ワンライ(はじめて)「どこ行くんだい?」
突如現れた影が、チェズレイの行く手を阻んだ。
「俺から逃げられると思った?」
「……いいえ」
チェズレイは小さく息を吐き、相棒に諦めのポーズを見せた。
温暖な南の国で、ヴィンウェイで負った怪我の療養を始めて十日ほどが経った。傷は完全に塞がりきっていないものの、ほとんど痛みはなくなり、動き回ることにも支障を感じなくなった。昨日ようやく、モクマの家族への挨拶も済ませたばかりだ。
しばらくベッドの上での生活を余儀なくされ、ようやく得られた自由だ。運動不足の解消とストレス発散を兼ねて、チェズレイはひとりで散策に出た。
だというのに、過保護なモクマによって、すぐにベッドへ逆戻りだ。普段は人の言うことなどろくに聞かないくせに、「なるべく二週間は安静に」などと宣った医者の言葉を、こんな時ばかり真に受けないでもらいたい。
病院で検査を受け、大事を取って一日入院した後は、大きなヴィラを一軒借りて仮住まいとしていた。寝室のキングサイズのベッドにごろんと寝転がる。チェズレイの整った顔には不満がありありと浮かんでいた。
「そんな顔せんといてよ~。きれいな顔が台なしよ? ねっ?」
窮屈なベッドに縛り付けられる気持ちがわからない彼ではないだろうに、何故こうまで過保護なのか。
読書も映画鑑賞も、十日のうちにすっかり飽きてしまった。ルークやアーロンへの謝礼の手配は済ませてしまったし、タブレットで各地の拠点に指示を飛ばしていれば根を詰めすぎるなと取り上げられる。惰眠を貪りすぎて、知的犯罪の申し子とまで謳われた脳が溶けてしまいそうだ。
「退屈でどうにかなってしまいそうなのですよ。こうも毎日ベッドに縛り付けられて、監視されては」
「ん〜。じゃ、こういうのはどう?」
そう言ってモクマが懐から取り出したのは、初めて目にするカードだった。
「行儀のいいお前さんは、ベッドでの遊び方なんて知らんだろ」
キャスター付きのベッドテーブルに、モクマがたくさんのカードをざっと広げる。ざっと数えて、枚数は四十八枚。裏面は朱色。表面には様々な絵が、鮮やかな色で描かれていた。
「花札って知ってる? 昨日実家で見っけてさ、もらって帰ってきたんだ」
「花に鳥、蝶……こちらは月でしょうか。風流なカードですね。似た絵柄のものもあるが、短冊が描かれたりして、少しずつ異なっている」
「そうそう。この札を取り合って、役を作っていく。なるべく相手より強い役を作って、最後に高い点数を取った方の勝ちだ。札も役もいろいろあるけど、お前さんならすぐに覚えられるだろう。暇つぶしにちょいとおじさんと遊んでみんかい?」
いいでしょう、と頷いて、カードの種類と役を教わった。
テーブルの上に場札が八枚、それぞれの手元に手札が八枚配られる。初心者のハンデとして、チェズレイを親としてゲームが始まった。
「あなたは以前ベッドで遊んだ経験が? ……この札、こちらとペアにできるのでしたね?」
「あるよ。昔、里中の子どもが流行り風邪で寝込んじまった時、ひとりピンピンしてた俺は退屈すぎてガコンの家に忍び込んだんだ。……ああ、『柳に鬼の手』ね、合ってるよ」
まあマイカはベッドじゃなくて布団だけども、とモクマが笑う。
「叱られなかったのですか?」
「うーん、忍び込んだことはバレなかったんだが……」
「さすがですねェ。……それで?」
「しっかり流行り風邪もらっちまって、その後しばらく布団から出られなかった」
「フフッ。浅慮でしたねェ」
雑談をしながらゲームは進む。初回はビギナーズラックか、はたまたモクマが手を抜いたのかチェズレイが勝った。このゲームのコツは、重要なカードを優先的に取ることだ。カードの引きは完全に運任せだが、役ができても「こいこい」してゲームを続けるかどうか、勘と度胸が試されるシーンもある。
とはいえ、互いが勝ちを譲らない勝負がしばらく続いた頃、チェズレイはぽつりと漏らした。
「……いささか飽きてきましたねェ」
「げっ……」
「面白いのですが、運任せゆえに単調で、スリルに欠けます」
「お前、ほんとにそういうとこ……」
なにせ世界征服というスリルを日常的に味わっているのだ。何のリスクも負わないカードゲームなど、退屈極まりない。
ゲームを一時中断して協議を行った結果、「負けた方が何らかのハンデを負う」ということで決着した。
そこでモクマが取り出したるは、ルドンゲン空港の土産屋で買ったヴィンウェイ名産の蒸留酒だ。極北の国由来の高いアルコール度数で有名である。
「負けた方が一杯飲むっちゅうことでどう?」
「フェアではありませんね、あなたの方が酒に強いのですから」
「俺はストレートでいくよ。お前さんは炭酸でもジュースでも豆乳でも、好きなもんで割って飲みな」
「お優しいことですねェ。私を潰してベッドに縛り付けるつもりでしょう?」
「逆に俺が先に潰れちまったら、お前はどこにでも行ける。散歩でも、買い物でも、街のチンピラ掃除にでも」
ショットグラスと酒瓶、各種割材とチェイサーの水をテーブルに並べ、さらに勝負は続く。
次に負けたのはモクマだった。「こいこい」したところに、運悪くチェズレイからの倍返しを食らったのだ。
「うげ、やられちまった」
「あなた、五分だとお分かりだったのでは? 私も舐められたものだ。……ではどうぞ、一献」
チェズレイが注いだショットグラスを、モクマは一気に呷る。
「……っは〜! うまいが、さすがに強いな……!」
「酒に鈍った判断力で私に勝てますかねェ」
「次は飲ますよ」
互いに挑発し合い、次はモクマが勝ち、その次はチェズレイが勝った。四〇度のアルコールを飲み続けているうち、どんどん判断力はぐだぐだになっていく。
「フフッ、ハハハッ! モクマさん、それは反則ですよ!」
「ええ~、いいじゃないの、こっちの札も俺のだよ~」
すっかり酔いが回ってしまい、寝室にはケラケラとご機嫌な笑い声が響いていた。
「あ~、また飲まされちまった……。そろそろ酒はやめとこっか?」
気づけばボトルもすっかり底が見えていた。酔っているとはいえ、己の限界を知っているモクマが提案すると、チェズレイは不満げに頬を膨らませた。
「ちょうど楽しくなってきたところですよ」
かの仮面の詐欺師とて、酔っ払うと理性の箍が外れるのか、こうして可愛らしい仕草が目立つ。外で飲む機会はほとんどないので、今のところモクマしか知らないチェズレイの本性だ。
「うんうん、わかるよ~。でもね、それ以上いくと明日がつらいからね~」
「……ではお酒は一旦止めにして、ここからルールを変えましょう」
「うん?」
チェズレイは中身をほとんど空けてしまった酒瓶をサイドボードに避ける。
「負けた方が勝った方の願いをひとつ聞く、というのはどうです?」
「お前それ、ベッドから抜け出す気でしょ」
「こんなにべろべろに酔いが回ってしまった身で、そんな醜態を晒すような真似はしませんよ」
「……もしかして、花札結構気に入っちまった?」
「あなたとの駆け引きはいつだって楽しいですよ」
桃色に染まった頬が、ふにゃりと緩んだ。
結局、趣向を変えてさらに勝負は続いた。
飲み物を淹れてきて。モノマネをして。好きな歌を歌って。とっておきの笑い話をひとつ。願いなどと大層に言っても、互いへの可愛いおねだりだ。『王様ゲーム』という俗な単語がモクマだけの脳裏によぎった。
「アハハハッ! ストップ、モクマさん! それ以上は腹が捩れて死んでしまいます……ハハハッ!」
モクマがもう何度目かわからないお願いを聞くたび、チェズレイはご機嫌に笑った。相棒が無邪気な笑顔を見せるたび、モクマは堪らないほどの幸福を感じていた。
「おや……五光、ですか! フフッ、取らせてもらえないと思ったら、本当に食えない人ですねェ、モクマさん」
花札では最も強い役だ。もしもこの役を完成できたら、さっきからずっと頭に浮かんでは堪えているこの願いを口にしてみようか。配られた手札を見た瞬間、モクマは自分へと流れが来ていることを実感していた。
酒の勢いも相俟って、その言葉は意外とすんなり口から零れ出た。
「キスしてもいい?」
「キス、ですか」
酔いの回ったチェズレイは、その願いを一度で飲み込めなかったのか、何度かぱちぱちとまばたきを繰り返した。
そしてゆっくりとまぶたが閉じられる。
モクマは桃色の頬に、そっと口づけた。
「唇にされるのかと思いました」
「いやあ……さすがにそれは刺激が強いかと……」
そうですか、とチェズレイが呟き、お互いに口を噤む。
次の勝負は、チェズレイが負けた。明らかに手を抜いたとわかる合札に、モクマは困惑する。
「さァ、次の願いをどうぞ、モクマさん」
そう言うチェズレイのまぶたは閉じている。モクマは願いを告げることなく、唇にやわらかな口づけを落とした。
「……酒飲み、本性違わず」
ほとんど唇が触れ合う距離で、チェズレイがささやく。
「つまり、あなたは私と平時からこうしたかったということでしょうか」
「あ~、まあ、そうね……うん、そうかも」
「フフッ……フフフ……! あなたの本性を剥き出しにするのに、こんな手段があったんですねェ」
笑い続けるチェズレイに、モクマの頬までが桃色に染まる。「私にとって初めてのキスですよ」と追い打ちをかけられたモクマは、「もう降参だ」と諸手を挙げた。