蛇に婿入り今となってはもう、あれが夢だったのか現実だったのか思い出せないけれど――――――
僕の記憶には、「大きな蛇を逃がしてあげた」というものがある。
僕が五歳くらいの時の話だ。珍しく僕は母に手を引かれて、動物園に遊びに来ていた。大きな象やカバ、勇猛なライオンや背の高いキリン、ふれあいコーナーのモルモットやうさぎ。どの動物も可愛くて、格好良くて、僕はすっかり彼ら彼女らの虜になっていた。けれど、一番うれしかったのは―――――普段、忙しくてあまり構ってくれない母が、僕のために時間を割いてくれたことだった。それは幼い僕が、常日頃から抱いていた寂しさの穴をそっと塞いでくれるような一日だった。
さて、何があったかは忘れてしまったが―――――そんな母が、数分だけ僕の隣から離れる時間があった。仕事の電話が入ってしまったのかなんなのかはわからないが、ずっとそばにいてくれるはずだった人が少しでも離れて行ったのが悲しくて、寂しくて。僕はやり切れない気持ちになって、じわりと瞳に涙が滲んだ。
その時だ。目の前の檻から、声が降って来たのが。
『おい。』
顔を上げる。そこは、動物園の端っこにある檻だった。何が暮らしているのかわからないぐらい樹が茂っていて、地面に寝そべっている生き物もいなければ木にしがみついてる生き物もいない。きょろきょろとあたりを見渡していると、もう一度声が聞こえた。
上だ。木の上に、いきものがいる。
『泣くんじゃねえ。面倒臭ぇ』
木の隙間から白く美しい胴体が見えた。あのきらりと光るものは、鱗だろうか。じゃあ、この木の上にいるものは―――――――蛇?
「蛇さん、ですか」
『……………だったらなんだ』
「鱗が、きれいですね」
『……………………』
「………大きい蛇さん、ですか?」
『ああ。お前なんか一口で喰えるぐらいにはな』
蛇の声には、紛れもなく楽しさのようなものが滲んでいた。五歳の僕は、そわりと背中が泡立った。だって一口で食べるなんて言うから。けれど、どくどく鳴る心臓はけして恐怖だけではなかった。
「……………声も、綺麗ですね………」
『……………は?』
「ねえ、蛇さん!蛇さんってどんな顔してるんですか、どんな上半身してるんですか!?」
見たいです、見せてくださいと僕はお願いした。木の上からは沈黙が降り注ぐ。しばらくのち、蛇は言った。
『…………お前が望むような外見はしてない』
僕は蛇が言っている意味がよくわからなかった。だって、蛇と言えば絵本やテレビで見るようなあのかたちが普通で、個体差なんてあんまりないと思っていたから。僕が変な顔をしていたのに気づいたのか、く、と笑う声が聞こえた。
『……………なんて顔してんだ』
いいぞ、と蛇は言った。
「え。」
『いい。顔も体も見せてやる。その代わり、条件がある』
「な、なんですか?僕、なんでも聞きます!」
『俺をここから逃がせ。逃がしたら、お前を喰わせろ』
――――――――――五歳の子供に強請るには、とんでもない条件だった。
けれど五歳という年頃は、今考えると「おっかない」。なにせ理性は無いし、行動力だけは有り余る。だから僕は条件に対して、勇敢に発言した。
「待ってください、ふたつある。だったら僕のおねがいも、もう一つ聞いてください」
『…………なんだよ』
「僕のお嫁さんになってください!」
今度こそ、蛇はあっけに取られた。僕の通っている幼稚園の友人が、僕がほのかに思いを寄せていた女の子と「おつきあい」を始めたらしい。僕は嫉妬心だとか友人に先を越された悲しみだとか好きな子を先に取られてしまった悔しさだとかでしっちゃかめっちゃかになった末に、五歳児にしてはませすぎている考えに至った。
「誰でもいいから付き合いたい」。これである。
ただ園児ならではというかなんというか、同い年の同じクラスの子はイヤだった。理由は簡単、恥ずかしかったから。誰かにばれた時に茶化されそうだから。今の年齢で考えると、まったくこの年頃の子供というのはよくわからない。ただ、この「わからない」が全部成立するのがこの年頃の子供だと言われてしまえば―――――そうかもな、と思うのだった。
蛇は少し思案した(ように思えた)。そうして数十秒間無言になったのち、口を開いた。
『夜になったらまたここに来い』
五歳児がどうして夜に動物園に行けたのか、それがわからない。だからこそ僕はこの出来事が夢なんじゃないかと疑っているのだが、ともあれ僕は―――――いつもなら熟睡している、月の高い時間に再び動物園に訪れた。
鍵の作りは妙に簡単で、かちゃかちゃと弄ればすぐに解けるものだった。重い、重い扉を一生懸命に開けば、ぎいと夜にしては大きな音が響く。他の動物に気づかれないかとはらはらした。人に気づかれるとは、全く思っていなかった。
「ひ、開きました」
『―――――――――――ああ』
どさ、と蛇が木から降って来た。
月明かりに照らされた蛇は―――――――長く伸びた、蛇の下半身を持ち。鍛え上げられた人間の肉体を上半身に持ち。
それはそれは美しいかんばせをした、男だった。
僕はごくんと唾を飲み込む。僕は、このひとに、このへびに食べられるのか。
「…………おくち、小さいですね」
「…………驚かねえのか」
僕は驚いていた。人間の体に蛇の体がくっついてるなんてことも、「それ」が動物園にいることも未だ信じられない。けれど僕の頭はとっくに深い思考を諦めて、「その小さい口じゃ僕なんて丸呑みできないんじゃないかな」なんて思っていた。それとも、今見ているこの姿こそが夢で、本当のすがたは全部が蛇なんだろうか。それならきっと、僕なんて一口で食べられちゃうに違いない。
僕はそんなことをぽつぽつと呟く。蛇は、無言でそれを聞いていた。蛇は肯定も否定もせず、僕の顎をそのきれいな指ですいと掬う。どきり、と心臓が高鳴る。
そうして、一言呟いた。
「食い出が無ぇ」
「は?」
「てめえみたいなチビ、喰った所で間食にすらならねえ。」
「―――――――――は、」
僕はなんだか、ふられた気分になった。蛇は僕のことなんかお構いなしに、僕に背を向ける。
「あの、どこへ――――――」
「さあな。ただ―――――せっかく自由になれたんだ、精々楽しんでやるよ」
「………お気をつけて」
蛇はその白く長い下半身をするすると動かし、僕の元から去っていく。彼は僕を食べなかった、それは良い。彼は僕の「お嫁さん」になってくれなかった。それは―――――――なんだか、不思議と安堵の感情と悲しさが同居していた。
だからだろうか。僕は、彼の最後の一言を聞き逃したのである。
それから、ざっと十数年。僕は二十歳になり、大学からの帰り道を歩いていた。
「…………………あ、」
ふと顔を上げれば、恐らく今から出勤と思われる派手な容姿の男たちが四人歩いていた。
「(………ホストかな。これからお仕事か、大変そうだなあ)」
上品で美しい男。眼鏡の男。派手な髪色の、明るそうな男。
そうして最後尾の男を見た瞬間、僕の歩みは止まった。
「―――――――――――あ、足がある……………」
「あ?………………、……………」
あの時の蛇が、二本足でそこに立っていた。
僕は二の句が告げなくなって、街中で顔の良い男を前にフリーズするという奇行を犯す。あれは、夢だったのか。それとも朧げな記憶だったのか。長らく考え続けてきた問いが、目の前にいる。口を開こうとした瞬間、男がつかつかと歩み寄ってきた。
「久しぶりだな」
「…………………………、……………」
「………っは、なんて顔してやがる。間抜け面」
間違いない。声も、顔も、全部。全部あの時のままだ。どくん、と心臓が鳴る。この高鳴りは緊張だろうか、恐怖だろうか。いいや違う。きっとあの声を聞いた時から、鱗に反射する月明かりを見た時から、この美しい顔を目に焼き付けた時から僕は、きっと―――――
「……………お前、名前は?」
「………ノア、です」
「ノア。…………随分、マシな肉質になったな」
「な、」
何年前の話ですか、と僕は言った。そこでようやく僕は―――――あの日聞きそびれた、しかし耳には入ってきていた最後の言葉を思い出した。
『……………お気をつけて。』
「…………てめえがもう少し育ったら、喰ってやる。」
「………………………つがいにだって、なってやるよ。」
「あ。」
僕は目の前の蛇を見つめる。蛇は心底楽しそうな顔で、僕を狙う。僕は―――――どんな表情をしていたのだろう。僕が器用だったら多分、青ざめて、赤らんでいる。
「あの、子供の頃の僕の戯言ですと、その。食べ物とつがいと言うのは成立しませんが」
「蟷螂は交尾の後に雌が雄を喰うだろ。両立する」
「―――――――――――…………」
「…………で、どうする?」
僕は色々なものと今の状況を天秤に掛ける。ついでに、軽率な行動をした五歳の僕を叱りつける。けれど。しかし。このスリリングという言葉に収めてはいけないほど危険な状態に僕は―――――――
心底、興奮していたので。
「……………よ、よろしくお願いします。」
僕は。二十歳にして――――――蛇のお嫁さんを、貰ってしまったのであった。