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暖かい春の夜だった。そこだけ白く凍った地面を赤く染めて、抱き起した身体は体温を失っていく。肌に霜が降り始める。思慮深い光をたたえていた瞳が、とうとう黒いままその光を失っていくのを、ノースディンはただ見ているしかなかった。
やがて黄色い男が、霜に覆われてどこを見ることもなくなった目を閉じてやった。ノースディンが黄色い男を見上げると、黄色い男は首を振った。
その人間は数年前に短い言葉を交わしただけの悪魔祓いだった。あの夜、己の心に従ってノースディンたちを見逃した男。いまでは放逐された、神のしもべ。神が要らぬと言うならこの魂、『吹雪の悪魔』が貰い受ける。
あるいは、これが人間たちの言う『試練』であったのか。神がこの男をまだ導いていたというのなら、天上の国へ連れていくなり、奇跡でも起こすなり、やって見せるがよい。ノースディンはそのような気持ちで悪魔祓いの首に牙をたてた。
神を試す傲慢な態度ゆえか、結末はノースディンの思ったようにはいかなかった。敬虔な悪魔祓いはその身を悪魔に堕とすことはなく、しかしそのまま死ぬでもなく、その場で冷たく凍り付いた。
もういいと満足した男からまだ死ねないと本能を引きずり出しておいて、ノースディンにも黄色い男にも、それをかなえることはできなかったのである。
彼をその場に残して融けるにまかせ、鳥や獣に食わせるのは嫌だった。人間に倣って土に埋め、地中を這う虫の餌にするのは耐えられなかった。火にくべるなどできようはずもなかった。ノースディンは彼を納めた棺を融けることのない氷で覆い、放棄された古い教会に安置した。訪れる者のない神の家は、棄てられてしかし最期まで堕落しなかった男に最もふさわしい場所であるように思われた。
ノースディンが忘れることはない。他の誰かに話すこともない。
黒い杭のクラージィ。その記憶は凍った鉄の針になって、ノースディンの心のいちばん奥に刺さっている。
* * *
「我々は天上の国とは縁遠い――それでもわかるよ。君が彼の国の花園から来た一輪ということはね、美しいひと」
女はうつろな表情で、ありがとうノースディン、と応えた。『氷笑卿』ことノースディンは退治人ギルドの椅子にかけ、女たちに催眠をかけている。口説き文句は精神の鍵を破る針金のようなものだ。ノースディンは女たちに優しい微笑みを向けた。その表情の裏に、二つ名にふさわしい冷淡さを隠して。
ギルド制圧は弟子への抜き打ちテストのつもりだった。自分の居場所は自分の力で守らなければならない。人間たちのあいだで暮らそうとも、吸血鬼にとって信じられるのは血族だけ。弟子は心に刻むべきだ。古来より人間と吸血鬼が共にあったことなど――。
ノースディンの心の奥で、凍った針が疼いた。遠い昔に短く言葉を交わしただけの男が違うと言っていた。わかっているとも、お前だけが違った。ノースディンはギルドの窓から夜空を見上げた。
抜き打ちテストの結果はノースディンをそれなりに安心させた。弟子はそれなりに知恵を絞り、同胞と人間を引き連れ、先頭に立って向かってきた。そのガッツには及第点を与えてもいいだろう。
「街の奴らと、仲良くな」
帰り際、ノースディンは弟子に言った。それが古い記憶に対するノースディンの最大限の譲歩だった。
このようにしてノースディンはシンヨコの街と縁を持った。
ノースディンにとっては人間のふざけた街にすぎなかったが、敬愛する真祖はこの街をいたく気に入って、ちょくちょく訪れているようだった。
真祖はノースディンや古い吸血鬼、街の人間たちを一緒くたに巻き込んだ大騒ぎを引き起こしたこともあった。対抗するために吸血鬼と人間の共同作戦を立案したのはノースディンの弟子だった。吸血鬼たちと人間たちは見事に連携し、騒ぎを収めた。
吸血鬼たちと人間たちの様子を見た真祖は満足げに言ったそうだ。
「良い時代まで、生きた、生きた」
あの春の夜から、二百年近くが経っていた。