うわばみ「厨房、空いてるか」
「今は―――――――ちょうどお客さんもいないので、空いてます」
「借りるぞ」
すたすたと虹色カフェに踏み込んでいく皇紀さんの手には、何かしらの入ったビニール袋がひとつ。VIPルーム空いてますか、はよく聞かれるけど、厨房が空いてるかについて聞くのなんて皇紀さんか深水くんくらいである。深水くんはレオンと一緒に創作料理をすることが多くて、僕と蒲生くんはよくふたりのチャレンジのご相伴に預かっている。そして皇紀さんはというと―――――大体、お裾分けを調理してくれる事が多い。
「袋、重そうですね。何が入ってるんですか?」
「南瓜だ」
「か、かぼちゃ?なんでまた」
「……久城駆に押し付けられたモンだ。ちっ……面倒くせえ……」
僕は駆さんのいい笑顔を頭に思い浮かべる。そういえば最近、かぼちゃをくり抜いてジャック・オ・ランタンを大量生産してるとかなんとか言ってたような。もしかして、そのくり抜かれた中身だろうか。そんなことを考えながらじっと袋を見ていると、皇紀さんは「仕事でもしてろ」とすたすた厨房の方へ歩いて行ってしまった。
僕はそんな背中を見ながら、先日の宗雲さんとのやりとりを思い出していた。
『一応、お前の耳には入れておいた方がいいと思ってな』
宗雲さんから聞かされた、ハロウィンに起きた事件の顛末。あくまで簡潔に、シンプルに、無駄な事は話さないように。……つまり、どういうことかというと。
『すまないが、俺の口からは皇紀についての情報は話せない。画竜点睛を欠くようで悪いが、こればかりは本人の問題だからな』
皇紀さんの過去が関わったという事件の概要を―――――僕は、全部終わった後に聞いたのであった。
エージェントとして報告されるべき情報は、それだけで良いのだ。カオスも生まれず、事件は解決し、皇紀さんも戻って来た。それで、いいはずなんだけれど。
僕自身は、少しだけ―――――――落ち着かなかった。
「うわあ!」
VIPルームに香ばしいバターの香りが広がる。
目の前には焼きたてほやほやのかぼちゃのパイがあった。それも、ワンホール。
「執事と分けて食え」
「え、いいんですか……!?ありがとうございます!美味しそう……!」
きらきら、ほくほくと光るそれを見ながらも、僕の心と視線はどうしても隣に座る彼に行ってしまう。聞きたい。何があったんですかって。過去を知る犯人……その人と皇紀さんは、どんな関係だったのかって。一体これまで、どんな人生を送ってきたのかって。
あなたの本当の名前はなんですか?って。
「(なんて――――――言っても教えてくれるわけないよな)」
そもそも教える義理は無いし。さっきも思ったけれど、エージェントとしては聞くべき情報は聞いたのだ。これ以上踏み込むのは野暮というものだ。
そんな事を思いながらパイを切り分ける。さくり、というパイ生地の音。パイ特有の、軽やかでワクワクするいい音。きっとレオンも喜ぶ。これだけあるならスタッフさんにも分けられるな。でも、とりあえずはふたつ切って。
「―――――――はい、皇紀さんの分。一緒に食べましょう」
「……味見はしたぞ」
「僕は皇紀さんと一緒に食べたいんです」
「…………ちっ。仕方ねえ…………」
舌打ちはしたものの、皇紀さんは素直にずっしりとしたパイが乗せられた白いお皿を受け取った。それを見届けてから向かいの席に座り、手を合わせる。
「いただきます」
「……………」
銀色に光るフォークで一口ぶんの三角形を作り、口に運ぶ。舌の上でなめらかな優しい甘さが広がり、噛めばバター香るパイのさくさくとした触感が楽しませてくれる。
「やっぱり皇紀さんの作る料理は美味しいですね……」
仕事の疲れが吹き飛ぶ甘さだ。それで僕の中のもやもやも吹き飛んでくれればいいのだが、そういうわけにはいかなかった。
そして、ふいに。皇紀さんの視線に気づいた。
「………………」
「…………皇紀さん?」
向かいの席から彼がじっとこちらを見ている。心に疚しいものを抱えた僕は、蛇に睨まれた蛙のような気持ちになった。
「………あの、」
「言いたい事があるならハッキリ言え。視線がうるせえんだよ」
……言い方のわりに、そこまで怒っていなさそうな声色だった。
僕は口の中に残っていたパイをごくんと呑み込んで、罪の告解を始める。変に隠し立てをするよりは、素直に喋ってしまった方が良い。彼との長くはないが短くもない付き合いの中で学んだことだ。
「…………あなたの過去が、知りたいです。これはエージェントとしてではなく、僕個人の……………その、」
願望と言うには、多少きたならしいそれは。
「…………欲望、で」
「……………」
「あなたの過去が知りたい。あなたの名前が知りたい。あなたの名前を、呼びたい。…………あなたを、暴きたい。ごめんなさい、本当に」
けれど、僕は欲望だけの生き物ではない。暴、一辺倒にはなれない。理性があるから、元々の性格があるから、そうなるのは避けたいと心から思ってしまう。
「…………それでも僕はあなたを大切にしたい。尊重すべきだと思う。これは、人間として当然の気持ちで。…………つまり、ええと。どうしていいか、わからなくなってます」
これが全部です、と言った二秒後には僕は溜息を吐き、がっくりと項垂れていた。素直になりすぎてしまったかもしれない。処刑を待つ罪人のように、心臓が嫌な鳴り方をする。
「…………ノア。」
「はい」
「俺は、お前に俺の過去を話すつもりは無い。…………この先も、だ」
「…………はい。」
明確な、わかりやすい線引きをされてしまった。個と個の間に引かれるべきもの、普段は見えないもの。けれど今のこれは、なによりも目立つ線だ。けれど、……ショックを受けている反面、ホッとしている自分がいる。踏み込んではならない場所をわかりやすく設定してくれたから、だと思う。
……………知らないことを知らずに済んだから、というのも。あるかもしれない。
「(矛盾してるな、僕……)」
踏み込みたいと思ったり、怖がってしまったり。これが他の人なら、ここまでぐるぐると悩まなかっただろう。皇紀さんだからだ。僕の、好きな人だからだ。
「……変な事言ってしまって、ごめんなさい」
「……………………」
皇紀さんはじっと僕を見る。まだ、何があるのだろうか。おずおずと彼の視線に応えると、彼のかたちの良い唇が動いた。
「…………皇紀、だ」
「え」
「呼ばれるならそっちがいい。ほら、呼べ」
「え、と……皇紀、さん?」
「もう一回」
「皇紀さん、」
「もう一度」
「皇紀さん」
「………………………………よし。」
皇紀さんは。本当に満足そうな笑みを浮かべて、目を細めた。
その、世界の宝石を集めたとしても叶わないような美しくて、蠱惑的で、彼にしては素直な笑みに僕の心臓はどきんと音を立て、胸の中を泳いでいた安堵感や不安、欲望といった感情がしゅるしゅるとほどけていく。
こんな、こんな顔をするのなら。こんな顔が見られるのなら。
きっと彼は、「皇紀さん」でいいのだ。それが、正解なんだ。
僕は席を離れ、向かいに座る彼の前に立つ。そうしてずっとずっと至近距離で、彼を呼んだ。
「………皇紀さん、」
「…………ん、」
声が漏れる。失礼します、と前髪に指を絡め、額にひとつキスを落とす。許される。
「………皇紀さん。」
そうして僕は、彼の唇にキスを―――――――
「もが」
――――――――――落とせなかった。彼の手で僕の口ごと塞がれたからである。
「食い物がある場所で盛んじゃねえ」
「む、ももが、もももが」
「あ?」
「―――――――っは、さ、盛ってませんが…………!?」
完全に失速した僕は真っ赤になりながら言い訳をする。今のは完全に親愛的な意味合いだったでしょう、みたいな事を言えば「どうだかな」とせせら笑う。
「欲望とやら、滲んでたぞ」
「~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」
僕は声にならない叫びをあげて、猫背気味に向かいの席に戻る。そうしてパイと再会を果たし、二度目のいただきますをした。相変わらず美味しい。美味しいんだけど、なんだか据え膳な気分だ。いや、本当にそういう気はなかったんだけど。…………無かったと思う。恐らく。多分。きっと……
「ノア」
「今度は何ですか…………」
「明日の仕事終わりだったら相手してやってもいい」
「はあ…………はあ!?!?」
くつくつと、こちらを揶揄うように笑う毒蛇を見て。
多分僕は、この人にはずっと勝てないんだろうな……とぼんやりと思ったのである。