イエローの残骸『半円の半分。そうだ。それに定規と単眼鏡を付ける。ワカサマ、あんた、器用だな』
『星と、水平線の角度を測る。そうすれば、自分の位置が海原でも分かる。おれ達は、ログポースを使わない』
『レッドラインを背に進み、晴天が続けば十日で島の輪郭が見える』
暗い海に、ランプの明かりがゆらゆらと揺れる。
もうじき、朝日が顔を出し明るくなる時間帯だ。
軍艦の甲板で、海図を広げ、海を眺める大きな背中が一つ。
(もうすぐ……もうすぐだ……)
祈るような気持ちで、木製の器具に付いた単眼鏡を覗く男は、船長ドンキホーテ・ドフラミンゴ。
自分の物ではないサングラスを不満げに掛けたり、外したりしながらレンズ越しの星を見ている。
(……あと少しの筈だ)
インペルダウンを脱獄し、軍艦を奪ってグランドラインへ入った彼らには目指す島があった。
しかし、ログポースもエターナルポースも持ち得ない脱獄囚の彼らを導く物は無い。
それでも、ドフラミンゴは知識の総動員を持ってこの状況を打開するべく、長い間こうして甲板で星を眺めていた。
「……六分儀か?」
突然、船室の扉が開く音がして、聞き慣れた声がする。
振り返りもしないドフラミンゴの横に並ぶセニョールは、大きな伸びと、欠伸をした。
「……ピンクか。おはよう」
「おはよう。本当にそんなもんで目的地に着けるのか」
見慣れぬ木製の器具は、ドフラミンゴが有り合わせの材料で作った物だ。
六分儀よりも簡素な作りのそれは、星と、水平線の角度から現在地を割り出す物で、目指している島の住人達が好んで使用する道具である。
「フフフフッ……!どうだろうなァ。オーク達に教えてもらったのも随分と前だ。だが、まァ、方角は合っているから問題無いだろう」
軍艦を奪えたのは幸運だった。
備品の中にマリージョアへのエターナルポースがあったのだ。
「レッドラインを背に十日……だったな」
「ああ」
昔、何度か訪れた事のあるその島は、ログポースではたどり着く事ができない。
どの島でログを溜めても、何故かログポースはその島を指さないのだ。
しかし、その島の住民達曰く、レッドラインを背に十日進めば島の輪郭が見えると言うのだ。
言われた通り、軍艦にあったマリージョアを指すエターナルポースの針とは真逆に進み、既に一週間。
海図に現在地を点々と記入し、航路を繊細に修正しながら海図上にある目的地へと近付ける。
確固たる指針を使用した航海しかした事の無いドフラミンゴにとって、この方法が吉と出るのか、凶と出るのかは未だ不明だった。
「辿り着けなかったら……お前らおれを恨むか」
「まさか」
冗談混じりで言ったドフラミンゴは、海図に測定した現在地を記入する。
セニョールが答えたすぐ後、顔を出し始めた太陽の光が暗闇に差した。
「あんたのケツを持っても良かったが……残念だ」
キラキラと光る水面に目を焼かれたように、ドフラミンゴはサングラスの奥で瞳を細める。
遠くを眺めたセニョールは、親指で前方を指差した。
「……島だ、若。あんた本当に大した男だぜ」
******
乾いた空気が巻き上げる砂。殆どキャメル一色の景色に割り込む、色とりどりのフラッグが一斉にはためいた。
砂に呑み込まれたこの島は、元々は緑豊かな春島だったという。
「相変わらずあっちィなァ……。はやくダージリンへ行こうぜ」
「ああ、しかし……随分廃れたな」
一週間振りの陸地に降り立ったドンキホーテ・ファミリーは、砂混じりの熱風を懐かしく見る。
以前よりも、砂に侵食されたように見える港に、ドフラミンゴは怪訝そうに顔を顰め、舞い続ける砂埃にファーコートをインペルダウンへ置いてきて良かったと心底思った。
「確かに……以前はもう少し緑もあった気がするが。ダンスパウダーは怖いな」
ドフラミンゴの台詞にディアマンテも呟くが、彼らは厳密に言えば以前の緑豊かなこの島を知らない。
ドンキホーテ・ファミリーがこの島をビジネスの拠点としていたのはドレスローザへ入る前の話だが、この島がダンスパウダーを兵器に転用し、近隣諸国と雨の奪い合いを演じたのは更に昔の話だった。
彼らがこの島を訪れた時にはごく僅かだった自然の緑は、既に消滅したように見える。
「ダンスパウダーの所持と使用が禁止になった原因の島だ。きっと、枯れゆく運命なんだろう」
ドフラミンゴは言いながら大股で街へ踏み入り、ファミリーもその後について行った。
ひとまずの隠れ家にこの島を選んだのは、この島が、全ての痕跡を消せるからである。
人、物、金、非合法に集められた全てがここを通過して、その出処をリセットされる。
資金洗浄の為のカジノ、死体処理専門の清掃員、産地偽装の為だけにある通関。
数々の悪党から果ては世界政府まで、大きな声では言えないが、殆どの犯罪や隠蔽はこの島を通る。
人間が生存するには厳しいこの気候を差し引いたとしても、脱獄囚がここに潜り込むのは正解だろう。
「オーク達はどこかしら。久しぶりに会いたいわ」
砂よけのマントの奥で、シュガーの大きな瞳がぐるりと動いた。
旧友どころか、道行く人間も疎らな、閑散とした砂の国。
僅かな違和感を拭い続けるように、ドフラミンゴはバラックが並ぶ通りを進んだ。
「随分……広がったな」
暫く歩くと見上げる程高いタワーの麓にたどり着く。
非合法が蔓延るこの島の中でも、最も危険な高層スラム。
本来はホテルとして建てられた建物だったが、悪党に難癖を付けられたオーナーが殺害された事をきっかけに廃業し、そのまま放置された遺物。
そこに家のない者や、表には出られない連中が集まり、今や法の及ばぬ高層スラムと成り果てたのだ。
ドフラミンゴの記憶よりも、タワーは奇妙な増改築が施され、その敷地面積をかなり増やしているように見えた。
「……ワカサマ?」
その時、眺めていたタワーの入口に、ひょっこりと小さな影が現れる。
硬そうな獣の毛に覆われた、一メートル程度の小さな生き物。
クマのような耳と、コアラのような大きな鼻を持つ、似た動物を断定し難い彼らを、自他共にオーク族と呼んだ。
元を辿ればミンク族と交わるその血脈は、どういう因果か、この非合法な島に古くから根差している。
「ウィスパーか……!フフフフッ……!デカくなったな!」
「……!」
タワーの入口に現れたオークの少年は、ドフラミンゴ達の顔馴染だった。
ドンキホーテ・ファミリーが島に出入りしていた頃よりも、大きく成長した姿にドフラミンゴが嬉しそうに言う。
その声で、初めてドフラミンゴを認識したように、ウィスパーは息を呑んでその足元へ駆け寄った。
「ど……どうした!何があった……!大怪我してる!」
「……?」
怪我は、していなくもないが、ひと目見て気付かれるような物でも無い筈。
ドフラミンゴの足元であたふたとするウィスパーを全員が見下ろした。
「毛皮を剥がされたのか?!一体何があったんだ!」
「「「「……ああ」」」」
「おれの毛皮は着脱式なんだ」
「なんだ。そうなのか。びっくりしたぞ、ワカサマ!さァタワーへ入れ。暑かっただろう」
全てを理解したドフラミンゴが言うと、ウィスパーは突然落ち着きを取り戻し、次の瞬間にはドフラミンゴの腕を引いてタワーの入口へ促す。
彼らは気高い戦闘民族ではあるが、外の世界の事を殆ど知らない。
ドフラミンゴがいつも着ていたピンク色のファーコートは自分達と同じように体の一部で、「ワカサマ」が彼の本名だと思い込んでいるのだ。
「ダージリンはどうした?何故このタワーに居る」
「……」
入り込んだタワーの中は空気がこもって随分と暑い。
専門家の知識無く増改築され、何かの弾みで崩れ落ちそうなその高層スラムには、多くの人間が住み着いていた。
何の許可も免許も得てはいない病院や商店や床屋まで揃うそこは、立派な無政府国家である。
「ダージリンはパウルクレイ・ファミリーに占拠された。ほんの、一ヶ月前だ」
タワーの階段を上へ上へと登る最中、ウィスパーが小さな声で言った。
それを、聞き逃さなかったドフラミンゴは瞳を細める。
「相変わらず仁義の無ェ奴らだ。ダージリンが占拠されたなら……お前ら水はどうしているんだ」
その後ろで、話を聞いていたセニョールが言うと、ウィスパーは小さな瞳で振り返る。
ダージリンと呼ばれるその地域は、この枯れ果てた島にしては自然が未だ僅かに残り、島民達の生命線である湧水がある場所なのだ。
「湧水も奴らに奪われた。今は島中が奴らから水を買っている。とても高い金額でだ。……ワカサマ、また会えたのは嬉しいが、今は来てほしく無かった」
長い長い廊下を進む。継ぎ接ぎされた廊下の床板は隙間だらけで、その間から見える地上は、随分遠くにあった。
ドフラミンゴを見上げる小さな瞳は、目が合うとすぐに逸らされてしまう。
「ワカサマに取り戻して貰ったあの土地を……また奪われた。おれ達は気高い戦士なのに、とても恥ずかしい」
パウルクレイは元々この島の支配者だったが、ドフラミンゴ達がこの島を拠点にする際、ドンキホーテ・ファミリーの傘下へと下っていた。
その時、奴隷としてパウルクレイに支配されていたオーク族を解放し、その縁がこうして今に繋がっている。
オーク達は元々ダージリンの湧水付近の森にひっそりと暮らしていた種族だった為、解放後はダージリンの森へ戻っていた筈だった。
それを、再び奪われた理由など、ドフラミンゴには一つしか思い当たらない。
(おれが、投獄されたからか)
セニョールの言う、仁義が無い、とはそういう事だ。
元々力づくで傘下へ収めたその組織は、ドンキホーテ・ファミリーの陥落を喜んだ側の人間である。
ドフラミンゴの支配を解かれ、意気揚々とこの島を手中に収めたのだ。
「おれ達も、また奴隷になるのは嫌だったから、頑張って戦った。だが、敵わずにこのタワーへ逃げ込んだんだ」
「スーロンでも敵わなかったのか」
ディアマンテが長い背中を曲げてウィスパーに言うが、その少年は暗い顔のまま首を振る。
ミンク族と同じ血を持つ彼らもまた、月の明かりに本性を見るのだ。
「マーシャル・D・ティーチ」
その小さくも鋭い牙の並ぶ口元から、予想外の名が漏れる。
ドンキホーテ・ファミリーは一様に、怪訝そうな顔でウィスパーを見下ろした。
「パウルクレイ・ファミリーは黒ひげと名乗る大きな男の下に就いた。突然上陸してきた黒ひげは、反対する勢力を全て捻じ伏せ、この島の支配者に君臨したんだ。この島は、あの男のナワバリで、その傘下のパウルクレイ・ファミリーが実権を握っている」
この島を欲しがる悪党は多い。全ての痕跡の偽造ができるだけでなく、偽造を必要とするありとあらゆる勢力に重宝されるのだから当然だ。
元々ドンキホーテ・ファミリーが実権を握っていた時には手を出せなかった輩が、投獄を期に動いてもおかしくは無い。
(しかし……大物が出たな)
まさか、四皇レヴェルが手を出すとは思ってもいなかったドフラミンゴは、怪訝そうに顎を擦った。
どちらかと言えば、四皇連中は海賊ビジネスよりも、海賊王の残した秘宝の在り処に興味がある筈。
取り入る術も、排除する術も持っているドフラミンゴは、それを一旦思考の隅に追いやって、ゆっくりとウィスパーの目の前にしゃがみ込んだ。
「恥じる気概があれば充分。均衡主義は遥か昔の価値観となり、今やガラ空きの椅子を奪い合う覇権争いがそこかしこで勃発している……。いつ、どこで、誰の首が飛んでもおかしくは無い。フフフフッ!何度だって助けてやるさ。お前らは、おれを裏切らない。……そうだな?」
忠義に厚く、腕の立つ無知な者達。
彼らにとってドフラミンゴは神の救いであったが、ドフラミンゴにとっても、彼らは都合の良い駒だった。
「次ァ、ちゃんと……息の根を止めなきゃァな」
そして、何より、従わない者を敗者の側へ。
従う者は勝者でなければならない。
その信念とも呼べる、ドフラミンゴの腹に括った価値観は、いつだってその弾倉に鉛玉を込める。
「ウィスパー、助けてやるよ……。その代わり、この島はまたおれが貰う」
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