かぞくのとびら(The way to say I'm home.)3.
梅雨が明け、気温が二十八度を超えたその日、子供たちの幼稚園ではプールが始まった。
週末のうちに届いたプールバッグや水着に目をキラキラさせ、しっかり名前は書いたのかと何度も僕に確認し(ちゃんと書いたよ!)、二人は元気よく園バスに乗り込んで行った。
二人にとって生まれて初めての大きなプールはさぞかし楽しかったのだろう。その日は帰ってくるなり水の中で玉入れをしただの、大きなボールを投げ合っただの、かわいい報告がとまらなかった。
「ね、ねえ、悠、い、いた、虎杖先生もプール、入った…?」
「はいった!」
「ウワーーー!!!」
「ごじょうさんうるさいです」
「ご、ごめんなさい……」
楽しいこと、嬉しいこと、たくさん経験してほしい。たくさん僕に教えてほしい。
ここはもう、君たちがいたアパートの階段でも公園のブランコでもないのだから。
◇
毎日持ち帰ってくる濡れた水着とタオルをすぐに洗濯機へ放り込み、干して、次の日にまた持たせる。その慌ただしい作業に慣れてきた頃。
朝起きると3人揃って体温が三十八度を軽く超えていた。
なにこれ…?
「所謂、プール熱だねえ」
朝イチで駆け込んだ近所の小児科のじいさんは気怠げにそう言った。
「プール熱…?」
二人がうちに来て初めての高熱だった。ついでに診てもらった僕も、ついでに感染していた。プール熱なんて呼ばれているけど、中身はアデノウイルスなんだから、そりゃプール入ってなくてもうつるときはうつるんだって。知るかよそんなこと。
「自販機サイズのグッドルッキングガイでも小児科で診てくれるんだ…」
五条悟様、と書かれたクマとウサギの可愛らしい診察券をポケットにしまう。
「ごじょうさんも、こどもだったんですね」
「わたしはしってたけどね」
「ちっ、ちがう!断じてちがうから!」
子供じゃないし、それに、
「もう、最強じゃないんだなあ、僕」
二人を車の後部座席に乗せ、エンジンをかける。
「二人ともちょっとだけ待ってな」
エアコンで車内を冷やしながら、幼稚園に休む連絡を入れるためにスマホをタップする。数回のコール音のあと、出たのは偶然、悠仁だった。スマホを握る手につい力が入る。あぶない、昔だったらアルミの塊にしてるところだった。最強じゃなくて、良かった。
『えっ、あっ、五条さん!』
名乗ると悠仁はすぐにいつもの砕けた口調に変わった。電話越しの声に、こんなときでも胸が鳴る。
よく出張先から電話していたな。真夜中でもムニャムニャしながら出てくれて、それなのに僕の方が話してる途中に寝ちゃったりして。帰ってから、怒られたっけ。
なんとか平静を装って、二人同時にプール熱だということと、しばらく休むことを伝えた。
『てゆーかなんか五条さんも声へんじゃない?』
「そんなことないよ」
『え、大丈夫……?ほんとに?』
「ほんとほんと」
なんとなく、かっこわるいところは見せたくなくて、努めて軽い調子で早々に電話を切る。本当はもう少し、あの声を聞いていたかったけれど。
最後に言ってくれた「お大事にね」が頭でリフレインする。僕はシートベルトを締めながら、アクセルを踏んだ。
帰る途中のドラッグストアで処方箋の薬を受け取り、ついでにスポーツドリンクと冷却シートを買う。ゼリーと、あと、何が必要だ…?子供たちを連れて店内を歩くだけでも地面がぐらぐらしてるように感じた。ねえ、僕、生まれたての小鹿みたいになってない?大丈夫?
右手と左手それぞれ繋いだ恵と野薔薇が「大丈夫かこいつ」という顔で僕を見上げた。だ、大丈夫じゃねーよ。薄々感じていたけれど、3人の中で僕が一番重症だ。今度から健康にも気をつけよ……。
家に着くと、僕はソファに倒れ込み、恵と野薔薇はよりによって元気いっぱい遊び始めた。子供は多少熱があっても走り回って歌って暴れる、なんて、僕の人生2周分で誰も教えてくれなかった。
一瞬にしてリビングにはクレヨンと芸術が散乱した。あれ?壁にもなんか描いてない?幻覚だよね?
「絵の横にちゃんとサインも書いておきな……」
そう言うのが精一杯だった。熱のせいで天井が回る。元最強の限界は近い。あとで部下か…シッターを呼んで助けてもらおう。朦朧とした頭で考えながら目を閉じる。
するとその様子に気づいた野薔薇が見様見真似で冷却シートを貼ってくれた。とてもうれしいんだけど……そこは……目です…。自分でそっと貼り直す。
今度は恵が体にタオルをかけてくれた。幼稚園で使っている正方形のハンドタオルだった。ちっっっさ!!
でも、二人ともありがと。
どれくらい眠っただろうか。インターホンの音で目が覚める。宅配便か?何も注文してないはずだけど。新聞?宗教?間に合ってます。
さすがにこんな状態だから無視しようと思っていたのに、野薔薇がダイニングから椅子を運んで乗り上げ、勝手にドアモニタを覗いた。「野薔薇、やめな」と言おうとした瞬間。
「あっ、いたどり!」
……は?
飛び起きて僕もモニタを見る。恵も来た。小さな画面に映っていたのは、野薔薇が言った通り、悠仁だった。そんな、なんで?夢?幻覚?僕、熱何度?モニタの横の受話器を取って返事をする。
「は、はい」
『あー、虎杖でっす』
数時間前に電話したときと同じ、機械越しの声。夢でも幻覚でもない。震える手でオートロックを開けるボタンを押す。1分ほどで、今度は玄関のチャイム音がリビングに響いた。体調のことなんか忘れて、3人揃ってどたどたと広くはない廊下を走る。突き当たりのドアのサムターンを2箇所まわして、U字のドアガードも。手が、もつれる。
勢いよく開けると、悠仁が立っていた。
「ども」
ゆ、
「悠、い、いた、虎杖先生……」
「あ〜やっぱり五条さんもダウンしてた」
僕の額に貼りっぱなしの冷却シートを見ながら、悠仁は手に持ったビニール袋を上げて、ガサ、と鳴らしてみせた。
「お見舞い。ほんとは、こんなのダメなんすけど」
「なんで……」
「なんか、電話の声でそんな気がしたんだよね。丁度俺、早上がりでさ。住所は勝手に見ちゃって、ごめん」
あまり申し訳なくなさそうに軽く頭を下げてから、もう一度僕を見上げる。
「もし迷惑じゃなければ、上がらせてもらってもいい?」
体調が悪いと自分の奥底にある本音が脳を通さずに出るらしい。悠仁が持つスーパーの袋から飛び出しているネギを見ながら、僕は呟いた。
か、
「鴨がネギ…」
「えっ?」
The way to say I'm home.