍵を握り直す。
「お邪魔します」
誰にも聞こえないような声になってしまったが、失礼な事だけは避けたい、そんな気持ちで、玄関を開けた。
◇
「こんにちは、鯉登先生」
中に入って、大きめの声で挨拶をしてみたが、返事はなかった。あの書斎にいるのだろうか。と、前に見た部屋を思い出す。図書館とは違い、雑に並べられ、所々乱れのある本棚と、所狭しと積み上げられた本の部屋。あの部屋には、どんな本が置いてあるのだろう。制作の資料だけでなく、趣味の本も置いているかもしれない。先生が好きな本のジャンルはどんなものなんだろうか、誰の本が好きなのだろう。もし知っている本がひとつでもあれば、それを話題にしよう。なくても、どんな本があるか聞くのは、話題になるだろう。そんな打算的な事を考えつつ、書斎の前まで来た。深呼吸をしてから二度ほどノックをしたが全く反応がない。
(寝てるのか……?)
最初に先輩が言っていた、「もし家で死んでいたら誰が見つけてくれるんだ」という言葉が頭を過った。まさかそんなことが起こるわけが。いや、しかし、でも。私は緊張のままドアノブを捻った。ドアの隙間から、壁一面の本棚が見え始め、山のように本が並んでいるのが目に入った。本棚の隙間や、床、それから来客用のテーブルであろう部分まで本で埋め尽くされていた。
その本の森の中。先生はいた。ライティングデスクに突っ伏している。窓からの光が先生の背中を照らしている。
「先生?」
一瞬、先程自分で考えた『嫌な妄想』が頭を過ぎった。先生から目を離さぬまま、足元に積み上がった本を倒さないように近づいてみると、先生は机の上に両腕を組んで、頭を横に乗せて眠っていた。規則的に上下している背中を見て安心したのも束の間、眠っている先生の顔があまりにも穏やかで、起こすのを躊躇われた。
寝息ひとつ聞こえないが、確かに眠っている。先生の寝顔は隙のない人形のような寝顔だった。
窓から差し込む光に透けた細めの髪が、少し乱れて額にかかっている。
デジャヴだ。
そう思った瞬間、先生の机上にあったスマートフォンが激しく鳴った。
その音が鳴って二秒もしないうちに、先生は目を開いて身体を起こし、その音源に手を伸ばして、慣れたように音を止めた。それから瞬間的にこちらを向いて、「ね、寝てないぞ!」と、大きく叫んだ。
私はその勢いに驚いたあと、すぐに笑ってしまった。
「あっはっは! 寝てましたよ、先生」
失礼かと思ったが何故か笑わずにはいられなかった。妙に落ち着いた若い青年の思わぬ一面が見えたからかもしれない。
爆笑する私に、先生は最初キョトンとしていたが、すぐに自分が口走ったことに気づいて、「寝ぼけていて間違えた」と、困ったような照れたような複雑な顔をして頭を掻いた。
「見苦しいところを見せてしまったな」
「いえ、こちらこそ勝手に上がってしまってすいません」
今の一件で、一気に親しみが湧いていた。
気難しい人だと勝手に決めつけていたのかもしれない。先生はまだ少し照れながら椅子から立ち上がった。
「まあそこらへんに座ってくれ……ください」
「そこらへん?」
この部屋に座るところなんてあるのかと思わず振り返る。よくみると、両側から圧迫するような本棚と、床から生えたような本の中に、ソファーが埋まっている。もちろんソファーの上にも本が積み上がっていた。
「退かしていいんです?」
「うん」
「じゃあ失礼します」
本をどかすと、臙脂色(えんじいろ)のソファーが現れた。キッチンやリビングはモダンな部屋だったのに、この書斎だけはアンティークで揃えてあるようだった。木枠で囲われたビロードの布地に座ると、視界が深く沈んで、目の前の本棚がさらに大きく見えた。
先生もアンティークデスクから立ち上がり、私の目の前にあった山積みの本を移動させた。そこには私の座っているソファーと同じ臙脂色をしたチェアーがあった。先生は一人掛けのそれに座って、「読んだか?」とすぐに尋ねてきた。
私はその主語が先日預かった封筒の束だということにすぐに気付いて、慌てて鞄の中からそれらを取り出した。
「素晴らしい作品でした」
「……それだけか?」
探るような目で問われて、言葉に詰まった。褒め言葉が足らなかったのか、それとも先生にとっては駄作だったとか、ともかく何か自分が間違ったことを言ったことだけはわかった。
「いえ、あの。時代考証の詳細さも、臨場感もあって……やはり今の先生の文体よりも若さが見られるところもありましたけれど全体的にはよくまとまって……」
私がそこまで言うと先生は左手を伸ばして言葉を遮った。私は口を継ぐんだが、先生が何か言う気配もなく。沈黙が続いてしまった。やはり何かお気に召さなかったのかもしれない。
やらかしたな、と言う気持ちがあったので、順番は前後してしまったがなんとか先生の機嫌を回復させようと、手土産を出してみる。
「あの、順番がおかしくなってしまいましたが、これ、よかったら食べてください」
「ん?あぁ、ありがとう……ございます」
先生はまだ何か考えている風だったが、とりあえず受け取ってもらえたことに安堵した。
「それにしてもこの部屋の本の量、凄いですね」
態とらしい話題の変え方だったかもしれないが、前回来た時からずっと気になっていたことだった。
「資料ですか?古い本が多いですけど」
小さな図書館な開そうなほどの量の本達は、最近出た本よりも色あせたような本が多かった。
「いや、ほとんど趣味みたいなものだ」
「趣味ですか」
「うん」
先生はやはり本で埋もれていた机から少しの本を移動させて、私が手渡した手土産の袋を置いた。
「電子書籍の方が場所を取らないのはわかっているんだがつい買ってしまう」
「原稿も手書きなのはそのせいですか?」
「ちゃんとパソコンデータもあるぞ……ありますよ」
「先生、その微妙な敬語はなんなんです?」
「ンッ、えーと……敬語が苦手で……」
「別に気にしませんから普通に喋ってください」
「そうか?助かる」
猫のように目を細めた先生に、こちらも緊張がほぐれるのがわかった。
先生は不思議な人ですね、と、喉元まで出かかったが、失礼かもしれないとおもって言葉を飲み込んだ。妙に堂に入った和服姿で大人びているが、笑顔は幼い少年のようで、不思議な魅力を持っている。
「前は慌ただしくして済まなかった。徹夜明けで余り頭が回っていなくて。引き継ぎについては聞いているから、連絡先を聞いていいか?」
「あ、はい、勿論」
私が鞄から携帯を取り出しているうちに、先生は一度席を立って、デスクに置かれた携帯を取りに行った。アンティークな部屋に和服姿で、手には最新機種のスマートフォンという光景がどうにもチグハグだった。
先生は自分の連絡先を画面に表示して私に見せながら、世間話を続けた。
「月島は文芸編集が初めてだと聞いたが」
「あの、力不足をご心配されているようでしたら……」
「それは心配していない。ただ、どうして文芸かと思って」
「前々から文芸希望だったんですが、タイミングと言いますか……あ、昔から本を読むのが好きで。ってなんかありきたりですけど」
「どんな本が好きなんだ?」
「なんでも読みますよ。純文学もSFも時代小説もミステリも」
「本当になんでも読むんだな」
「先生が賞を取られた作品も読んでました」
話をしながら登録を済ませ、メッセージを送ってみる。先生の携帯からピコン、と、音がして、自分が送ったメッセージが届いたことがわかった。
「そうか」
先生は涼しい顔をしたまま、メッセージを返してきた。手に持った携帯が震えて、メッセージ欄には可愛らしいスタンプが一つ押されていた。
「鯉……ですか」
「分かりやすいだろう」
「私もありますよ」
と、メッセージにスタンプを一つ押して返すと、先生は唇をあげて笑った。
「ふふっ、月島だから月か」
「ええ、ちょっとシュールな絵柄なのがまた……」
「面白いな」
先生はやはり表情が緩むと幼く見える。不思議な魅力がある人だ。
「そういえば先生はSNSをしていませんね」
「まぁ……ほとんど見ないし」
「大学生……ですよね?」
「学生がみんなSNSやってると思ったら大間違いだ。欲しい情報があれば本で調べられる。まあその本を探すために使ったりはするが、不自由はない」
「なるほど」
そんな若者もいるんだな、と、変に関心してしまったが、部屋の中に積み上げられた本の量を考えるとなんとなく納得してしまった。
「あの、この原稿なんですけど」
会話が少し続いたので、流れのまま先生に封筒を差し出す。
「こちらでデータは取りましたのでお返しします。もし出版先が未定ということであればぜひ私どものところで……」
「ああ、それは月島にやる」
「は?」
「月島にやるからあとは煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「え、といいますと」
「著作権を放棄する」
「なんでですか!?」
思わず大きな声が出てしまって、自分で自分の声に驚いた。
「すいません、いや、でもどうして」
「月島のことが好きだからかな」
「……からかわないでくださいよ」
若者らしい冗談かと思って、流してしまおうと思って先生をみた。
「なんだ、一目惚れを信じないタイプか?」
先生はしっかりと目を合わせてにこりと笑った。なんだかその笑顔が嘘くさくみえてしまって、私は思わず頭を掻いた。私が言葉に詰まったのがわかったのか、先生はちょっと待っていてくれ、と言って席を立ってしまった。あれ、気を悪くしてしまったかな、と思った頃には、先生の姿は部屋の中から消えていた。
変な人だ。
いや、いま機嫌を悪くしてしまったのか?さっきまで和やかに話ができていたじゃないか。どうしてこんな微妙な空気に……いやだって著作権を放棄するだなんて言うから。一体、何を言っているんだ。作者が著作権放棄したとなるとそれは誰でも使用ができるということで……今回のは譲渡なのか?
いやまて、そうじゃない。何か言われた気がする。一目惚れ?好きだから?……原稿の話をしていたんじゃなかっただろうか。まてまて、先生は何を言っていたんだ?
『月島のことが好きだからかな』
何故かはっきりと思い出せる声が、頭の中でリフレインした。私は何かを掴みかけて、思わずソファーから立ち上がった。
それとほぼ同時にドアが開いて、先生が驚いた顔をして入ってきた。両手にはソーサーに乗ったコーヒーカップが二つ。
「なんで立ってるんだ?座っててよかったのに。あ、ホットでよかったか?」
先生はそんなことを言いながら来客用であろうカップとソーサーを私の前に差し出してきた。私はぽかんとしたまま、差し出されたそれを大人しく受け取って再び座るしかなかった。
私は受け取ったコーヒーを気付(きつけ)薬とばかりに半分ほど口に運んで、テーブルの上を占拠する本を退かして現れた木目にカップを置いた。
沈黙したまま先生をチラリと見ると、先生も自分のカップを口に運んでいた。
まだ少年のあどけなさが残るような顔をしながら、薄く伏せた瞳が、若者とは思えない艶を出していた。女性に劣らぬ長く濃い睫毛のせいだろうか。それとも、服装のアンバランスさからだろうか。祭りで見るような若者の浴衣姿とはまた違う、きちんとした着物の着こなし。所作の一つ一つに品すらある。粗雑な世界で生きてきた私のような人間からしてみたら本の中から現れたような別の世界の生き物に見えた。奇怪な話に出てくる物語の主人公みたいだ。
先生はしばらく無言でコーヒーを啜っていたが、私の視線が煩かったのか、顔を少し俯けたまま視線をこちらに向けた。
「あー……月島、さん?」
「月島で結構ですよ」
「あんまり見られると照れてしまう、から、その」
「あ、すいません」
謝りながらも、変な雰囲気になる部分があったろうか、と、困惑する。
「さっきの話の続きですが」
「や、さっきのは口が滑ったというか」
「では出版はウチで行っても……」
「あ、そっちの話か、」
話が噛み合っていないのに気づいて、また微妙に沈黙してしまった。いやしかしここで話を途切れさせていては進まない。
「あの……」
「はい」
「先程の……著作権の話なんですけど」
「はい」
「著作権を放棄するというのは……」
「うん、いらん」
「ええと、理由をお伺いしても?」
「うーん…………」
先生は非常に言い渋っていた。しかし理由なく著作権を捨てるだなんていうだろうか。先生はしばらく頭を捻っていた。
「そうだな……例えば……ううん、うまい言い回しがわからんな」
小説家の人にも表現できないものがあるんだな、と思いながら答えを待っていた。
「……書いて良いか?」
「え?」
「ちょっと言葉がまとまらんのだ。書いた方がまとまるから」
「え、ど、どうぞ」
「まて、すぐには無理だ、数日くれ」
「数日ですか」
「三日でいい」
「日数は別にいいんですが……」
そんなに難しい質問をしてしまったのだろうか。ただ理由が知りたいだけだったが、ここまで悩ませてしまうくらいなら理由を聞かない方が良かったかもしれない。そうは思ったが、先生はすぐに三日後のアポイントをとりつけた。大学ついでに編集部に寄ってくれるという。そういえば大学生だった。
「ついでに連載途中の原稿も持っていくから」
「あ、はい、確認させていただきます」
それから少し大学の話を聞いた。大学生活と執筆活動の両立は難しくないか、などと、進路相談めいた話をしてしまったがそれなりに会話は弾んだ。(と、思いたい)
「じゃあそういうことでまた編集部で」
「わかった。それまでにまとめておく」
「あまり急がなくても大丈夫ですからね」
私が言うと、先生は何も言わずに目を細めた。それが先生の笑い方だったが、なにか含みのある笑顔に見えてしまうので私も外向きの笑顔で応じた。
「では失礼します」
そう言って玄関から出る時、何かを思い出しかけて振り向こうとしたが、締まりかけた扉の向こうに先生が見えなかったので、そのまま扉を閉めてしまった。
(なんか、今の、変だったな)
◇
昔は三日なんて長くて長くて、飽きてしまうほど遠かったのに、今では音速のようにやってくる。一番歳を取ったと思う瞬間だ。
アポイントの時間が近づいて、先生からLINEが入る。もうすぐ着くとのことだったので、受付に伝えておくのでそのまま編集部まで来てくださいと返しておいた。
数分の後、編集部の入り口から「こんにちは」と、先生の声が聞こえてきた。
「あ、鯉登先生」
扉の一番近くにいた社員がそれに反応する。先生は編集部でもよく顔が知られているらしい。
「月島はいるか?」
「いたはずです……あ、ほら」
自分を探す声に死角から顔を出すと、先生の姿が見えた。見た瞬間、普通の格好をしている、と、思ってしまった。既に先生は私の中で着物のイメージが付いていたので、普通の服であるのに、見慣れないな、と思ってしまった。とはいえ、Tシャツ一枚のようなラフな格好ではなく、さらっとジャケットを羽織っているあたり、大人びて見える。背が高いのも相待って、成人したてには見えない。
「こんにちは」
私が言うと、先生も「こんにちは」と返してくれた。それが何故だかむず痒かった。
「お話はあちらで」
騒がしい編集部内に仕切られたパーテーションの先を指す。
「お茶入れてきますね」
「あ、すいません」
先生はペコリと頭を下げた。が、やはりなんだかそれも不思議な感覚だった。
先生を連れて仕切りの中に入ると、先生はすぐに鞄の中から2つの封筒を取り出した。
「これが先日のと、こちらが連載分で、中にデータのUSBもある」
「ありがとうございます。今読んでも?」
「構わない」
「じゃあ失礼します」
ガラステーブルの上の封筒を取った時、妙に重くて思わず中を確認してしまった。封筒の中身は、手書きの原稿用紙……が、30枚ほど。多くないか?とは思ったが、そのまま紙束を手に取った。読むのはそこまで遅くはないが、じっくり読むと時間がかかってしまう量だった。流石に今は軽く読む程度にしよう……と、思って読み始める。前から思っていたが、先生は字が綺麗だ。流れるような文字だがバランスの取れた字で、手書き文字でも全く苦にならずに読める。字のうまさに感心しつつも原稿用紙を読み進める。一枚目、二枚目、三枚目……と、そこまではしっかり読んだが、四枚目以降はパラパラと一気に最後までページをめくった。
「…………?」
思わず机の上の封筒を確認してしまう。机上にあるのは、USBの入った原稿で、いま手に持っているのは先生が著作権云々の理由を書いた紙のはずだ。
「あの……先生……?これ……短編、ですよね?」
封筒の中身が間違っていないかの確認のために聞いたことだったが、先生は「やっぱりそう思うか?」と、苦笑した。
「やっぱり、って」
「理由をうまく伝えようと思って色々とまとめていたら出来てしまったんだ」
不思議だな?と、彼は首を傾げていた。たった三日でこれだ。これが天才か、と、思わず呆けてしまいそうになった。さらに先生は続けて、「まあこれで手を打てないか?」なんていうもんだから、私はさらにポカンとしてしまった。
「いやいや、先生。これで手を打ったらあの話の著作権が先生のものじゃなくなるってことじゃないですか」
「まあそうだな?」
「ダメですよ!」
「いいじゃないか、月島にやるんだから月島の好きにすればいい。出版したかったらしたかったで勝手に出せばいいし」
「えっいいんですか……って、いや、ダメですって。権利とか諸々……それに未完でしょう!」
先生は私が狼狽えるのを見て面白そうに笑った。
「未完の作品だって出版されてるだろう?」
「う、た、たしかにありますが」
文豪の作品なんて特にそうだ。銀河鉄道の夜なんかは有名な未完作品だろう。作者が自ら絶筆してしまったものもある。それでも未完の作品の続きを未練がましく欲しがってしまうのは、読者として続きを読みたいと思ったからである。
「あの話、続きはないんですか」
「続き…………?まぁ……頭の中にはあるが……」
「あるんですか!」
思わず弾んだ声が出てしまった。あるなら読みたい。ひとりの人間の成長物語として成立しながらも、軍記にも近く、更には時代小説も兼ね備えている。司馬遼太郎がまさにそのような作家だった。それほどに先生の作品には惹かれるものがあった。
「ぜひ読みたいです」
「…………」
私の語気が強すぎたのか、先生はスッと黙ってしまった。しまった、押しすぎたか、と、反省していると、先生は私に聞こえるように薄く息を吐いた。
「……前向きに検討しておく」
「ありがとうございます!」
これで利権関係の話は有耶無耶になったような気がしたので、とりあえずは先生に筆を任せて、その間に発刊準備をしてしまおう、なんてことすら思いながら、私は先生に頭を下げた。
先生はまたため息を吐いたが、それは自分に呆れたような声だった。
「先生は筆が早くて助かります。大学の方は大丈夫ですか?」
通話口で、いつもの会話。先生との付き合いももう一年ほど経とうとしていた。
「単位は足りるがゼミがな……ちょっと厳しい……」
「〆切が危なくなったら言ってください。流石に留年してまで書けとはいいませんから」
「そう言いつつ書かせてるのはどこの誰なんだか」
ツンとした声が耳に届くが、その声は怒りではなく戯れているような声だった。
雑誌連載分に重ねて、さらに来月には短編をまとめた本が出版予定だから、先生はさぞかし多忙だろう。大学もきちんと通っているようだし、せっかくだからと単位として必要のない興味のある分野の講義まで受けているらしい。流石に最近は忙しくて単位で手一杯だといっていたが、若者の無限の体力に感心してしまうほどだった。
先生との関係は順調だった。多分それは先生が「大人」だったからだろう。彼と同い年の人間からしても、先生はとても大人びていたし、時折、自分より歳上なんじゃないかと思うほど達観していた。仕事がやりやすいといっては失礼になるかもしれないが、実際、仕事としては大いに助かっていた。
筆も早いし、連絡の返事も早い。
けれどある日突然、本当に突然、先生からの音信が途絶えた。
連絡をしても既読もつかない、電話も出ない。先生の返信速度を考えてもおかしいことだった。ゼミが忙しいと言っていたとしても、だ。これは何かあったに違いないと、私は先生の家へと向かった。いつもいつも不法侵入になる事に後ろめたさを感じていたが、この時は別だった。こんな時の為の鍵だろう。と、焦燥を抑えつつ、先生の家に乗り込んだ。
チャイムを鳴らしても、反応がなかった。反応がない事はいつものことだったが、これは本当に何かあったのかと思って、押し入るように部屋に入った。閑散としたリビングはいつもの通りだった。なんの変化もない。先生がどこかで倒れているものだと思っていたので、そのまま書斎まで向かって、ドアを開けた。
瞬間、煙が中から溢れ出した。同時に強いタバコの匂いがした。
「先生、」
いつもより書斎が散らかっているようにみえたのは、彼がいつも小説を書いている机の上にまで本が積み上がっていたからだろう。部屋を見回すと、来客時に使うテーブルの上に、タバコの吸殻でいっぱいになった灰皿があった。こんな本が多い場所でタバコは危ないのでは、と、思うと同時に、テーブル横の床に転がっている先生が見えたので思わず叫んでいた。
「先生!?」
近づくと、ひどく酒臭かった。私はそれに驚いたし、なぜか彼のことを聖人君子のように思っていた自分にさらに驚いた。
「鯉登先生、大丈夫ですか、鯉登先生??」
恐る恐る触れてみたが、死んではいないようだった。心臓がバクバクと煩く、手が震えるような感じがした。どうする、救急車を呼ぶか、と、逡巡する。
「先生、鯉登先生、鯉登さん、」
呼びかけながら、すこし頬を叩く。意識がなければ救急車を呼ぶしかないと思っていると、彼の目蓋が動いたのが見えた。
「先生!大丈夫ですか!」
「…………ん……」
私の問いかけに、彼は眉を潜めて唸り声をあげたが、目は開かないままだった。
「鯉登先生、救急車呼びますか」
私の声は聞こえているようで、先生は苦悶の表情のまま頭を左右に振った。
「起きれます?」
その返事は返ってこなかった。難しい顔のまま動かず、起き上がろうとする感じもなかった。
しかしだからといってこの場所に転がしてはおけない。だが、書斎のソファーの上はいつものように本で山積みだった。しかも今日はどかす場所すらなく荒れている。寝室に連れて行くしか、と思って、私は先生の寝室に入ったことがないことに気がついた。もしかしたら入られたくない場所かもしれない。けれど今は緊急事態だ。私は転がったままの先生を担ぎ上げて、書斎を出た。