よしよしも二倍 これは、ナホビノが手酷いミスをしてしまった日の出来事である。
敵対する悪魔の耐性や技、動き。その全てを悉く読み取れず、ナホビノは仲魔達の殆どを瀕死にまで追い込んでしまった。
ナホビノ自身は辛くも逃げおおせ、皆の傷は龍脈の力で全て癒えた。しかし、ナホビノの傷心が快調する事は無かった。彼の力不足で傷ついた仲魔達が気にしてないとしても、だ。
『少年』
「……」
『少年』
「……ごめん、アオガミ。まだ、ナホビノのままでいたい」
『承知した』
己の失態に対し、契約を交わしていないが協力をしてくれる悪魔達――殊に、カハクとジャックランタン――からの労りを受ける事も辛く感じてしまったナホビノが逃げ込んだ先は、ベテル日本支部の休憩スペースであった。扉の向こうから様子を伺ってくる研究員達の気配は察知しつつ、ナホビノはだらしなく机に顔を伏せ続ける。
研究員達が気を揉んでいる理由は単純明快だ。ナホビノが、ナホビノで在り続けているからである。
(でも、今は駄目だ。アオガミに甘えちゃう)
ナホビノではなく少年の姿に戻る。即ち、アオガミと隣り合うという状況。
ナホビノは知恵である己を良く理解している為、人間の自分がどういった行動を選んでしまうかという予想は容易かった。その為、分かたれる事を拒否したのである。
「――随分と、落ち込んでいるように見える」
「!」
気遣ってくれるアオガミにも酷いことをしている状況だと、一層凹んでいくナホビノの頭部に静かな声が降り注ぐ。無論、アオガミの声ではない。しかし、街中やネットのあちこちで流れるニュースでよく耳にしてきた声。それなりに聞き慣れた、けれども、多少声音が異なる声。
ナホビノが机から顔を上げると、彼の直ぐ傍には越水ハヤオが立っていた。
「……まぁ、そうですね」
近づいてくる気配に気づかなかった事に驚きながらも、ナホビノは適当な相槌を打つ。今は誰にも慰められたくはなく、会話をすることも億劫であったからだ。
「そうか」
ナホビノの態度から察しが付いたのだろう。越水の返答は会話を終えるには丁度良い塩梅であった。
「君は、頭部に触れられると嫌悪を覚えるだろうか?」
続けられた言葉は、ナホビノにとって全く想定外の内容であったが。
「え、頭?」
一体越水は何を言っているのだろうかと思いながら、ナホビノは素直に応じるのであった。
「相手によります」
「例えば、私は?」
「長官ですか?」
更に重ねられた思わぬ問いかけ。越水の思惑が全く読めないまま、ナホビノは黄金の双眸を普段より見開きつつ、己の生命と似た男の顔を見つめるのであった。
「長官に……?」
頭部に触れられる、という経験はナホビノにとっては滅多にない経験であった。思い出そうとしても特定の場面は脳裏に浮かばない。きっと、自分が幼い頃に撫でられたのが最後だろうと彼は思案する。
――頭部に触れる手。
――見上げた先。
――そこに誰がいたのか?
――逆光の中にあるように見えず、思い出せない。酷く、酷く遠くに感じるいつかの記憶。
「嫌、ではないですよ」
あやふやなまま、ナホビノの口からこぼれ落ちた回答は消極的な肯定であった。
なんとなく、彼は拒絶を選択する事が出来なかったのである。
「……そうか」
先ほど聞いたばかりの筈の越水の回答。しかし、どこか固い声音にナホビノは僅かに首を傾げた。まるで緊張しているようだと。
――その直後、である。
頭部に、髪に触れる第三者の手。一撫でされただけの時間は僅か数秒である。けれども、その時間に確かにあった僅かな躊躇いと、緊張しているかのような指先。
「気負いすぎない事だ」
髪から越水の手が離れると同時に降り注ぐ、短い労りの言葉。越水は呆気なく踵を返して休憩スペースの出口へと向かって行くのであった。
「……」
扉は静かに閉まり、その先に研究員達の気配も既にない。
おそるおそる、己の頭部に触れながらナホビノは内なる半身に問いかけた。
「……アオガミ」
『何だろうか』
「俺、撫でられた?」
『その認識で間違いはないだろう』
アオガミも困惑している様子であった。
「何で、撫でられたんだろう?」
『長官なりの労り、だったのではないだろうか』
恐らくは、と言葉を濁す半身。
ふたつの意識がひとつの体を共有する希有なるナホビノ。彼らは共に戸惑っていた。けれども、嫌悪感は一切無い。引っかかるのは、思い出せない懐かしさだけである。
「俺、そんなに落ち込んでる?」
『とても、と表現するのが似合うと私は考える』
「そっか……。ごめん、アオガミにも心配掛けたよな」
『私に謝る必要は無い』
「ありがとう、アオガミ」
そこでナホビノは気づく。先ほどまでは会話すら億劫だった筈なのに、と。
越水は何かしらの回復魔法を覚えているのだろうかと疑問を抱きながら、閉じた扉を暫くの間、ナホビノは見つめ続ける。
(懐かしいと感じたのは、俺じゃなくて"俺達"だからか)
たった一つの、確信だけを抱いて。