秘密 篠森が木蓮館の事務室の扉を開けると、室内から流れ出る冷気が頬を撫でた。
灼熱地獄のような外の蒸し暑さ、廊下の生ぬるい空気に比べれば、そこは天国のように涼しく、シャツを捲りあげた腕や普段よりひとつボタンを多く外した首元、じとりと汗ばんだ肌が冷やされるのは随分と心地がいい……が。
眉を顰めて、扉を閉じる。すぐさま机の上に放置されたリモコンの設定温度を確認すれば、節電と健康を考えて篠森が定めたものよりも三度も低かった。
――勝手に設定を変えたのは、いいかげんな音監か、考え無しのコンミスか、あるいは他のメンバーの誰かか。
眉間のしわを深めた篠森は「まったく」と小さく息を吐きながら、すぐさま設定を元に戻した。リモコンも机の上へ戻し、椅子に座ろうとしたところで、ソファーの上、体を小さく丸めて横になって寝ている女子生徒の姿に気づく。彼女は半袖とスカートから覗く白い手脚を擦り合わせながら、時折ふるりと肩を震わせている。
「一体いつから…… 」
設定を変えたのはコンミスだったか、と把握すると共に、篠森は呆れのため息をつく。再びリモコンを手に取ると今度は停止ボタンを押した。
――いくら今日が猛暑日とはいえ、閉めきった室内で冷房をこうも効かせ続けていれば始めは心地よくとも、じきに体も冷えるだろう。外から来て汗をかいていたなら尚更、気温差で体が弱ってしまうことも、風邪を引いてしまうこともあるというのに。そんな中、あろうことか寝てしまうなど。
「コンミス、起きろ」
小言を思い浮かべながら掛けた声は低く鋭さを含んでいたが、朝日奈はううん、と小さくうめくのみで閉じた目蓋を開かない。仕方なしに近付いて覗き込んでみれば、唇が若干青く、眉を寄せたその表情が思いのほか弱っているように映った。声を荒らげて起こすことをばかられるほどに。
「……はぁ」
せめて毛布かブランケットでも掛けてやれればいいが、と周囲を見渡すが、さすがにこんな真夏に用意はない。春先であればジャケットを被せてやることもできただろうが、あいにくと今日はシャツのみでそれも叶わない。
仕方がない、と篠森はソファーから離れて窓を開けに向かう。心地よい冷気を逃すのは惜しいが、そうも言っていられないだろうと考えた。それから事務室の奥にある給湯器でお湯を沸かす。白湯は味気なく飲みにくいかもしれないかと、彼女ならば甘いものを好むだろうと砂糖を入れた紅茶をカップに用意して、彼女の傍へ戻った。
「朝日奈さん」
テーブルにカップを置いて彼女の傍にしゃがみ込み、再び声をかけるが反応はない。いまだ夢の中にいる様子の朝日奈の、耳にかけられていたブラウンの髪の房がさらりと頬を伝い降りていて、微かに開いた口にそれが入り込みそうになっている。
「……」
しばし逡巡の後、篠森は手を伸ばす。指の背で髪をなぞりあげて耳に掛け直してやるとともに、これは彼女の具合を確かめるためだ、と、誰に言うでもなく考えながら、指先を滑らせる。ひたりと触れた肌の冷たさに眉を顰めた瞬間。朝日奈が肩をすくめて頬を擦り寄せてきた。
「んん……、あったかい……」
朝日奈は心地よさそうにふにゃっと笑みを浮かべ、触れた温もりを更に味わうように、両手の指先を篠森の手首に絡ませ引き寄せた。柔らかい頬を手のひらが包む。
――まるで猫のようだな。
「……君が冷たいんだが」
手を引っ込みそびれてしまった篠森が、そう返すと。
「――ん……? んぅ? ……せんせぇ?」
「ああ。目が覚めたか?」
朝日奈の目蓋が持ち上がり、ぼぉっとした瞳が篠森の姿を捉えた。至近距離で篠森に顔を覗き込まれている、そう認識した途端、朝日奈の目が一気に覚める。「ヒェッ」と声を上げて思わず仰け反り、ソファーの背もたれに後頭部が当たった。
「すすす、すみません! えっ、あれ、なんで」
寒さではなく驚きでびくりと肩をふるわせた後、篠森の手を掴んでいることに気づいた朝日奈はぶわわっと顔を一気に赤く染める。触れている指は冷えたままだが、顔色は随分と良くなったようだと感じ取り、篠森は小さく安堵の息を吐いた。
「冷房を効かせすぎだ。震えていたが、具合は?」
「えっと、ちょっと寒いけど、たぶん平気で……っ」
朝日奈のひやりとした指先から力が抜ける。そのまま離れていきそうになった手を、今度は篠森が掴んでいた。
しっとりと温かい感触。指をするりとなぞられて軽く握られて、朝日奈の心臓がどくんと跳ねて体が強ばった。驚きは声にならずに、ぱくぱくと口を動かすだけに留まる。見開いた目で篠森の手と顔を交互に見つめるが、彼の視線はずっと朝日奈の指先に注がれていた。
「……」
「あ、の」
「……平気ではないだろう」
篠森は視線を動かして朝日奈と目を合わせる。狼狽えた様子で泳ぐ瞳の、琥珀のような輝きをしばし見つめた後、「冷えすぎだ」と口にしてから、朝日奈の手を解放した。それから何事も無かったように立ち上がると、テーブルの上に置かれたカップを見やる。
「先ほど淹れたばかりだから、まだ冷めてはいないはずだ。飲みなさい」
「へ。はい……」
――どうして、さっきのはいったい。あたためようとしてくれた、とか……?
寝起きで働かない頭でぐるぐると考えながら、朝日奈はゆっくりと身を起こし、自らの腕を擦る。頬は熱く火照っていてどくどくと高鳴る鼓動によって体温が上がっていくのを感じるが、肌に触れると言われたように随分と冷えてしまっているのがわかった。
朝日奈はカップに手を伸ばした。陶器越しに感じる温もりに冷えた指先が温められていく。ちらりと篠森を見上げれば、飲まないのかと言いたげに細められた目に促される。
「……いただきます」
「ああ」
「ん、おいしい。あったかい……」
ひとくち飲むとそれだけで身体の中に温かさが廻る。礼を言うべく朝日奈が見上げてみるが、視線は重ならず。篠森は眉間にしわを寄せて窓の方を見ていた。
忌々しげに額を拭った指先が張り付いた前髪を耳に掛けた後、着ているシャツの襟元へと移動して。掴んだ布を扇ぐようにはためかせる姿に、朝日奈はきょとんと目を丸くした。
「篠森先生でも、汗をかくんですね」
「…………は。鬼教師と言えど、暑さくらい感じるさ」
一瞬、止まった手の動き。呆れたにしてはやや長い間を置いて篠森に返されたことに、朝日奈は、あれ、と疑問を抱いた。
――冷房が効いてるはずなのに、どうして先生は汗をかいているんだろう。
生ぬるい風がふわりと入ってきて前髪が揺れて、ああ窓を開けてくれたんだ、だからか、と理解した。
――こんなに優しいのに。鬼教師だなんて思えないや。
目を伏せて暑さに耐えている様子の横顔を見つめながら、「ありがとうございます」と礼を告げた。
後日、篠森から「他の生徒には秘密にするように」と釘をさす言葉や「コンミスを務めるならば体調管理にも気を遣うべきだ」といくつかの小言とともに夏用のブランケットが朝日奈に手渡された。無地ながらも、赤みがかった黄色はお日様の光を集めたようなあたたかさを感じるものだった。
「事務室や移動のバスの中で過ごすときにあったらいいなぁと思っていた物だから嬉しいです。ありがとうございます!」
優しい気遣いと感じても、それらは篠森にとってはあくまで教師としてステージマネージャーとしての行為に過ぎないことは聞くまでもない。感謝の言葉を返しながらも、
――先生からプレゼントもらっちゃった! なんて思うのは、都合が良すぎるかなぁ。
という考えがチラついていたのは秘密だった。