愛しき君へ 己の頬を濡らす、温かくも粘着性のある水滴。
それが己に覆い被さる男の口からこぼれ落ちた唾液であると理解しながらも、少年は嫌悪を一切抱かなかった。
「……少年」
床に仰向けになっている少年――否、己が押し倒した相手をアオガミは呼ぶ。しかし、それ以上に言葉は続かなかった。少年の両手首を握るアオガミの拘束が解かれることもなく、アオガミは必死に何かに耐えながら呻くばかりだ。半身の喉が上下に動き続ける様を少年は静かに見上げている。
突然の出来事であった。
学園の寮室にて、少年はいつものように読書に耽っていた。その最中、彼は本の頁で指先を切ってしまったのだ。
『――っ!』
『少年』
小さな呻き声であろうと、少年の半身たるアオガミは聞き逃さなかった。食後の珈琲を準備するために台所に立っていたアオガミが、即座に扉の向こうから現れたのである。
『ちょっと指を切っちゃって』
つぅっと、少年の人差し指に赤い筋が生まれる。
思っていたよりも大きく傷がついてしまったらしいと、アオガミに絆創膏を取り出してくれるように頼もうとした少年であったが。
『――』
『アオガミ?』
半身の気配がおかしい――と感じ、呼びかけた直後だ。少年は床へと押し倒された。
結果、身動きが取れず、苦しそうなアオガミの表情を見上げる現状に至ったのである。
(アオガミの唾液って俺と一緒なんだな)
必死に唾液を押下し続けるアオガミを見上げながら、少年はと言えば未だに危機感は一切抱いて居なかった。寧ろ、今まで見たことない半身の様子と初めて知った相手の情報に喜びを抱いていたのである。
(原因はどう考えても血か)
普段と異なる点は先ほど少年が負った小さな怪我のみだ。
緊急的なマガツヒの供給については支部の研究員からレクチャーを受けてはいた。しかし、ここは寮の一室。人間界である。先ほどまでは穏やかな時間を過ごしていたし、本日のダアトの散策も問題無く終わっていた。
(まぁ、理由なんてどうでも良いけど)
己の思考をアオガミに知られたら怒られるだろうなと思いつつ、少年の心中は未だに穏やかなままであった。
(アオガミが俺を欲してくれるなら、なんだって)
――例え、食べられても幸福だと。
「っ……!」
しかし、愛しい相手が苦しんでいる様子は見ていて楽しいものではない。アオガミが苦しむ事を少年は何よりも望まないのだから。
先ほど迄の思考を一転させ、後ほど越水には相談しなければと思いつつ、少年は一つの選択をするのであった。
「アオガミ」
名を呼ばれ、衝動に耐える為にか力強く瞑られていた瞼が開く。
現れたのは黄金の双眸。見慣れた色でありながら、少年が今まで一度も見たことがない情欲に濡れた色がそこにはあった。
「我慢しなくても良いんだよ」
アオガミ自身が望んでいないとしても、と心の中でだけ続けて少年は微笑む。
「アオガミ」
何度も名を呼び続け、狡猾な知恵は清らかな生命の最後の理性を引き剥がす為、愛を囁くのであった。
「キス、したいな」
それから、ハグを――と。