Like a dog,Daydream Believers ライカの名をドラッグに付けたのは間違いだった。
そう思っていた。
あの人が、その名を叫ぶ声を聞くまでは。
ラ イ カ !
予期せぬ鼓膜の振動にびくりと身体が震え、ライカが駆ける音がする。
静か過ぎる故の幻聴の類か
微睡むうちに眠っていたのか
ライカに何らかの識別装置が付いていることは看過していたものの、わざわざ、こんなところまで探しに来るなんて。
存在することすら知られずに、自身でさえ出自を知らない引退した悪党を。
そんな、もの好きはいない。
それでもどこかで、選ばなかった道の先にあったかもしれない何かを夢想しては、照れを伴う温い虚しさを鼻で笑って、自分に呆れた。
信じた自分が馬鹿だったと思いながら、老いて死ぬのも悪くない。
うるさいくらい瞬く星、静かで暖かな家と犬。
金は三人と一匹が一生使い切れないほどあるし、増やすための悪知恵もまだ消さずに生きている。
これ以上の幸福を望んではいけないだろうか。
バナナとヒロポンと一生分の不幸と一緒に辿り着いた地獄から、ようやく這い出たばかりだ。
罰を与えられ、償わされる必要があるか?
続きと、終わりと、始まりを、ぐるぐると巡る夢を見た。
夢か現かわからぬまま扉を開け、声の主と目が合った。
痛みを堪えるような表情は、初めて会った時のままだ。
本当は待ち焦がれていたくせに。
怯えるべきだったのか。
恐れるべきだったのか。
追い着かれたら僕は終わるのか。
それともまた、思いもつかない何かが始まるのか。
どんな顔をしたらいいかわからないまま、ただ彼を招き入れた。
上着に染み着いた煙草の匂い。
険しい顔から想像するより少し高くて軽い、色気のある声が空気を震わせる。
涙目が語るその葛藤と、人生を賭けて追ってきた宿敵への強い憎しみが美しい。
幸せな時はあったのかと問われ、またどんな顔をすべきか迷う。
少し前なら完璧な答えを言えたのにと思ったら、つられて泣きそうになった。
この完璧な人生を終わらせるのが、この男であることだけは救いだ。
「あなたが殺してくれるんなら、またすぐ地獄で会えるかな」
至近距離でウォノの銃が火を吹いて、鮮血が散った。
左のえらと耳たぶを、生温い液体が伝う。
「なんで――お前なんだ」
ライカが示し、己が選んだ道を辿り、彼は来た。
選ばなかった道の先には何もないとでも言うように。
「どういう意味ですか」
「幽霊みたいな奴だと思ってたら、もっとやべぇバケモンだったな」
自分でも常々そう思っている。ウォノにはやはりラクの本質が見えていた。
「あなたは僕に、思っていることの半分も質問しないな」
「聞いたってはぐらかされるんじゃ、意味がない」
はぐらかしてなどいない。正しい質問を待っている。
「だから、自分が答えだと思うことを確かめるためにしか質問しないの?」
「答えはもうわかってる。俺はお前を殺しに来たんだ」
「何の答えです?まだ僕は死んでませんけど、殺しに来たんじゃないんですか?あなたがこの距離で外すなんて有り得ない。撃ちたくなかったんでしょう」
「お前が避けないからだ。この、くそガキ」
そう吐き捨てて、ウォノは部屋を飛び出した。
自分だって何かをはぐらかしすぎて、人前で泣けもしないくせに。
ゆっくり後に続いて、真っ白な雪を踏む。
白い服が赤く染まっていくのを感じながら、捜査の最中、頬を殴られた衝撃を思い出す。
ウォノは拳銃を握ったまま、脱力し座り込んだ。
「俺は人殺しだが、殺し屋じゃない。謎を解いて法で裁くのが仕事――だった。罪を償わせるために」
「死んだ男は殺せない。もう殺す必要もない」
遠くから慎重に歩み寄っていた兄妹が、『撃たれた?』『殺るのか?俺が殺してやる』とうるさい。
首を横に振り、指でしぃ、と制して、ラクはウォノに手を差し伸べた。
あの時、僕が先に気付いた。
繋がったら絡まると察して距離を置く、この不器用で愛しい手に拒まれて、無意識に繋がりを求めた自分に。
気付いたところで先はないと思った。
ただ束の間の僅かな触れ合いに血が巡り、ひび割れた隙間に人間らしさが流れ込む。
差し出したラクの左手を、冷え切った大きな手がつかんだ。
助け起こして身体を支えると、また彼の匂いが鼻腔に届く。
ライカと薪の萌える匂いと同じ、愛すべき獣が生きている証。
大きな男を連れて部屋に向かう足取りは、大事なものの重みを示す。
「警察、辞めたんですか」
「疲れたんだ。何をしても無意味だったと言われ、何と闘うべきかわからなくなった」
「ずうっと地獄で生きてきたのに、僕はまだ、捕えられて償うべきですか?」
悪事の証拠は揃っているだろう。でも、誰が『イ先生』かを示す、物的証拠はどこにも無い。
「悪事はしないと誓えるか」
喪った少女を思い出したのか、ウォノは嗚咽し、顔を乱暴にこすって誤魔化した。
環境を変えて良くなる場合は更生する望みもあるかもしれない。でも根っからの愚かな悪党は、更生したら選択肢が増えるようで、そうでもない。人によっては、より悪い方法で生き延びる悪知恵が付くだけだ。
「やられたことをやり返すのも、悪事ですか」
「復讐しちまったら、復讐者が同じ罪を背負う羽目になるだろ。負の連鎖を止めるのが俺の――」
――仕事だった。
じっと目を合わせたら、気まずそうに黙った。この目だろうか。僕が信じようと思った原因は。
「骨の髄まで警官なんだな……仕事でなければどうしたいですか?」
刑事の才能はあっても、人柄が向いていないのだ。悪人を捕まえるより、人助けの方が向いているんじゃないだろうか。彼には同じことに思えているのだろうけど、幸せになる気がある人間の手助けをする方がきっと似合う。
「殺しは避けたいし、自分が死ぬのもまっぴらごめんだ」
「殺しの話じゃない」
「質問しろって?勝手に話せよ。聞こえてる」
バタンと扉が閉まり、暖炉の前になだれ込む。ラクの血と自分の汗と涙でぐしゃぐしゃになったウォノの顔が照らされる。
「僕は、あなたが知りたいことが何かを知りたい。質問してください」
「その見返りは?交渉上手のイ先生」
ああ、綺麗だな。
虚ろな目は炎の色に煌めいている。
この人は、来た意味をまだ自覚していない。
「答えを得るだけでは満足しない?」
「お前の答えにそれだけの価値があるって?」
「なるほど。問う価値があることしか質問しないってことか。わかりました」
「お前は?俺の何が知りたい?会話がしたいだけなら、気楽にしろよ。あいつらみたいに、くだらねぇことをだらだらとたれ流してろ」
バスルームの手前で、兄妹が何やら話し合っているのが見える。
「もう特に、知りたいことは無いです。だから、あなたが知りたいことを話します」
「何でも知ってるよな。ずっと前から俺が『イ先生』を捕まえようとしてたことも、知ってたんだろうし」
「それは、そうです。でもあなたも僕がただの使い走りではないと気付いてた」
「お互い利用した」
「少女が一人、あの男に殺されたと聞きました。その仇討ちだったんでしょう?」
彼女の死は僕だって、望んじゃいなかった。
「どちらの仇も同じ男だった」
「あなたのチームは勝手な動きをする駄目な部下を捕まえてくれるので、助かっていました。ライカも助けてくれたし……僕を閉じ込めず同行させてくれたのも助かりました」
「くそが」
「それが、あなたの知りたいことですか?今更?」
「自首する気は?」
「あなたはもう警官を辞めたはずだ。僕を捕まえたければ今すぐ捕縛して、真犯人がここにいると警察に知らせればいい。そうしても意味がないと悟ったから、僕を殺しに来たんでしょう?」
「……ああ。お前が罪を償わないって言うなら、俺がお前を殺して、その罪を背負う。止められなかった全ての悪夢と、お前の不幸と一緒に」
うわ言のようにそう吐いて、ウォノの目は虚空に留まる。
「子どもの頃は、自分は本当は誰なのか知ろうと思ったこともありました。目の前で死んだから、親を捜す必要はなかった。本当の名前を知ったとしても、それ以上のことを知ったとしても、もう結果は変わらない。そんなことはこれからの人生にはあまり意味がないと気付いたところで、自分の商才を自覚した。でも、それもどうでも良くなってしまったな」
「家があって犬と友達がいれば満足だろ。いい人生だよ。俺の知る中で一番マシな暮らしだ」
はったりの利く芝居っ気と度胸が物を言う、命懸けで捨て身の捜査官。
ウォノが刑事でなかったら、ウォノの仲間が窃盗団か何かだったら、地獄みたいに腐った世の中でも、もっと愉快に付き合えたかもしれない。
「……泊まっていきますよね」
「あ?」
「また、撃つ気になるまで。殺すなら頭を、捕まえるんなら脚を撃って。僕はあなたからは逃げない。気長に取り調べしたらいい」
兄妹が洗面器とタオル、毛布を持ってきて、ラクから服をはぎ取った。
『俺たち、働き者の妖精かよ』
『あたしはラクの守護天使ってとこだね』
『守れてねぇじゃん。撃たれて流血してんだぞ』
『あ~あ。デートDVでイケメンが台無し』
『そうか?こっちの方がイケてる』
手早く手当されながら、気まずそうにするウォノの視線を追う。
避けた先できらきらのライカの目に捕まって、ウォノは更にまずいという顔をしたが、もう遅い。
跳んできたライカがぐしゃぐしゃの顔を舐めてから、ウォノの胡座の窪みで腹を見せて寛いだ。
思わず声を出して笑ったら、貼ったばかりのテープの端が引き攣れて痛い。
『こら、何笑ってんだラク』
『見ろよ、ウケるぞ』
三人で笑い出したら、ウォノは心底嫌そうな顔をした。
ライカを自分から離そうと触れた手を舐められ、頭を撫でさせられた挙げ句、ライカはウォノの腕をくぐり、胴を回って遊び出す。
「やめろ、笑うな」
「ライカはたくさん芸ができるんだ。あなた、指示を出すのが上手だな」
「出してない」
ライカではなく、僕を見失わないようにGPSを着けた男は、まだ何の答えも出せずにいる。でもその迷いが答え。
迷う間もなく身体が動いて、欲しい答えを知るタイプだ。
「質問してください。僕の方が少しだけ早く、あなたの知りたい答えを出せるから」
「ムカつく野郎だ」
『泊めるの?夕飯は?』
『怒りは空腹から来る。腹が減ると頭も悪くなる』
『確かに。鹿の煮込み?』
『食いたくなってきた!』
「夕飯は鹿肉のシチューみたいです」
「馬鹿かお前ら――……いや、馬鹿は俺か」
ウォノはまた寝転んだライカを撫で、風船がしぼんでいくように長くゆっくり息を吐いた。
「現実が僕らに追い付くまで、夢を見ていたっていいでしょう。あなたには、悪夢かもしれないけど」
『見失う』なんてロマンチックだ。
「そうやって唆されて、こんなとこまで逃げられたんだ」
「あなたは僕を捕まえると言ったから、どこまで逃げても捕まえてくれるのか、確かめたくなったのかも。本当に追いかけてきてくれるなんて思わなかったけど、信じて良かったのかな」
「撃たれて何が良かった、だよ。だったら大人しく捕まれ」
「警察に捕まるのは嫌だ。あなたに監視されるのはいいな。騙し合いも追いかけっこもかくれんぼも楽しいだろうし」
「なんで――お前なんだ」
よりによって、あなたの運命の相手が僕で、残念でしたね。
「僕を救えるのは、あなただけだから」
ライカがウォノの足の間で眠りながら、跳ぶような動きをしている。
「夢でも見てるのか」
育ての両親が僕を見付けた時『さっきまで見ていたのは悪い夢だよ』と言ってくれた。悪いことが起こる度、母は繰り返しそう言って、ラクを見て切なそうに笑って見せたのを覚えている。
幸せな時は目の前にあると言ったら夢から覚めてしまう気がして、ラクはただ黙って、ふたりを見つめることにした。