Eggs「見ろ、ラーハルト」
ヒュンケルが寝室から声を張る。
ラーハルトはスープを煮立てる火を弱め、ことさら面倒くさそうに、彼が横たわるベッドに向かった。
「なんだ、朝から。いや、そもそも、きちんと起きて手伝わんか、この怠惰なごくつぶしめ」
「俺は休日だ。忘れたのか。それより、この本、古代の魔導書かと思ったのだが」
サイドテーブルには、昨日仕入れてきた古書が山積みになっている。寝転がったままのヒュンケルが、そのうちの一冊を指し示した。
擦り切れた印刷で、黄色っぽい楕円形がうずたかく積まれている、なんとも緊張感のない表紙。
「訳してみたら、全然違った。卵料理のレシピ集だった」
「だろうな」
見ればわかる気がするが。
とは言え、古の世界にも卵があったのか、と、確かに興味は湧いてくる。
「卵を溶いて混ぜて焼くだけの料理が、百種類もあるんだ」
「古代人は何がしたかったんだ」
「素晴らしい叡智だと思わないか」
と、きらめく瞳でラーハルトを見つめる。だいたいヒュンケルの意図が読めて、ラーハルトはため息をつく。
「全部作ってみよう」と、ヒュンケル。
「どうせ作るのは俺だろうが。言うだけ言いおって貴様」
「毎朝違う卵料理だ、飽きる心配も無いぞ。それに」
「それに?」
ヒュンケルは途端に声を潜めた。
「……全てのレシピを完成させた時、何かが起こるかも知れぬではないか」
なんてくだらない。ラーハルトは返事を省略した。
「たまごの妖精が、願いを叶えてくれるかも」
「……普通に考えて、その精に呪われるんじゃないか。食いまくるんだから」
「試してみよう」
ヒュンケルはあくまで前向きだ。
「ボラホーンとガルダンディーも元気に卵を産み始めたし」
「待て。なんだと?」
「ニワトリたちに名前を付けたんだ」
と、窓の外を覗いてヒュンケルが微笑む。二羽のめんどりが、のんびりと雑草をついばんでいる。
「……一応な、奴らは俺の仲間だったんだ。少しは想像力を働かせろ」
ヒュンケルは驚いた顔で振り返る。
「駄目か……? お前が寂しくならずに済んで、よい考えだと思ったのだが。では、ゾーマとバラモスにしよう」
「なんだそれは」
「太古の魔界を牛耳った怪物の名だ。俺とおそろいだぞ」
そんなことで胸を張られても。
ヒュンケルはラーハルトの異論も待たず、一ページ目を指し示した。
「一日目は、ただのオムレツだ。簡単だな。俺でもできそうだ」
「貴様に作らせてたまるか。貴重な卵が無駄になる」
結局、ヒュンケルに甘いラーハルトだ。どんなに理不尽でも、彼が喜びそうなことなら手を貸してしまう。
「怠け者め。特別サービスだ、今日はベッドでの食事を許す。『ただのオムレツ』と熱い茶を作ってやるから待ってろ」
窓辺の寝台から聞こえる勝利のくすくす笑いを背に、ラーハルトはキッチンに消える。
35日目
寝坊した。
あくびをしながら食卓にどかりと腰かけると、隅の方にあの本が放置されているのが目に入った。なんとなく手に取って、ぱらぱらとめくってみる。
と、ヒュンケルがひょいと肩越しに覗き込んだ。
「おい、今日はサボる気だったろう。お見通しだぞ」
「……自分が作るんでもない癖に偉そうに」
ラーハルトは目を擦ってレシピを覗き込む。訳の分からない文字の羅列。
「俺が翻訳しなかったら作れないだろう。役割分担だ」
と、ヒュンケル。やはり偉そうだ。
まったく。
ラーハルトは立ち上がるとひとつ伸びをして、ニワトリたちの成果を確認しに庭へ出た。
41日目
「この章までが、薬草と野菜のオムレツだ。来週からは、『狩人』のオムレツの章だな」
「狩人?」と、ラーハルトがおうむ返しに聞く。
「肉料理だ」
「ありがたい。珍妙な草を探すのは骨が折れた」
パデキア、という謎の薬草は特に難儀だった。ついには大勇者アバンの知恵まで借りて、風味が似ているという山菜を手に入れたが、かなり独創的な味だった。
「それで、この野菜はいったいなんだ」と、飾り文字で描かれた今日の料理名を指さした。
「ア……ティ……ショー、か、アーティチョーク? という呼び名のものだ」
ヒュンケルが厳かに述べる。「文脈から予想するに、スライムみたいな形状の、多分、花だ」
「なんでもいいが、どこに生えているんだ」
「分からん。多分王宮図書館の植物学全集第四版第二章あたりに図版があるはずだ。あとは任せた」
「おい、ちょっと待て――」
いつも通り、ヒュンケルはひらひら手を振って寝室に消えてしまった。
……まったく。
73日目
ニワトリたちは今日も自由だ。
不器用なヒュンケルの試作品をラーハルトが大幅に改良して、漸く様になった彼らの寝床には、生みたての美しい卵が尽きない。
なんとなく彼女たちの視線を感じながら、今日もラーハルトは卵を採取する。
「……悪く思うな。毎朝卵料理を作らないと、ヒュンケルがうるさいんだ。恨むなら奴を恨め」
そう言ってやると、ゾーマは不思議そうに首を傾げた。
92日目
「今日で『釣り人』の章は終わりだ。お前の苦手な魚ばかりだったのに、よく頑張ったな、ラーハルト」
「やかましい」
機嫌よくほかほかのオムレツを見下ろすヒュンケルを白い目で睨む。
魚はそんなに好きではないのに、獣王の協力を仰いでまで具材を確保し、毎日のレシピを完成させたのだ。ただただ苦行だった。
「どのオムレツが一番好きだった?」ヒュンケルが無邪気に聞く。
「正直、一年は卵を見たくない」
「そうか。俺はマージマタンゴの胞子と、ドラキーの巣のレシピが好みだなたぶん」
まっとうな味の物が他にもあったろう、と叫びたくなる。
「特にその二つは大変だったぞ。せめてどこで採れるのか書きとめておいて欲しいものだ、この本も」
「うむ。大変だったろう。俺も手伝えればよかったのだが」
と、いつになく神妙なヒュンケルが言う。
「やめておけ。貴様が料理に手を出してもロクなことが無い」
「俺が手を出したらロクなことが無いと思っているだろう」
と、ヒュンケルが遅れて言う。
100日目
「最後だな」
「ああ。やっと解放される」
と、ラーハルトは無心に卵をかき混ぜる。
「だいぶうまくなったな。宮廷の料理長も務まるのではないか」
ヒュンケルは傍らで無責任に称賛する。
「誰のせいだ」憮然としつつも、確かにその通りだった。
地上・魔界広しと言えども、今やラーハルトに敵う者はいないだろう。オムレツに関しては。
どうでもいいステータスが加わったことを嘆きながら、最後の一皿を食卓に運んだ。
「奇妙だな、こんなに簡単だとは」
作者も息切れしたのだろうか。最後のレシピは、最初と同じ、卵だけのものだった。
「『工夫のないレシピとお思いか。大きな間違いだ。ここには新たな何かが加わっている』と、書いてある」と、ヒュンケルが最終ページを読み上げる。
「新たな何かとは?」
ラーハルトが気怠そうに聞く。
「分からん。各々気づくべし、だそうだ」
「陳腐な。技術を得た、腕を上げた、というような意味だろうさ」
ラーハルトが黄金色の塊にフォークを入れると、夢のようにとろけた卵がこぼれ出た。
「実際、腕を上げたんだ。良かったな」
「お前がやれと言うからだろう」
口に運ぶと、新鮮な卵の香りが鼻腔に拡がった。
新たな命が臓腑に染み渡るような、幸福の黄色。
ヒュンケルはじっと考えていたが、背筋を伸ばした。
「ラーハルト」
「?」
咀嚼しながら顔を上げると、ヒュンケルが微笑んでいた。
「ありがとう。俺の我儘に付き合ってくれて」
「いつものことだ」
二口目を切り取って、口に運んだ。
だが、うまく味わうことが出来ない。
「まだお前が生きていて、ゾーマとシドーが生きていることが、俺は嬉しい」
「ゾーマとバラモスだろう」
声が震えた。
「間違えた。バラモスだ。とにかく。――お前が元気で、生きていて、ちゃんと食べていて、幸福でいてくれれば、それでいいんだ。忘れないでくれ。……ラーハルト、」
続く言葉が、不可思議に歪む。
涙でインクが滲んだのだと、時間をかけて知覚した。
顔を上げる。
目の前のからっぽの椅子と、少し冷えたオムレツの皿に、朝の柔らかな光が降り注いでいる。
かちゃり、とフォークをとり落とす。
ラーハルトは涙の痕が拡がるレシピ・ブックの文字列を、指先でなぞってみた。
古代の文字の隙間にびっしりと書き込まれた、ヒュンケルのメモ。
彼が居なくなった日よりも、少し前の日付から。
ついに簡単な卵料理すら飲み込めなくなった次の日にあたる章から始まって、最後のページまで続いていた。
ラーハルトが一人になっても困らないように、全部翻訳してあった。
ところどころに、小さなメッセージを添えて。
「きっと今度も大丈夫だ」
そのうち戻る。ヒュンケルは掠れ切った声でそう言って、仲間たちに抱きかかえられるようにして王宮へ向かった。もう、二か月前だ。
一進一退を繰り返す病を、彼はなんども生き抜いて見せた。
今回の治療が成功するのか、それがどんな内容なのか、ラーハルトには知る由も無かった。
彼の師も、きょうだい弟子たちも、全力でヒュンケルを生かそうとしてくれる。その役割を担う事ができない己を憎むよりも、ただ、怖かった。
現実を直視するのがこんなに恐ろしいことだとは、誰も教えてくれなかった。
幸いなことに、彼らはラーハルトの恐怖を良く理解し、そっとしておいてくれた。
何度見直しても、もう続きの言葉は見つからなかった。
彼の姿ごと、小さなピリオドに飲み込まれるように掻き消えてしまった。
「100日間」
ぽつりと呟く。
この笑止千万な儀式、やり通したぞ、ヒュンケル。
「何かが起こるのではなかったのか、たまごの妖精とやら」
返事はない。
耳をつんざく様な静寂と、誰もいない部屋。
「俺が生きていればいいんだ、だと?」
どこまでも勝手な男だ。
分かっている。いつかはその日が来ると、分かっている。
だが、まだだったんだ。まだ、俺には。
足元が崩れ去るような喪失感に視界が歪む。地獄から響く不穏な呼び声に、ふらふらと立ち上がったその時。
どぉん、という無作法な振動に、粗末な家じゅうが軋んだ。ニワトリたちがこの世の終わりのような悲鳴を上げている。
中腰のまま、ラーハルトは硬直した。
ルーラの着地音だ。
数人が歩み寄ってくる気配。
息を止め、魔族の血を引く聴覚をこの上なく集中させて、足音を探る。
明らかに慎重な、一歩一歩確かめるようなその歩幅と、それを優しく支える人々の囁き。
重かった足取りが、『家』に近づくにつれ、軽く、力強く変化していく。
ラーハルトは椅子を蹴立てて戸口に向かい、ノックが聞こえる前に扉を引き開けた。
小麦色の朝日を背に、数人の影が見える。その中心に、彼が居た。
出て行ったときよりも更に痩せ、立っているのがやっとという姿ではある。だが頬に赤みが差し、瞳には生への希望が満ち溢れていた。
「ただいま」
と、ヒュンケルが言った。
ラーハルトはきっかり五秒間、黙って友人の顔を眺めていた。
そして、彼を抱きしめもせずに、くるりと背を向ける。
「……朝食にしてやる。『どれ』がいい」
ヒュンケルはくすくす笑って、
「35ページ」と言った。
彼に付き添ってきた兵士たちが、怪訝そうに顔を見合わせている。
ラーハルトがやれやれと手を挙げる。
「まだ全部食べていないからな」と、ヒュンケル。
「やっと完成したのにやり直しか。我儘な奴だ」ラーハルトがぶっきらぼうに言うが、誰が聞いても分かるくらいの鼻声だった。
「今度は手伝う。いいだろう」ヒュンケルがゆっくりと扉をくぐる。
「病人が。立っているだけで精いっぱいのくせに」
「立っているだけの方が負担なんでな。手伝わせてもらう」
「好きにしろ」
また、二人の日常が始まる。
愛おしいこの日々は、もう少し続く運命らしい。
絶望と、安堵と。振り子のように揺さぶられながら、ついにその日を迎えるまで、俺たちはどこまでたどり着けるのだろう。
いつか来るその時には――たまごの妖精やら古代の怪物やら、忠実な二羽のめんどりやらが、静かに見守っていてくれるのだろうか。
そんなとっ散らかった終末を想像して、悪くない、とラーハルトは思う。
がらくたみたいな思い出を、これからもかき集めて行こう。
終わりの日を賑やかに、幸福に彩るために。