欲の深さとその性質ノアという男は肝の据わった御曹司だが、根はどこまでも純朴で心優しく善良な、「普通」の青年だ。成人済みだが、同世代のライダーたちと並んでいると体躯も小さく、青年というよりは少年にも見える。
彼の善良さ――――――いや、お人好しは基本誰彼構わず行使される。
人のお願い事を聞きすぎてしまう所もあるが、それに救われている人間も一定数存在するだろう。「この男なら信じられる」「この人なら弱みを見せてもいい」みたいな甘えと情が入り混じったもの。
そして、そんな「普通」の青年には好きなひとがいる。
しかし俺は十分すぎるほど、普通の青年の好きなひとが「普通じゃない」という事をよく知っていた。
「虹顔花火大会が、もうすぐあるんですよ」
誘いたいんですけどね、と青年はしょんぼりしながら呟いた。俺は相談賃代わりのクッキーをつまみながら、VIPルームで恋の話を聞いている。酒の肴になるような話では無いが、少なくともこのクッキーの甘さには合っている。それに、俺の身の回りにはこういった甘酸っぱい類の話とは縁が無いか、あったとしても遠い昔に置いてきたものばかりである。だから彼の話は一週回って新鮮だった。
しかし、まあ。彼の望みは平凡で、ささやかで、どこまでの普通だったのだ。
「誘ってみればいいじゃないか」
「………返ってくる答えがわからない浄さんじゃないでしょうに」
「ははは、まあね」
仕事じゃなければ人の多く集まるところには行かないだろう。ましてや花火を見て構成要素や火力についてまず考える男だ、情緒も風情もあったものじゃない。
こんな時颯だったら「じゃあ屋台巡りしない?食べ歩きしようよ~!」みたいな切り口で押し切ると思うのだが、目の前の青年にはそこまでの自信と力は無いらしい。まあ、颯のアレは早々誰もが持てるものでも無いと思うけど。
「………そもそも、お付き合いしてるわけじゃないから言いにくいんですよ。で、………デートしてみたい、みたいなこと……」
もじもじしながらそんなことを呟く彼は、小動物のようで可愛らしい。俺は笑わないように気を付けながら返答した。
「いいじゃないか。別のステージに踏み出すための誘いだと思えば」
「それでも、怖いんですよ。つまらない人間だと思われるのが」
俺からしてみれば、ノアはかわいい方である。これがレディだとして―――――相手の好みを考えて、自分の願望を抑え込む。それは健気で、少しだけ可哀想だと思う。
けれどノアの言い分もわかる。確かにアレに「普通」の世界は退屈だろうと思う。
「随分厄介な相手に惚れちゃったなあ。君ならもっと良い相手がいるだろうに」
「……………住んでる世界が違うって、すぐ諦めればよかったんですけどね」
ノアは少しだけ目を伏せる。それから、俺が見た事のない表情を見せた。
「肝心な所が嵌っちゃって、抜け出せないというか。どうしようもなく相性が良い部分を味合わずにはいられないから――――――そのためなら、『普通』のことなんて端に置けてしまうというか」
「…………随分抽象的だな」
「はは……何言ってるんだって感じですよね。僕もです。でも、僕は凡人だから――――――端に置いた『普通』に、目が行ってしまう」
どっちつかずなんですよ、と彼は寂しそうに笑った。
俺としたことが、感情の正体が絶妙にわからない。掴めそうで掴めない、まるで煙の向こうのような存在だ。そこまで考えて喉の奥で笑う。おいおい、そういうのは俺の専売特許だろう。
これからもお話していいですか、と言った彼の顔はすっかり見慣れたもの―――――優しい顔つきの、「普通」の青年の表情で。俺は内心、安堵していた。
「―――――――――しまった………」
「ん?どうしたの浄」
「煙草を忘れたみたいだ。取りに行ってくる」
「………禁煙すればいいんじゃないか?」
「はは、できてたらとっくにやってるよ。じゃあね、颯、宗雲」
「ああ、お疲れ」
「お疲れ様、また明日ね!」
帰っていく二人の背中を見送りつつ、ちらりと「ウィズダム」を見上げた。奥の方にぼんやりとした光が灯っている。確か、明日の仕込みをしてから帰ると言っていたか。忘れ物を取りに行くついでに一声掛けていこう。そんな事を思いながらエレベーターのボタンを押し、最上階へと上がっていく。
スマホに届いたレディからの囀りをチェックしているうちに、アナウンスと共に扉が開いた。
「ん」
先程まで点いていた灯が完全に消えている。仕込みは終わったのだろうか。仕事が早い。
「(ということは……更衣室か)」
どちみち、自分もそちらに用があって戻ってきたのだ。俺は軽い足取りで更衣室へと進み、軽いノックと共に扉を開いた。
「やあ、お疲れ皇紀。仕込みは終わっ、…………………」
「ああ。……………何しに来た」
「え?ああ、うん。忘れ物を取りに来たんだ。…………ところで、皇紀」
すごいな、と俺は呟いた。
皇紀は―――――よりにもよって着替え中の彼の背中には――――――無数の、痛々しい噛み跡が残されていた。鬱血痕よりそっちの方が多い。なまじ白い背中だからか、それらの青紫色は美しくキャンバスに映えている。じゃなくて。
「………………………ああ、」
皇紀は目を軽く伏せて、噛み痕をなぞる。怒りの色は見えない。見られても気にしていない、そんな表情だ。気にしてくれよ。俺が居た堪れない。
「………珍しいな、お前がそういうものを許すの。どれだけ苛烈でワイルドなお姫様だったんだ?」
「…………こっちが噛みついていたら、その気になったらしい。……………」
皇紀は服を着ながら続ける。今日は饒舌だ。………彼は、こんな特殊性癖があったのだろうか。顔や性格に見合わず、暴力的だ。
「…………最初こそ俺が喰っていた。それから、気分でたまに喰わせてやるようになった」
………いや、違うかもしれない。彼は多分、この男の欲望みたいなものを掬い取ったんだろう。食うか食われるか、命のやりとりにも似たひりついた感覚を―――――――狩り以外の場所で、見い出してしまったのだ。
「今は、」
「………………ああいうのに一歩的に喰われるのは、悪くねえ」
『肝心な所が嵌っちゃって、抜け出せないというか。どうしようもなく相性が良い部分を味合わずにはいられないから――――――そのためなら、『普通』のことなんて端に置けてしまうというか』
単純な話だ。お互い、「味をしめた」ということなのだ。
ただ目の前の男は「普通じゃない」から、そういう関係を是とし、満足し。
彼は「普通」だから、そういう関係に満足してはいけないと思っている節がありそうで。
「……………で、お前ノアのどこが好きなんだ?」
「………………………」
流石に睨まれる。睨むなよ。これくらい聞く権利はあるよ、俺には。
皇紀はロッカーを閉めて、いつものジャケットに帽子を被る。翳って表情は見えない。
ただ、俺の脇を通る時にぼそりと呟いた声だけはハッキリと聞こえた。
「あいつといると、三大欲求が全部埋まる」
そういえば体躯のわりに沢山食べるノアを見つめる彼の目は、珍しく満足気だった。
食わせて、喰わせて、寝かせて。お前はどっちかっていうと三大欲求を与えてる方なんじゃないか、と思ったが――――――多分、与えることで満たされるものがあるのだろう。
「(どうしても相性が良い部分、か)」
それが元祖の欲求であれば納得だ。いやはや、なんとも―――――うまくいってないようで、噛み合ってる二人である。
「………でも皇紀、ハードなプレイは程ほどにしておいてやれよ?お前の欲に応えてくれるとはいえ、それはさすがに荷が重いだろうし。例えば首絞めとか―――――――」
「………………………」
「…………まさかもう経験済みとか言わないよな?」