或る桜日和のできごと 任務からの帰宅。家の扉を開けたら、恋人が準備万端の格好で俺を出迎えた。何の準備かというと、多分ピクニック。薄手のマウンテンパーカーを羽織った恋人は、レジャーシートを脇に抱え、水筒と小さなビニール製のピクニックバッグを携えている。
「おかえり、行」「ちょっと待ってください」
続きを紡ごうとする口を言葉で止める。
「手洗いと、服だけ変えさせて」
まあいいだろう、と言わんばかりに大きく首を縦に振った恋人を視界から外して部屋に上がる。洗面所で手洗いを済ませたら、任務服を脱ぎ捨て、恋人と色違いのマウンテンパーカーを手に取った。それからもう一枚大きめのアウターを掴んで玄関へと戻る。
突拍子も無い行動だが、この人がこうと決めて動くことにはあまり間違いがない。自分では思いもつかないことをやってのけるから、新しい刺激をたくさん貰っているのは否めない。だから、最近では大人しく彼の「思いつき」に乗っかることにしている。
「車の鍵貸して」
施錠している背後から棘さんが尻ポケットをまさぐる。探し当てた鍵をかざしてニヤッと笑うと「ついてきな」と芝居じみた口調で言い放ち、歩を進めた。前を行く棘さんの手からバッグを取り上げ、レジャーシートも回収してしまう。あっさりそれらを手放した恋人は、さらに軽やかな足取りで青白い電灯が照らす廊下を進んだ。
「結構重たい」
「そう?」
楽しそうな恋人の声が落ちる。俺の感想は彼の機嫌を上げたらしい。実際鮮やかな色味のバッグは見た目以上の重量感だが、中身を聞いたところでどうせ教えてはもらえない。勝手に覗きでもしたらせっかくのご機嫌を損ねてしまうと分かっているので、おとなしく恋人の後をついていくことに専念した。
仕事で使うので、それぞれ車は持っている。俺の車は街乗りのできるSUV、棘さんのはオフロードも走れる本格仕様の四駆。しかし、それも名義上そうであるだけで、二台を共用していて任務地によってそれぞれの車を使い分けている。四駆を使わないということはそれほど山深くには行かないということか。もう十九時を回っていることを考えたら妥当なところではあるが。
「お、珍しい」
エンジンを掛けたら、先程まで聞いていた洋楽の続きがオーディオから流れてきた。
「割と気に入ったので」
ふーん、とおちょくるような抑揚で反応を示した恋人が「しゅっぱーつ」と右腕を上げた。ご機嫌だな。いいことだ。「おー」と小さく左腕を上げたら、隣で棘さんが吹き出した。
「どこ行くんですか?」
「秘密」
「俺が知ってるところですか?」
「知らないと思う」
「お手上げってことですか?」
「お手上げってことですね」
想定していた通りのやり取りを交わして一旦黙る。様式美ってやつなのか。何の情報も産まないこういうやり取りを心地よいと思ってしまう自分がいることにも、もうあまり驚かなくなってしまった。
オーディオに合わせた鼻歌が聞こえてくる。頭の中で旋律を追い掛けられるくらいには覚えてしまった。
「この曲、一番好きです」
「ほんと?」
「ラスト、転調するとこ」
あぁ、と納得とも不満とも取れない声が漏れる。分かってもらえないだろうなとは思っていたけども。
「棘さんはどれがお気に入りです?」
「俺は一番初めの曲」
今度は俺が彼と同じ温度であぁ、と返した。
「つくづく好みが合わないね」
「ですね」
互いに軽い笑いが零れた。
「それなら、ラストのも好きでしょ?」
「あれ、いいですよね」
「……そうだね」
「別に共感は求めてないっすよ」
妙な間の意味を汲んでそう返したら、棘さんがふはっと笑った。
「でも、何年か後に聞いたら好きになるかもしれない」
だから、否定はしない、と。それに対して俺も「そうですね」と答えて話を着地させた。
車はポツリポツリと街灯の設置された道路を滑らかに走る。対向車も少なく、店や家もまばらになってきた。もうかれこれ三十分ほど移動しているけれど、まだ掛かるんだろうか。
「もうすぐ着くよ」
「は……え、あぁ、そうですか」
心の中の声を絶妙なタイミングで拾われ、変な声が出てしまった。
「どんだけ走るんだって思っただろ?」
「……まぁ……」
運転席へ視線を遣れば、横目でこちらを向いた棘さんと目が合った。
「お見通し」
そう笑って、前方へ視線を戻した横顔に見入ってしまう。もう三十になろうとしているのに、透明感すら感じるのは何なんだろう。年相応、いやそれ以上に老けて見られる自分とは大違いだなと心の中で嘆息をついた。
橋を渡ってすぐに大きく切り返した車は、河川敷の空き地で動きを止めた。六台ほど停まりそうなスペースには、端に一台軽自動車が止まっているだけでがらんとしている。車から降りた恋人は手ぶらで歩を進めた。レジャーシートと水筒とピクニックバッグと。必要なものをまとめて、後を追い掛ける。ほどなくして手入れのなされた草地が現れ、それと同時に桜並木が目に入った。道端の街灯の中に淡く映し出される様は、昼間に見る楚々とした佇まいとは一変、妖艶な色気を感じる。
「ここにしよう」
先を進んでいた棘さんが、一本の大きな桜の樹を見上げて止まった。俺の腕からシートを抜き取ると、案の定雑に広げようとするから、片端を持って一緒に広げた。靴を脱いだ棘さんがあぐらをかき、ぼーっと上を見上げている。「綺麗ですね」と話し掛けたら、腹減った、と返ってきた。花より団子を地でいくんだこの人は。
手元にあるバッグをそっと彼の方に押しやった。中には食べ物が入っているはずだ。でも俺が勝手に開けたらきっと怒られる。だから、促すに留めたのに、恋人はぼんやりと桜に目を奪われたまま動こうとしない。
「腹、減りましたね……」
それとなく催促してみると、少しバツが悪そうに棘さんがこちらを向いた。
「あんまり大したもの入ってない……」
パチパチと目が瞬く。この人のいじらしさが発揮されるスイッチが未だによく分からない。そんなもの。
「棘さんも任務だったじゃないですか。惣菜調達してくれたんですか?」
「いや……」
おずおずと開けられたバッグの中からはアルミホイルに巻かれた何かが出てきた。それが何なのか、言われなくとも分かるもので。
「わざわざ米炊いて、作ってきてくれたんですか?」
「中身、適当……」
「十分です」
まだ仄かに温かいそれはずっしりと重く、海苔の良い匂いが漂ってくる。うまそ……と反射で言葉が零れた。
「食っていいですか?」
「うん」
恋人の顔に生気が戻ってきて、二人でガシガシとホイルを剥いた。中身は昆布と高菜としゃけ。最大限栄養バランスが考えられた中身だと思う。
「……棘さんのおにぎり、すげぇ好きです……」
別に、下心とか媚びる気持ちとか、そういうのは全然無くて。ただ、浮かんだことを口にしただけだったんだけど。
満面の笑みを浮かべて、少し俯く恋人を見ると堪らない気持ちになる。
調子を取り戻した恋人に「はい」と渡されたのは、缶のノンアルビール。
「花見と言えば酒じゃん?」
そうか と思ったけれど、咲き誇る薄紅色を見れば浮き立つ気持ちも分からないでもない。ノンアルなら気分だけでも味わえるわけで。便利な世の中に感謝しながらプルタブを開けた。
ちびちび缶を傾けながらおにぎりを完食し、恋人が用意してくれていたお菓子を摘まみつつ、人工的な光に照らされる桜を眺める。それなりに冷やされた飲み物と、急速に下がる気温に肌が粟立つ感覚をちょうど抱いた頃だった。
棘さんが、くしゅんと控えめなくしゃみをした。そうだろう。この薄手のパーカーじゃ春の夜をやり過ごすには薄すぎる。身体を冷やすような飲み物を飲んでいるならなおさらだ。何となく春の夜空のもと、何かするんじゃないかと踏んでいたので、ちゃんと用意はある。
「冷えましたか?」
持ってきた上着を肩から掛けてやったらふんわりとした笑みが恋人から漏れた。そこだけ温かな空気が放たれているような気がして体感温度も上がったような気になる。
「今年、一緒に桜見る時間全然取れなかったから」
素直に肩へ凭れ掛かってきた恋人の言葉を危うく聞き逃しそうになった。危ない。腰に回した手に力を込めて、聞いている、と言外に示す。
「どんどん花が開いていって、色も濃くなって、あーもうダメだって、今日我慢の緒が切れた」
この人は、俺が分からない植物の声が聞こえる。そんな大層なものじゃないらしいけれど、桜の開花を、道路に落ちる花びらの山で気づく俺からしたら魔法のように思えて。
「綺麗な時に見れてよかったです」
素直にそんな言葉が零れた。
「もう、見頃は過ぎてる……葉が出てきてるだろ……後は散るだけだ」
そうだろうか。俺から見たら、まだとても綺麗に咲いているように見えるけれど。
「もう少し早かったら、ここも花見客で賑わってたかもね」
街灯に照らされた桜並木。宴を催すには最適な草地。夜温も厳しくない状況であれば、地元の花見客がここを埋めていたことも十分考えられる。言われてみれば、花のつく枝にはモリモリと葉が芽を出している。一週間早ければ、風になびく枝も花ごとしなやかに身を任せていたかもしれない。
ちょっとした風でハラハラと花弁を散らす薄紅色を見て、桜の終わりを確かに感じはしたけれど。
ブワッと強い風が吹いた拍子に、ドラマで見るような桜吹雪がお目見えした。淡いピンクは白雪のようで。でも、確かな存在感はそれがしっとりとした花びらだと主張していて。束の間の絶景に目を奪われた。すげぇ、と。それ以上の言葉はどれも無粋になってしまうようで口を噤んでしまった。散り際まで魅せる桜に、感嘆の意も抱いた。
「……もう少し早かったら、こんな桜吹雪は見れなかったですね」
まだ散りたくないという桜の意思は、凛とした夜桜となるのだろうけど。散り際を知り、風に身を任せる桜も悪くない。
「綺麗です……」
腰を抱く腕に力を込めれば、肩に掛かる力が強くなった。
ひらひらと落ちてきた花弁が、棘さんのミルクティー色の髪にふわりと舞い降りた。こちらへ寄りかかる身体を少し上向せて、花弁の乗る髪へと手を伸ばす。小さな異物を除くために伸ばした手が、途中で止まった。短く瞬いた棘さんが、頬を赤らめて目を閉じたからだ。
勘違いをしていることにも頭を抱えてしまいそうなのに。ここまで自分の直感に従って俺をグイグイ引っ張ってきた恋人が、これくらいの仕草で頬を赤らめるという事実に低い声が留めておけない。確かにここは屋外だから。普段は滅多なことじゃキスはしない。でも今日は夜で視界が悪いから。外でもキスするって期待してくれたんだろうか……
だなんて、余計なことを考えてるうちに、恋人は薄っすらと目を開けてしまった。そして木偶の棒のように動きを止めた俺を見て即座に状況を飲み込んだらしい。
途端に、かわいそうになるくらい顔を真っ赤に染めた恋人はすくっと立ち上がって、靴を履き、誰もいない草地に足を踏み出した。
肌を交えるような関係になってもう片手では足りないくらいの年数経つのだが。ここまで初心な反応を見せられれば、素直に情欲が刺激される。
食べ散らかした菓子の袋と空き缶を集めて帰り支度を整える。綺麗にシートを巻いて、荷物をまとめたら、逍遥している恋人を掴まえに繰り出した。
「冷えてきましたし、そろそろ帰りましょう」
一際大きい桜の樹の根元で空を見上げる恋人に、躊躇いつつも声を掛ける。
「今年もお花見できてよかったです。ありがとうございました」
明日も二人して朝から任務が入っている。互いの休みが重なるのはまだ一か月以上先の話だ。無理やりにでも時間を作らなければ、余暇の楽しみは味わえない。俺はそういうのにとんと鈍い方だから。棘さんの「気まぐれ」に生かされているとちゃんと認識したいと思っている。
「帰りは俺が運転します」
車の鍵をもらおうと差し出した手が、一回り小さい手にぎゅっと握られる。
無意識なのか。わざとなのか。こちらを見上げる瞳に悪戯な色は見えない。とすると、無意識か……ったく、本当にこの人は……。
今度は不意打ちを逃さぬよう、それが正解と言わんばかりに手を握り返した。少し足早に、彼を引っ張るように、車へ戻る。
「そのまま、ドア開けてみて」
好奇心で彩られた瞳がキラキラと光っている。言われた通りドアノブに手を掛けたら、ピピッと音をあげて呆気なく解錠した。
「すごいね! 俺の体と恵の体を伝って、鍵が開いた!!」
一通り感動したら、無邪気な恋人は手を離して助手席へと回った。まったく、本当に、この恋人は……
中に乗り込み、座席を最後部までスライドさせ、エンジンを掛ける。再び、洋楽の続きが流れ始めた。
「この曲さ、」
身体を乗り出して、棘さんの左肩を抱き寄せる。そして、フッと顔を上げた彼の、何か紡ごうとする唇をピタリと塞いでしまった。目の前一杯に広がる棘さんの瞳が、ぶわりと開く。閉じるタイミングを失った瞳は視線が合ったまま。負けたのは俺の方。ジワリと溶けだす紫水晶に耐えられなくなって唇を離した。ちくしょう……「抱きてぇ……」
ボソリと零れた欲を聞いて、棘さんがぶはっと吹き出した。今まで漂っていた艶っぽい雰囲気が霧散する。
「次はいつかなぁ」
「この先一か月は予定合わねぇ……です」
「帰ったらスケジュール洗い直すか」
そんなことをあっけらかんと言い放つから。ハンドルを切りながら、恋人の右手を探り当て握りしめた。
「……飛ばします」
「安全運転で頼みます」
けらけらと笑って、棘さんが一度キュッと握った俺の手をきちんとハンドルへ返した。
「恵、この曲嫌いじゃないでしょ?」
土手から本線に合流するタイミングを計っている傍らで棘さんが口を開いた。
「……ですね」
来る時には車なんて殆ど通ってなかったのに。早く帰りたい今、なかなか車の列が途切れないのは何の意地悪だろう。
「俺も」
急いている頭の中に棘さんの柔らかい声が入ってくる。
「俺たち、許せるものが似てきたなって、最近よく思う」
俺はそれが嬉しい、と。通り過ぎる車のヘッドライトに照らされた恋人の顔は穏やかで、またしても見惚れてしまう。ハンドルさえ握っていなければ、引き寄せて力いっぱい抱きしめていただろう。
今すぐ家に帰りたい。アクセルを踏み込み、車の往来が途切れた道路に飛び出す。
「やっぱり飛ばします」
「おかかぁ」
ペチペチと腕を叩く棘さんの声を無視して、桜吹雪が彩る橋の上を一気に加速した。