Serenity「簡単な事だと思うけどな」
高いところから、子供の声が降ってくる。
「黙れ。貴様に何が分かる」
せせらぎに足先を浸しながら、ラーハルトが鼻を鳴らす。
初夏の木漏れ日が小川に跳ねて、透明な流れに彩りを添える。
地上のどんな生物もかなわない俊足も、柔らかな水の中では剣呑さを欠いて穏やかだ。
「大好きだったら、大好きだって言えばいいじゃないか」と、また小さな声が言う。
「何の見返りもないのに? 時間の無駄、精神力の無駄だ。よく聞け、クソガキ――俺は、効率に全てを賭けてきた。無駄をそぎ落とし、使命に集中し、いついかなる時にも目標を見失うことは無かった。だからこそ、最速の域に到達したのだ。我が肉体の限界を、至高の感覚を、主君への忠誠を、絶え間なく磨いてきた。脆弱な思念の付け入る隙はない」
誇らしげな独白は、しかし、圧倒的な若葉色の中でなんとも鋭く、場違いに響いた。「……それが、俺だ」
「だからじゃないかな」
考え深げに、謎の声が呟く。
「だから、魔剣戦士に敗けたんじゃないかな」
しん、と静まり返った木々の間に、水の奏でる優しい和音だけが流れ去っていく。
「……どういう意味だ」
ラーハルトは、顔を上げずに言う。
「もう、きみは分かっているんだと思うよ」
がさがさと葉を鳴らして、高枝にとまっていた何かがぽとんと落ちてきた。
ありきたりなスライムだ。
ラーハルトの膝の上でくつろぎながら、上目遣いに、「そうでしょ?」と続けた。
陸戦騎は答えない。
じっと、透明な流れにゆらぐ足指の先を見つめている。
「与えられる愛は知っていたけれど、与える愛は忘れちゃったんだよね」
スライムはふるりと身じろぎして、にっこり笑った。
「でも、大丈夫だよ。きみはもうずっと前から、愛することを知ってるはずだから」
そして、ぴょいと膝から飛び降りると、楽しげに跳ねながら森の奥へと去っていく。
「怖がらなくていいんだよ」
ぴょんぴょんと跳ねるその傍らを、半魔の子供が歓声を上げて駆けて行く。
転んでは起き上がり、心から笑いながら、ただ、前へ向かって。
ずっと、忘れていた。
庭の薔薇を訪ねてくる蝶、森の奥の泉、小さな獣たち、甘酸っぱい木の実。
未来ははるか遠く、いつかみなと同じように大人になって、数々の冒険が待っていると思っていた、あの頃。
何もかも祝福してくれた、母の大きな笑顔。
一人と一匹の幻が消え去る頃に、ラーハルトは顔を上げた。
……そうだ。
とうに気づいていたのだ。
完全無欠たる己に欠けていたもの、そうと知らずにいつしか失ってしまったもの。
たとえ限りなく非効率的で、無価値で、なんの保証もない賭けだとしても。
どんな結果になろうとも、全身全霊で追いかけなければならなかった――あの男は、やっと見つけた最後のピースだったのだ。
両足を清流から引き上げるとブーツを拾い上げ、そのまま裸足で歩きだす。
――相棒が待つ、古びた小屋の方へと。