2025-06-12
軍議が終わって、皆が三々五々に散っていく。俺も立ち上がった所でビクトールに呼びかけられた。二人で完結するような小さい確認事項をいくつか問いかけられ、少し考えて返事をする。
一つはもしかしたらシュウの判断を仰いだほうがいいかも知れない。メモとペンを取り出した所で、カミューが戸口から言った。
「フリック、先に行っていますよ」
「すぐ行く」
騎馬隊は結局自分を中心に組織されてしまったが、マチルダ騎士が加入して随分と楽になった。片付けねばならない仕事の山の量が分散されただけでありがたい。
カミューとマイクロトフが会議室から去れば、残ったのは俺とビクトールだけになる。カミューの背を見送ったらしいビクトールは、俺に視線を戻して首を傾げてみせた。
「今日はそんなに遅くならないか?」
「たぶん」
軍議がある日は派手な演習をしない。どうせ午前中は丸まる会議で埋まるのだから、そのまま執務室で編成会議に入るのが常だ。最近は人の増える勢いが増しているから、いくら組んでもすぐに変更が入る。
取り出したペンで頭をかき、先ほどの懸念事項を記録していく。
ビクトールはと言えば、何か言いたげにこちらを見ていた。
「お前も仕事に行けよ」
「行くけどよ」
ほかに何かあるだろうか。先ほどビクトールが上げた確認事項を頭の中で並べてみても今一つ思いつかない。何にもないならカミューたちと合流しようかな。筆記用具を懐に仕舞い、ビクトールに一声かけて歩き出そうとしたところで、ふいに手を取られた。
引き寄せるでもなく、むき身の手をビクトールが握っている。剣を握り慣れた掌は固く、豆の潰れて治るより前にさらに握り続けた跡がある。分厚い皮膚の舌にしっかりとした骨があって、随分と力強い。
いくらでも握りしめられるだろうに、ビクトールの手はまるで姫様のたおやかな手でも握るかのように、そっと俺の手を取っている。
「なんだよ」
私室以外でビクトールが俺に触れてくるのは至極珍しい。
「今日の夜、夕飯は部屋で食わねえか」
「……お前と?」
わざわざそんな誘いをするなんてさらに輪をかけて珍しい。約束なんかしなくても大概食てれば来るし、来なかったとしても気にも留めない。
「そりゃ俺と。好きなもん買ってさ」
ゆっくりしている時間がない時はレストランのテイクアウトを頼むことだって珍しくはない。ないが。
少しだけ考えて、まあいいか、と頷いた。予定がないのだから、別にビクトールに付き合ったって悪いことは何もない。俺の返事に、ビクトールはなぜか安堵の表情を浮かべた。断られることが怖いなんて、まるで子供みたいだ。
「じゃあ、夜に部屋で待ってるな」
「……おう」
リボンでもほどけたみたいな感触で、ビクトールの手が離れた。上機嫌で歩き出す男と会議室の前で別れ、騎馬部隊の執務室へ速足でむかう。
出迎えてくれたカミューが、真ん中の大きな机を片づけながら言った。
「なんの話をしていたんです?」
「今日の夕飯、一緒に食おうって」
口に出してみれば、本当になんてことはない約束だ。いったい何のつもりなんだろう、と首を傾げた俺に、カミューは微笑む。
「何か大事なお話でもあるんですかねえ」
「大事な……あ」
一つ思いつき、有り得ないだろと打ち消そうとして失敗した。
カミューがくつくつと小さく笑う。
こないだ、あいつの望みを聞いた。今は唇が触れ合うだけの子供みたいなキスをねだるだけだとしても、もっと熱っぽい望みが山とある。口の中を暴くような、腹の内をさらけ出すようなそれを、ビクトールは望んでいるとはっきり言った。
一つ一つ段階を踏むように、あいつははっきりと口にするに違いない。
キスをしていいか。もっと、深い、舌を絡めるようなもっと熱っぽいキスをしても構わないか。
頬をこすった。全然違うかも知れない。カミューの勘違い、俺の早とちりかも知れない。
ビクトールは純粋に、たまには二人でご飯を食べたいだけかもしれない。
その望み自体が、割ともう甘ったるいな、ということには目をつぶるとしても、全部勘違いかも知れないじゃないか。
だというのに、仕事中だというのに、まったくひどく動揺していて、本当に子供みたいで嫌になる。