心から誰かを恋しく思うレモンは先程から幾度も携帯へ手を伸ばしては画面を見つめ溜息を吐いていた。
殺し屋らしくない、タンジェリンからはだせぇから変えろと文句を言われるトーマスのイラストの待ち受けが描かれた画面の時計はとうに深夜を過ぎていた。
メッセージアプリを開く。
レモンが登録している連絡先はタンジェリンひとりだけなのでメッセージが来ればすぐに気付く。
震える様子もない携帯にレモンは気を揉んだ。
ロンドンのベイカー通りの一角、少し古臭い賃貸がレモンとタンジェリンの住処だった。ロンドンで暮らすならシャーロック・ホームズとワトソンのようにルームシェアだろうと妙な拘りを持ち出したのはタンジェリンだ。
レモンはどうせ賃貸を折半したいだけだろと思ったが何も言わず一緒に暮らす事にした。
タンジェリンは見た目だけなら英国紳士風な癖に兎に角生活能力が低かった。資料を読んでる時は食べる事を忘れがちになるし、放っておくと部屋が汚くなる程掃除もしない。
血で汚れる事が多いせいか服もまともに洗濯しないので必然的にレモンが同居人として世話焼き女房のような役目を負う羽目になった。
面倒な事になっていなければいいが、とレモンは呟く。
タンジェリンからの最後のメッセージは『遅くなる』だった。タンジェリンだけが指名された単独任務だ。
それは別にいい。考えてみればそんな依頼今まで幾度となくあった。そういった場合、普通の殺しではなく暗殺だ。
腕利きを自負するタンジェリンはそんな要求もあっさり引き受けてしまう。駅の掲示板にXYZと書けば危険な仕事すらもやりとげる新宿のスイーパー(始末屋)が居るように、タンジェリンは報酬さえ貰えれば相手が誰だろうと殺してみせた。
不意に音もなく人の気配を感じでレモンは目を懲らす。
レモンは夜目が利く上に鼻も利く。微かに匂うのはタンジェリンがいつも付けている香水と硝煙のものだ。
「タンジェリンか?」
そこへ佇むように無言で立ってたのはタンジェリンだった。
「……ああ」
言葉は少ない。いつも喧しい癖に静かなタンジェリンにレモンは調子が狂いそうだった。
「いつの間に帰ってたのかよ。連絡くれぇ寄越してくれたっていいだろ?」
「いつもお前は俺を待ってる間に寝ちまうだろ」
確かにそうだった。だが今夜は不意に嫌な予感がしたのだ。
「タンジェリン、」
立ち上がったレモンが近付こうとしてハッと息を飲む。
タンジェリンは血だらけだった。
「――お前の血か?」
タンジェリンは光を失った深緑の瞳を伏せたままゆるりと頭を横へ振った。
「取り敢えずシャワーを浴びろ。服はクリーニングに出す訳にもいかねぇから捨てとくぞ」
タンジェリンは答えずただバスルームへと消えて行った。
レモンはタンジェリンの後を追うように慌てて浴室へ着いて行く。
「ひとりで平気か?」
「大丈夫に決まってるだろ。ガキじゃねぇんだ」
タンジェリンは淡々と返すとレモンの手からバスタオルを乱暴に引ったくった。苛立ってる時とはまた違ってぴりぴりとした――それでいて唸るような低い声だった。
レモンはバスルームから聞こえてきたシャワーの音に取り敢えずほっと安堵する。
タンジェリンのあんな虚ろな目を見たのは久し振りだった。
タンジェリンは仕事となれば非情にもなれるが時折あんな風にロンドンの霧のように淀んだ空気を纏う。
殺しの瞬間の感覚や感触が彼の精神を蝕んでいるのだろう。
レモンはやっぱりタンジェリンをひとりで行かせるんじゃなかったと後悔した。神経質かつ短気で気性の荒い性格だが、その内面は誰よりも繊細で殺し屋に向いていない事はレモンが1番良く知っていた。
分かっている、こうなったのは俺のせいだ。
レモンは力なく浴室のドアへと凭れ掛かる。
タンジェリンとレモンは同じ里親の元で育った。
幼少期はそれなりに裕福な環境であったが、それも長くは続かなかった。最初の里親が死に(死んだ理由は覚えていない)引き取られた先での記憶は義父によるレモンへの虐待しかなかった。
肌の色のせいなのか、それとも虐待を正当化しようとする男の心を見極めようとするレモンの癖が気に入らないのか、義父はレモンを痛めつけた。妻に気づかれぬよう、実に巧妙に。レモンが唯一縋れるのは機関車トーマスだった。
だが、ある日突然地獄の日々は呆気なく終わった。
今でも瞼を閉じれば焼き付いている光景。
血溜まりの海に倒れる男――そしてその妻だった女。
里親は息をしていなかった。
唖然としたレモンは傍らに立つタンジェリンを見遣る。
まるで人形のように無表情で佇むタンジェリンの手にはナイフと返り血があった。
「おまえがやったのか」
声を出そうにも口の中がカラカラに乾いていた。
恐怖で震えた様子もなくタンジェリンは深緑の瞳を向けてくる。
「逃げよう」
タンジェリンは真っ赤に濡れた手を差し出してきた。
「待ってくれ」
レモンはキッチンにあった果物ナイフをひっ掴むと義父と義母へ1度ずつ突き刺した。
「思ったよりなんてことなかったな」
――人を殺めてしまった少年、しかもそれが保護者ならば行き着く先は裏社会しかなかった。
タンジェリンもレモンも飢え死にする心配はなくなったが、そのコードネームに相応しくない、太陽の元を歩けない生き方しか出来なくなった。
シャワーの音が止まる。あいつちゃんとバスタブに入れておいた湯船に浸かってるだろうな、とレモンはドアの方を見遣る。拳で簡単に壊せそな木の扉の向こうにあるバスタブの中には最近レモンがお気に入りの、檸檬の匂いがするトーマスのフィギュアが入ったバスボムを入れていた。
タンジェリンは苦い顔をするがネットショッピングは便利だ。爆弾と気付かれぬよう材料を集められるしタンジェリンのお気に入りであるウェストハム・ユナイテッドの真紅色の靴下だって気軽に買える。
恐らく炭酸はすっかり抜けているだろうがレモンがタンジェリンに出来る事はそれしかなかった。
「お前の人間の本質を見極めようとする所は殺し屋に向いてねぇな」
いつだったか、タンジェリンにそう鼻で笑われた事がある。
この男は相棒の嫌な所を10個挙げろと言われたら20個捲し立てるような奴だ。
いつも機関車トーマスの話ばかりする、服に無頓智でセンスがない、いつも連絡役を俺に任せっきり、と弾丸の如く。
「何でだよ」
レモンは腕を組んだ。レモンは不満を感じるとついそうしてしまう。タンジェリンの手癖の悪さよりはずっとマシだが。
「そうやってやれこいつはパーシーだのそいつはゴードンだの喩えてると、隙を与えるんだよ。武器を奪われてやり返される隙と、付け入れられる隙を、だ。いいか、レモン。相手がどんな奴でも殺しを依頼された時点で死ぬべきクソ野郎だ。雨の中傘もささずに捨てられた子猫を拾うようなヤンキーだったとしても、だ」
そう語るタンジェリンにレモンは肩を竦めた。
タンジェリンは雨の中棄てられた子猫が居たら首を絞め殺すだろう。いずれは死ぬのだから、生かしても意味がない、と。そんなタンジェリンにレモンはやるせない気持ちになった。タンジェリンにずっと寄り添ってきたレモンには分かる。タンジェリンがこんな風に仕事へレモンを同行させたがらない理由も知っている。
義両親を殺したあの日、タンジェリンは泣きそうな顔になっていた。レモンが果物ナイフを突き立てたのを見た後に。
「俺の手なんてとっくに汚れてんだろ」
レモンは浅黒い自分の掌を見つめる。
「おい、この扉は外開きなんだ、お前俺を閉じ込める気か?」
中からタンジェリンの声と乱暴に扉を叩く音が聞こえてレモンは苦笑し立ち上がる。
飯は食わないのか、と聞いた所でタンジェリンは要らないと答えるだろう。そして赤子のようにべっとへ丸まって寝るに違いない。
「タンジェリン」
レモンは寝室へと歩きながら浴室から出てきた濡れ鼠のようなタンジェリンへと振り返った。
「何だ」
「どうだ兄弟。久々に一緒に寝るか?」
普段なら怒り返すタンジェリンもこの時ばかりは『そうする』と素直になる。
レモンが布団の中へ招き入れ抱き寄せればタンジェリンは頭をレモンの胸元へ埋めた。
「……図体ばかりデカくなりやがって」
「俺はトーマスだからな」
いつものように皮肉の応酬をしながら目を閉じる。
レモンが頭と背中を撫でれば、タンジェリンはようやく瞼を閉じて夢の世界へと旅立った――。