星とわたし視界の隅に真っ白なクルタが入って来る。
ああ、あのひとだわ。今日も私を見上げている。
――この屋敷の事が珍しいのかしら?
それとも、もし……自惚れてもいいのなら。
私を気にかけてくれている?
彼の事を知りたいと思った。
バスクトン家が遠い国インドへ行くと聞かされ、私は一緒に連れて行って欲しいと申し出た。ロンドンが嫌いだった訳じゃない。けれど、英国には私が好きな自然や鳥はあまりにも少な過ぎる。
七つの海を渡る間私は向こうで上手くやっていけるかという不安より未知の文化に触れ合える期待の方が大きかった。
デリーに到着すると私達は物珍しそうに人々から迎えられた。皆私と肌の色が違う。瞳の色も服装も。
長袖では暑過ぎて上着を脱ごうとすればメイドのマギーに「いけませんお嬢様」と窘められた。
この国では女性は肌を晒す事は宗教的にタブーらしい。
見れば、川で洗濯をしている女性達は皆頭に布を巻いている。美しい刺繍が施された煌びやかな其れはサリーと云う伝統衣装なのだと叔母が口にした。
「でも、どうして?あんなに綺麗なのに、彼女はまるで使用人のように家事をしている」
「働く夫の為に台所へ立つのが女性の役目なのだ。野蛮なものだな」
叔父は鼻で笑い、タラップを歩き始める。
私は俯いて目を合わせようともしない彼女達に自分自身を重ねそうになった。
戦争で父を亡くし、後を追うように母が病死し私はバスクトン家に引き取られた。スコット叔父もキャサリン叔母も子供がいなかったから、私を代わりのようにしたかったのだと今なら分かる。美しいドレスを着せられバスクトン家に恥じぬ教養を受けさせられ、お姫様のような気分だった。
煌びやかな屋敷に贅沢を尽くした食事――なのに私は窮屈さを感じた。
私がメイド達の仕事を手伝おうとすれば叔母から彼等は働く為に此処に居るのですと窘められ、忙しなく警備の為に屋敷を巡回する警備員を労おうとすれば職務ですのでと冷たく返されるだけ。屋敷の人達は私と私的な交流を避けているように感じた。バスクトン家は人の上に立つべく存在する。
だから……私も使用人と同じように自由がなかった。
叔父にとっても叔母にとっても私は娘などではなく権力を誇示する為のお飾りで。だから私は、屋敷へ連れて来られた娘『マッリ』に自分自身を重ねた。あの子は私に対しても酷く怯え震えていた。きっと此処に来るまでに酷い扱いを受けたに違いない。私は叔父や叔母とは違う、と言葉が通じなくても時間を掛けて警戒を解いたけれど、マッリはずっと塞ぎ込んだままだった。突然屋敷に閉じ込められ、着慣れない服を着せられ、ヘアナードをする時だけ都合良く社交場へと繰り出されるマッリは私と同じで。彼女を故郷へ帰してあげたかった。でも、どうやって?今でも何も出来ず理不尽な扱いを受ける褐色人に対して見て見ぬ振りをしているのに?
私は、非力で、無力だ。女というだけで下に見られるこの国でも。
私にとって唯一の気晴らしは数少ない友人との交流だった。
誰の目にも触れない、デリーの街が見下ろせる回廊で、口元を手で隠さずに笑い合える。
そんな時だった。
私が視線を感じたのは。
……なんて、綺麗な瞳の人なのだろう。
煽てるように今日も美しいですよと周囲に言われ続けた私にとっては、自分の容姿よりもずっと草木や花々や囀る鳥の声や羽根の色の方がずっと讃えるべきものだった。
――彼の目は、それにとても似ていた。
とても輝いていて、そして澄んでいる。
私は叔母と交流のあるフィリップ・グリーン氏へ無理を承知で彼の素性を調べて貰った。
彼の名はアクタル。バイクの修理工をしていて、ムスリムの家族と慎ましく生活し、決して裕福な暮らしではない褐色人の男だから、貴女に相応しくなどありませんと忠告を受けた。それでも、私は『アクタル』の事が気になってコーヒーの味すら感じなくなってしまった。
「アクタル」
真っ白なキャンバスに筆を走らせて呟く。
「アクタル……素敵な名前」
ギリシャ語で星を意味する名前。彼に相応しい名前。
彼と――話したい。静かな部屋に私の声だけが響いた。
チャンスは思いの外すぐにやって来た。車がパンクした時、目の前のベンチにアクタルが立っていた。
彼の言葉は不思議な呪文のようだった。
傍らに居た友人らしき男性が英語で通訳してくれた。
「修理に5時間掛かる」
「だから良ければ目的地まで送って行く」
アクタルはとても親切な上に私が白人だからと臆する様子もなかった。私は彼のバイクの後ろに乗った。
《おれの背中に捕まっていて下さい!》
《舗装されていない土の上はとても揺れます!》
彼の言葉は伝わらなかったけれど、私は自然とアクタルの腰へ腕を回して背中に頭を預けていた。
とても厚みのある肉体と広く逞しい背中。
私の知る男の人は皆細身だったから、アクタルの大木のようにどっしりとした躯は酷く安心した。
土と機械油とスパイスと、微かに草木の匂いもする。
マーケットに到着すると彼は後を追うように着いて来た。
親鳥を見失わないように縋り付く雛のようで私は自然と笑みが零れる。
アクタルは私をマダムと呼んだ。
屋敷でも私をジェニーと呼んでくれる人はいない。
だからせめて彼にだけは本名で呼んで欲しかった。
「マダムはやめて。ジェニーよ」
彼は言葉を理解しているのかしていないのか、ぶつぶつと呟き続けている。アクタルは私の口からマッリの名を聞くと、その子へのお土産にとバングルを渡してきた。
動物の絵が描かれた素朴ながら美しいバングル。
「あなたが作ったの?」
アクタルは曖昧に頭を左右に振る。この国の人はYesもNoも同じ動作をするとは聞いていたけれど本当なのね。
何だかその仕草がとても可愛くて……もっと話したくて、私はアクタルへパーティーへの招待状を渡した。
大丈夫。アクタルならきっと来てくれる。マーケットまで私を乗せてくれた人だもの。
――アクタル。早くまた貴方に会いたい。
いつも誰かを探すその瞳の理由を聞いて、もし私が力を貸す事が出来れば。
言葉でなく心でアクタルと通じ合える気がしたから。