深淵の翠香「……何かいい匂いしますね……」
預かっていた任務の資料を持って狗巻先輩の部屋を訪ねた帰り際、話しているあいだ気になっていたことを口にした。
「いくら、こんぶ」
「へぇ……」
俺の返事を聞いた先輩が少し眉を顰め、それから手招きをした。どうやら部屋に入って来いということらしい。俺は少し躊躇ったのち、頭を下げて靴を脱いだ。
腕を掴まれ連行された先はベッド脇のサイドボード。そこにコロンとしたフォルムの球体が置かれていて、モクモクと白い煙が上がっている。先輩がその煙を元気よく指さした。
「ツナ」
「いえ、ここにいても十分匂いは分かるので……」
煙に顔をつっこんでみなくても、この煙がいい匂いの正体であることは明白だ。先輩は面白く無さそうに「おかか」と俺のことを詰った。
「加湿器に匂い足せるならいいですね。これ、何の匂いですか?」
だから、非難の視線を濁すため、俺は話を逸らせた。狗巻先輩の目がパッと輝いて、それから、彼は勉強机に並べてある小物の中から一つの瓶を手に取りこちらへ戻ってきた。手渡された瓶のラベルには「森」と書いてある。
「森の匂い……」
「しゃけ」
「ずいぶん、ざっくりとした匂いですね」
「すじこ?」
「まぁ、言われてみれば……時々裏の山で感じる匂いも混じってるような」
雨に濡れた土の匂いだったり、裂けた木の匂いだったり。じっとりと重たい鎮守の森のイメージが沸き上がる。馴染み深く感じるのはそのせいだろうか。
「何が調合されてるんですか?」
この世に「森」のオイルなどあるわけはなく。いくつか精油を組み合わせて概念を作り上げているとなれば、どんなオイルが入っているのか少し興味がわいた。
しかし、狗巻先輩はきょとんとした顔で俺をみつめるばかり。
「俺も詳しいことは知りませんけど、何だろう……ラベンダーとか、あるじゃないですか。これは何の精油が入ってるのかなって」
「……高菜?」
先輩の答えが落とされた後、俺たちのあいだに沈黙が流れた。マジか。
「……森、ではないですね……」
「おかか」
狗巻先輩が、マジか……と言って絶句する。それは俺の台詞だ。
「ん、と……じゃあ、先輩は何となくこれを買ったってことですか?」
「しゃけ。ツナマヨ?」
いい匂いでしょ? と俺を見上げる先輩が、落ち着くんだよね、と言葉を繋いだ。その顔はすっかり緩んでいる。俺にとっての裏山は、物々しくて暗い場所でしかなかったけれど、先輩にとってはホッとできる場所なのかもしれない。と、植物に優しい眼差しを注ぐ彼の姿が脳裏に浮かんだ。
夏休みもあと僅かとなったくそ暑い日、一日完全に休暇となったため、気晴らしに買い物へ出かけた。買い物と行っても特別な目的があったわけではなく、服を見てCDを見て本屋に寄って……そんなウィンドウショッピング中心の緩いもの。時間を気にすることなく好きなものをじっくり見て回れて良い気分転換になった、と来た時よりも軽い気持ちで帰路についた。
その道中、フワッと漂ってきた匂いに足が止まった。辺りを見回してみると、小さな雑貨屋が目についた。店先の棚でモクモクと白い煙が上がっている。その煙に誘われるように俺はその店へ足を向けた。
近づくほど強くなる香りは、あの日狗巻先輩の部屋で焚かれていたものと同じであるように思えた。ディフューザーの隣に並べられたいくつかの瓶の一つに、「ピックアップ」と書かれたタグがつけられている。そのラベルが見覚えのある「森」であることで確信を得た。鎮守の森と狗巻先輩の顔が浮かんで、うだるような暑さが少し遠のいた気がする。
気が付いたら一つ手に取って、レジへ向かっていた。
今日の収穫、森のアロマオイル一本。何だ、これ。
部屋に帰って自分の行動に理由を当てはめようとしたけれど、上手くみつからなかった。ただ、後日俺の部屋へ押しかけてきた狗巻先輩が、精油の瓶を見て驚いた顔をしたので、そういう反応が見れて面白かったとは思った。そして、イライラや頭の重さを少し緩和してくれることが分かり、薬のように部屋で焚くようにもなった。買った理由は漠然としていたけれど、あってよかった、と心の中で呟くことは多々あったように思う。
◇◆◇◆◇◆
「こんぶ?」
布にくるまれたような丸い声が落ちてくる。しかし、俺は答えを返せない。ここがどこで、今何をしているのか。自分の置かれている状況は全てどっぷりとした靄にかき混ぜられているようだ。目は開いているけれど何を見ているのか認識できない。音は聞こえているけれど何と言っているのか分からない。ただ……
背中が温かいものに包まれたと思ったら、上半身にギュッと圧が掛かる。
ただ、肌に触れる感覚だけは頭が処理をしてくれる。俺は、誰かに抱きしめられていて、それはひどく俺を安心させた。
「たかな……」
底なしに沈んでいこうとする意識が、意味を持たない言葉に繋ぎとめられる。
「めんたいこ……」
一つ一つ、噛みしめるように置かれる言葉が、少しずつ俺の意識を引き上げる。
「つなまよ……」
そして。ふと鼻孔を掠める匂いが、一息に俺の視界へ光を与えた。
うららかな木漏れ日と目に眩しい新緑。
木の葉が立てるさざめきと鳥の囀り。
目の前に穏やかな森が広がる。その真ん中に立っている小柄な背中がこちらを振り返り、俺に向かって手を伸ばす。柔らかい笑顔は心地よさそうで、早くこの手に収めたいと、そう思った。
「めぐみ……」
呼ばれた名前に靄が晴れていくのを感じた。焦点を結んだ視界には見覚えのあるクッションと床の板目。それから、俺を抱きかかえるように回された白い腕。あぁ、俺はまた。
「……いぬまき、せんぱい……」
発した声は掠れていて、動かそうと思った指先は痺れている。
――うん、ここにいるよ
さっきまで認識できなかった音の羅列が、ちゃんと意味を持って鼓膜を叩いた。無理やり動かそうとした指先が、一足先に彼の指に捉えられる。そこをゆっくりと撫でさするリズムに合わせて「大丈夫、大丈夫」とおまじないが唱えられる。
時を選ばずに襲ってくる発作とそれに付き合わせてしまう申し訳なさを考えて、少し呼吸が浅くなるのを感じた。そうしたら、指先をギュッと握られて、その思考を止めるよう無言の圧が飛んできた。優しさの塊。それを受け取る権利が俺にはあるのだろうか。
全て分かった上で傍にいる、と何度言われても、俺はその言葉を丸ごと受け入れることができない。疑っているわけではない。決して彼に原因があるわけではない。壊れてしまった自分を受け入れることができない俺が悪いのだ。
また余計なこと考えてる、と。抱く腕に力を込めて先輩が俺を叱る。余計なことじゃない。本当のことだから。だけど、そう口にするだけの気力も無い。
――上手に戻ってこれるようになったね
楽観的な声。甘やかすような言葉にノロッと顔を上げた。すると、頬をクイッと持ち上げられた。するすると。彼でいうと呪印のある辺りを親指で摩って。
「ツナ、いくら!」
今日はほっぺに床の跡ついてないもん、なんてことをこの人は明るい声で言ってしまう。思わずふっと息をついた。その拍子に清涼な香りが体の中へ入り込む。視線を彷徨わせれば、先輩の傍らに茶色い小瓶が置いてあった。
あの時、「森のオイルだ」と堂々と言ってのけた人が。精油の存在も知らなかった人が。自分の嗅覚を頼りに、壊滅したアロマオイルに限りなく近いものを調合してみせた。必死だったんだという。匂いが深層に働きかけることもあると信じて。
好きだったでしょ、この匂い
そう言われたけれど、好きだったのは匂いそのものじゃなくて、匂いが内包するあんたとの空気感だったんだろう。だから、俺は狗巻先輩の作った精油でちゃんとこっちに戻ってこれるようになったんだ。
離れた方がいいと分かっているのに、傍にいてほしいと思ってしまう。手放すべきだと分かっているのに、この人を失うのが怖いと思ってしまう。充満する緑豊かな芳香は、正常な思考を鈍らせる。楽な方へ楽な方へと甘く誘う。痺れのとれた指先で、彼の手首をグッと掴んだ。
「……もうすこし、こうしててください」
見上げた先の瞳が一際柔らかく緩んだ。これから紡がれる言葉を俺は知っている。
――恵の気が済むまで傍にいる
期待通りの言葉に眩暈を覚えて、俺は全てをシャットダウンするように視界を閉じた。