出られない部屋 ロドスにはまことしやかな噂がある。
曰く「セックスしないと出られない部屋」が艦内のどこかにあるという。本当であれば強姦や暴行の被害が出る可能性があるので威信をかけて撲滅するのだが、幸いにしてそんな届け出はなく、酒の席の冗句の域を出ない。
でないはず、ではないのか――
「出られない……」
ドクターはごちん、と開かずの扉に額を押し当てた。
お疲れモードのシルバーアッシュが訪ねてきたので休憩室を宛がおうと思ったのだが、間が悪いことに稼働中の部屋はすべてイェラグのメンバーの誰かがいた。
シルバーアッシュ家のご領主様がいてはお互い、寛げまい。ドクターは整備中の休憩室にシルバーアッシュを案内した。備品の段ボールが重なり、少々、空調の効きが悪いのだが、雪山出身のシルバーアッシュにとってはむしろ適温で、彼はかれこれ二時間ばかり、特大サイズのベッドで安らかな寝息を立てている。
ドクターも誰にも邪魔されない秘密基地を得たような気分でPRSTを弄り、実験材料護送のシミュレーションなどしていたのだが、端末充電が切れてしまったため、やむなく立ち上がる。
出入り口のセンサーにIDカードをかざしたのだが、センサーは「解錠条件を満たしていません」と言うばかりなのだ。
PRSTの充電も切れたため通信手段がない。非常用の内線も整備中のため備わっていない。
このままじゃ艦内放送でWANTEDされてしまう。すごく嫌だ。ダメ元で何度目かのID認証をかけるが。
「解錠条件を満たしていません」
現実は無情だ。冷たい扉に額を押し当てて解決手段を考える。
そんなドクターの脳裏にある考えが閃いた。
「セックスしないと出られない部屋……?」
薄い唇を撫でながら呟く。この部屋にほかの誰かがいたのなら、理性剤の服用を勧めてくれたかもしれないが、あいにく、ここにはドクターしかいなかった。
ドクターは凝り固まった首を巡らせ、特大サイズのベッドに横たわるスリーピングビューティを見やった。
まごうことなくビューティだ。
ドクターのフードの中で優秀な頭脳が亜光速の迷走をしていることなど知るよしもなく、長い睫が震える。柳眉がしかめられ、大きな手が目元を擦る。喉の奥で唸り、寝返りを打ってうつ伏せる。長い膝下と尻尾が持ち上がり、パタパタと揺れた。
「水をくれないか」
ドクターに見られていることなどとっくにお見通しだし、備品の中に水のボトルがあることも知っているし、寝起きの気だるい声でお願いすれば甘やかして貰えるとしっかり学習済みのシルバーアッシュだ。ドクターは無言で彼に水のボトルを差し出す。不遜な美丈夫が唇の端で微笑む。
そっか、私は彼とセックスしないとここから出られないのか、と水を飲んで上下する大きな喉仏を見てドクターは悟った。
カランドの神はこの瞬間、途方もない誤解の気配を察知したが、放置しておいたほうが後々国のためになるだろうと介入をやめた。疲れるし。
だからドクターはそそそ、とシルバーアッシュの寝そべるベッドに近づき、腰掛けた。ベッドヘッドに背中を預けてボトルを傾けていたシルバーアッシュが片眉を上げた。
ドクターはそのふっくらと膨らんだシャツの胸元に、そ、と手のひらを置いた。
「あったかいね」
シルバーアッシュは目を見開いた。筋肉の少ないドクターはいつもひんやりしている。なんて冷たい手だろうか。
そして、紅潮した頬に潤んだ目に、はにかみながらわずかに上向くその微笑はなんだ盟友。
まるで据え膳のよう、などという連想をシルバーアッシュは速やかに脳裏から叩きだした。そんな自分に都合の良い現実があるわけない。
「お前にとっては冷たい気温だっただろう」
盟友はきっと暖を求めているだけに違いない。シルバーアッシュは逞しい両腕と長い尻尾でドクターを抱き寄せ、身長の割りに薄べったい身体を抱き込んだ。
よしよし、と大きな手で後頭部を撫でてやる。
「……」
ドクターはふかふかのお胸に抱かれながら第一フェーズの失敗を悟った。
まさか取引先のCEOに強姦や暴行の容疑で訴えられる訳にはいかないのだから、この部屋を出るためにはぜひとも彼に「その気」になっていただかなくてはならない。
恥じらっている場合ではないのだ。全力で誘惑をすべきである。
「とってもあったかいよ、シルバーアッシュ。ありがとう」
腕の中で、彼を見上げてにっこり笑う。
その手でそう、とシルバーアッシュの白皙にかかる柔らかな髪を撫でてやる。
「でも君は、もっとあったかくなる方法を知っているんじゃないか?」
ぱちくり、とクォーツの瞳が瞬いた。風圧の起きそうな睫である。
見とれている場合ではない。ドクターはシルバーアッシュの顔の輪郭を指先で辿りながら、もう片方の手で上等なシャツのボタンをひとつ、外した。
よし、怒られない。払いのけられない。
「ねえ、もっと、私を暖めて……」
ドクターはフードを背中に落とし、はだけた胸元に頬をすり寄せた。
すべすべ、むちむち、あったかで、素晴らしい肌触りである。
「どうした、まるで迷子の雛のようではないか」
シルバーアッシュは自分がお兄ちゃんでよかったと心から思った。
鷹揚で優しげな声を出すことなら、小さな妹たちを育て上げる時にさんざん訓練した。だからこそ可愛い盟友が素肌に頬ずりする様を見ても平静を装うことができる。
整備中の休憩室を開けてくれて、傍らにいてくれて、だからこそ冷え切ってしまった盟友が暖を求めているのだ。彼とは対等でいたい。彼とは友好的でいたい。そのために誠意を象徴するオリジニウム水晶だって渡した。大切な盟友だ。劣情を催すなんて間違っている。
素肌を盟友の髪がサラサラと擽る。冷たい頬は案外柔らかい。しかしもう少しお肉があったほうがよい。いいや、感触を味わっている場合ではない。だというのに盟友は、
「茶化さないでくれ。もっとちゃんと、……君に抱かれたいんだ」
真っ赤に熟れた頬をぎゅう、と押しつけ、非力な手でシャツを握り、恥ずかしくって目も合わせられません、といった風情ですがりついてくる。
思わず、シルバーアッシュはぎゅう、とその身体を抱きしめてしまった。
――もう、勘違いしたことにしてしまおうか……。
だってこれが特盛りの据え膳じゃなくてなんだというのか?
シルバーアッシュは、己の腕に抱いた盟友が「そっちの抱くじゃないんだよ!」って全力で突っ込んでいることを知らない。こんなに直接的に言っているのに伝わらないとは、とドクターが弱り切っていることなどしらない。ドクターは眉を下げながら、か細く訴えた。
「そうじゃないんだ、シルバーアッシュ……」
誘惑なんてしたことないので、恐ろしくって震えてしまう。でもでもだってしょうがない。ここを出て行くためだもの。
ドクターはそろり、といつものコートの前を開く。白衣の下に着ているカッターシャツの第二ボタンを外す。
震える指でひとつずつ、ボタンを外し、やがておずおずと自分の薄べったい胸を彼に晒した。
「もっと、ちゃんと、君を感じさせてほしい」
こんな身体で誘惑なんてできるのだろうか。もっとちゃんと身体を鍛えて、彼のようなふかふかのお胸を作っておけばよかった。
後悔は先に立たず。ドクターは羞恥に縮み上がりながら、カッターシャツを左右に開いた。
「抱いて……シルバーアッシュ」
再び同じ文句で訴えるのは、滑ったギャグをもう一度言わされるような恥ずかしさがある。
これで伝わらないならもう一か八かちんちんを握ってしまおう、とドクターが決意しているなど分かるわけもなく、シルバーアッシュは差し出された胸板を4K画質で脳裏に刻み込んでいた。
――ピンク……。
なにとは言わないが、唇と同じ色をしていた。
砂漠を彷徨う旅人がオアシスを見つけた時のように、吸い寄せられそうになったシルバーアッシュの視界の隅で、チカ、と何かが反射した。
ドクターの胸骨の上に、似合わず大ぶりのペンダントトップが揺れている。彼に贈ったオリジニウム水晶だ。
これをペンダントに加工するといったら工房の人たちに正気を疑われたぞ、とドクターが苦笑していたところが思い出された。
でも、身につけておきたかったんだ、と彼は言っていた。
しまい込んでおくには美しすぎる、と。その水晶を気に入ってくれた。
君のふるさとと同じ輝きだ、と慈しむように水晶を撫でていた細い指先。
シルバーアッシュは水をかぶった犬のようにぶるる! と震えた。
――正気に戻れ、シルバーアッシュ。
大切な大切な盟友が、こんなにも震えているではないか。
衣類越しの体温では足らず、素肌を晒しているではないか。
この聡明な盟友が、人肌で体温を維持するためには衣類ごしでないほうがいいと知らない訳がないではないか。
それを、情交の誘いであると誤解するなど、誠意を象る水晶の輝きも失せるというものだ。
こんなにも震える盟友を、こんなに寒い部屋に置いておいて良いわけがない。
シルバーアッシュは妹たちのお世話で鍛えた速度でドクターのシャツのボタンを留め、コートのファスナーを首まで引き上げた。
「えっ」
「出るぞ」
「えっ」
片腕でドクターの尻を支えて抱き上げ、扉へと向かう。
「わ、わ、まって、まってシルバーアッシュ、その扉は開かないんだ、私たち、閉じ込められたんだよ!」
「なるほど。お前が私で暖を取ろうとした理由はそれか」
長い足が一振り、素足の踵が思い切り扉にたたき付けられた。
ベッドから出てそのままの素足とも思えぬ音がした後、金属製の扉がひしゃげて廊下に転がった。
「わ、わあ……」
「いくぞ、盟友。医療部だ。低体温症にでもなっていたら事だ」
行き場のない性的鬱憤が鋭い一蹴りになったことなどドクターは知るよしもない。
裸足のシルバーアッシュがドクターを抱えてズンズンと医療部へ向かっていくのを、ドクターはとどめることができなかった。
かくして、ロドス「セックスしないと出られない部屋」事件は事なきを得たのだった。
休憩室の扉はカランド貿易の出資によって密閉の危険のないものに取り替えられたが、胸元をはだけた旦那さまがドクターを抱えて裸足でロドスを闊歩した件については、多方面から鬼詰めされることになった。
END