世が夜だから数人の男が、重く垂れ下がる雲から隠れるように、何かを引きずりながらやってくる。
ぐったりとした男のようだった。
目的の場所に近づくにつれ、悪態すら忘れて男たちは体を縮み上がらせる。
昼間でも人は近づかない、悪魔の巣窟と呼ばれる城。そこに動かぬ男を引きずっていく。
無礼な訪問を咎めるように烏が盛大な鳴き声と羽音を立てて飛び立つと、男たちはすぐに悲鳴を上げて逃げ出した。
地に放り出された男は動こうとしない。
目玉に尾がついたような悪魔がそれを遠巻きに睨めつけている。
やがて、降り出した雨を遮るように石の塊のような悪魔が男のもとに近付いてきた。
悪魔が男の体を持ち上げ、足だけが地面に触れる程度に引きずって行く。捨てた男たちが戻ってそれを見届けることすらしないのを目玉の悪魔はつぶさに見ていた。
跳ね橋が上がり、鋼鉄の扉が振動とともに閉じる。
男は静かに床に降ろされた。年季の入って赤黒くなった絨毯は柔らかく心地良いなどと感じる間に、雨音すら届かないエントランスに軽い羽音が響く。
ふわりと靡いた黒い影は、着地の足音のように絨毯に吸い込まれることなくそこに現れた。
「ラルフ?」
影が屈み込むと、美しく長い金髪が血と泥に触れる。
「…、城主が入口で出迎える必要はないだろ」
黙って目を閉じていたラルフが顔を上げた。もごもごとした喋り方は、口に溜まった血や泥を吐き出すことを遠慮している様子だ。
城主、と呼ばれた美丈夫は視線を交わして少しほっとした様子を見せた。
「姿を見られなくば問題ない。奥で手当を」
合図に応じ、魔物が再びラルフを運ぼうと巨大な手を伸ばす。抱き上げようとする気遣いの手つきだがラルフは拒否する。
「必要ない。歩ける」
その手を借りて立ち上がるに合わせて出迎えの男も立ち上がる。綺麗なハンカチを差し出されたことに気付くと、ラルフは少し迷った後、口元に当てて口内の汚れを吐き出す。
唾と少しの土に、布地に染み渡るほどの赤。口の中が切れているのだろうが、痛みをおくびにも出さない。
すっきりした様子でラルフは礼を言った。
「汚してすまない。洗って返せればいいが…」
「必要ない。意外とぴんぴんしているな」
「十分休んだしな。寝ていて疲れたくらいだ」
「………」
暴行を受けて引きずり回され打ち捨てられることをそんなふうに表現する男は、悪魔側から見ても常識はずれ以外の何者でもない。
「突然来て悪かったな、アルカード」
お前が自分から来たわけじゃないだろう…と、いい加減アルカードが引いているのをラルフは気付いていないか無視しているのか。端から見ると、努めてあっけらかんと話しているようにも思える。
「でもまあ、正直ここで解放されて助かった。耐えるのも限界に近かったからな」
もう少しで殴り返すところだった、と言いながら、ラルフは本当に自分の足で歩き始めた。わずかなふらつきも寝起きの所作にしか思わせない。
決して強がりでないことをアルカードは知っている。
人に殴られて動けなかったのではなく、抵抗しなかっただけなのだ。コートにはいつもの鞭、ナイフ、小振りの斧まで。人をも殺傷できる武器を取り上げさせなかったのがいい証拠だ。
「軽くとも傷は傷だ。手当をさせろ。それと服も。すぐに準備をさせよう」
「助かる、悪いな」
お前は何一つ悪くない。
怒号になりそうなその言葉をアルカードは飲み込んで、ラルフに合わせて歩を進めた。
※※※
ふたりは魔物の討伐で出会った。
人里に害を及ぼす悪魔を討伐する生業のラルフ、城の秩序を乱した悪魔を討伐するアルカードが偶然野で出会い、協力関係となった。
人に害を加えない吸血鬼。
悪魔と協力する狩人。
ふたりは幾度となく話をし、身の上を語り、世情を共有した。お互いの正体や血筋を知ってもそれは何も変わらなかった。
その時はまだ、この城には主がいた。
「悪魔のしつけはうまくいってそうじゃないか」
倒れていたラルフを城内に運んだゴーレムのことだろう。
「あれはヘクターが俺のために用立ててくれたものだ。俺が使役できるのは…小型の妖精やゴースト、蝙蝠程度。それも魔導器がないとできない」
「そうか」
浅い返答は気にもならない。ラルフが魔力や魔導器に疎いのは知っている。彼自身がそれを扱うための力を持たないからだ。
石造りのゴーレムはすでにエントランスを出て、城周囲の哨戒に戻っている。人だけではなく魔物への警戒のためだ。
──魔物がざわついている。
考えうる理由は、城主ドラキュラの不在。
アルカードの父で真の吸血鬼。その父が消えた理由は誰にもわからない。世を儚む、という言葉があるが、愛する母を失った父は自らを亡き者にしたとでもいうのだろうか。
しかし城主がいなくなっても城は消えなかった。そのため、今は代理としてアルカードが慣れぬ玉座に収まっているというわけだ。
(…だから、ラルフがこんな目に遭わされたのは、私のせいといえるな)
手当をしながら話を聞くと、どうやらはぐれ魔物が幾度も人を襲い、それがラルフのせいにされたようだ。
力を疎まれているラルフはもとから人里を離れて暮らしている。
それがさらに疑念を呼び、不運を何かのせいにしたがる人の弱さと結び付き、こうなった。
「私が悪魔らを統率できぬせいだ。すまない」
アルカードが詫びると、ラルフはそうじゃないと否定する。
「お前の父上とやらも完璧にはできなかったことだろ。第一、人間はそんなに強くない」
にべもなく言い捨てる言葉には、熱さも冷たさも感じられなかった。年は同じくらいのはずだが、ラルフは時にひどく達観しているように感じられる。アルカードが見たことがないものを見てきたのか、立場の違いか。
「悪魔の仕業をなぜお前にあたるかがわからない。吸血鬼が絶対悪ではなくなったのか」
「いいや、吸血鬼も魔物も悪さ。人は人同士助け合って必死に生きている。ただ、その「助け合い」の中に俺は含まれない。それだけだ」
「………」
憤りすら諦めたようなラルフの言葉に、アルカードは黙るしかなかった。
人は生きるために団結し、往々にして異なるものを排除する。
この城にはそうして追われた人間もおり、アイザックやヘクターのように、悪魔精練士として城の維持を担う者までいる。
ではここにたどり着けなかった者は。人の敵として囚われた者は、魔女裁判や人狼狩りなどの名の下に、火炙りか縛り首にされる。
(…それで始末できる魔女や人狼がいたとして、人に抗うこともできない弱いものだけだろうに)
弱い悪魔も、弱い人間も淘汰される時代。隣人が自分に刃を向けない安心がなければ眠ることもできないのだろう。
(だがそのために、人を夜から守ることのできる稀有な者まで排除してしまうのは残念だ。…ああ、ああ、非常に、非常に残念な、なんと…愚かしいことだ…)
「おい、器具を曲げるな。大事な物だろ?」
「……」
傷口を拭うための綿を挟んだピンセットは、金属製にも関わらず、アルカードの指の間で妙な角度に折れ曲がっている。勘で直しても元のような精緻さは見込めまい。
「………アイザックに怒られる」
「素直に謝っとけ」
怒らせると怖いのはヘクターかもしれないが、見咎めてすぐに怒るのはアイザックの方だ。だがアルカードの行き届かない部分は彼らのサポートで回っている。
ドラキュラが消えてから、城では真の主を復活させるための試みを続けている。それがために邪悪な儀式を行っている、魔の根源と言われても仕方のないことだ。
だが城には城の秩序がある。
城の魔物には、人から追われた人々には、力のある城主が必要だ。かりそめの城主では城の魔力を自由に使えず、城は未だ父を主として求めている。
アイザックとヘクターも、ドラキュラを復活させるまでの間だからとアルカードに仕えているのだ。死神は言わずもがな、アルカードはあくまで主の子息であり、ドラキュラの復活を熱望している。
「城に必要なのは俺じゃないんだ」
ぽろり、と思考が漏れる。
誰もいないとき、もしくはラルフといる時は、アルカードの態度も一人称も精神相応のものになる。
本人は不本意だろうが、魔物の上に立とうと肩肘張っている姿よりそちらの方が好ましいとラルフには思えるのだ。
「…じゃあ、ここじゃないどこかに、二人で行っちまうか?」
ラルフの発言にアルカードは目を丸くした。
「……そういう……意味で…、言ったわけじゃない………が」
誰かに必要としてほしいという意味ではない。父の城を守りたい、代わりがきかぬのは父であり、自分はいくらでも替えがきく。事実がそうであると言いたかっただけだ。
ラルフにだから愚痴を言ったのだ。他に何の含みもない。はずだ。
「俺にとって大事なのは、城主とか悪魔とかより、お前がアルカードであることだけどな」
だがラルフはアルカードの言葉に食いついたように言葉を吐き出す。
「さらに言うと、俺とつるんでくれるからだ。
俺は俺の力を必要とされたい。戦いだけじゃなくて…俺がいてもいい場所にいたい、やっぱりそう思う。それをお前に求めるのはやりすぎか?」
ラルフの本音と本気をアルカードは聞いた。
「……お前も城に住むか?」
「悪魔を養う場所に、悪魔退治が生業の俺が?」
唖然としながら話すアルカードに、ラルフは単純に苦笑した。
狩人の力は悪魔と相対するものだ。吸血鬼が絶対悪であった時代に交わされた血の契約と、彼自身の研鑽によるもの。悪魔で満ちた城には異物過ぎて馴染まない。
本来それを振るうはずだった人の中にすら馴染まなかったのだ。
彼は一体どこへ帰れるというのだろう。
「ほとぼりが冷めるまででもいいだろう。悪魔の巣窟に打ち捨てた男が数日で戻れば、今度こそお前自身が悪魔扱いされるぞ」
「…だろうな」
「お前が屈するとは思っていない、が、それでは……」
アルカードは身を乗り出すようにラルフへ言葉をかける。
ラルフも人とぶつかることに疲れているはずだ。人は悪魔に彼の命を奪わせようとまでした。大人しく縛り首にされるつもりもないだろうが、このまま暮らすにはすでに許されないところまできた。
生きるため、ラルフはここを去ってしまうだろう。
それを思うとアルカードはひどく狼狽する。言葉をかけずには、引き止めずにはいられなくなる。
城にいてもしてやれることなどろくにないのに。
城を捨てて共に行くことも到底できはしないのに。
けれど。
「──いなくならないでくれ」
苦悩を突き抜けてその思いが溢れる。
驚いて、それから困って、最後に苦笑するラルフを見ながら、若い半吸血鬼は初めて自分の本当の望みを知った。