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    Jeff

    @kerley77173824

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    Jeff

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    Ghosts in Cuernavaca.
    Lisboaという作品の、遠い未来の話です。
    2021-09-22
    *過去作です*
    <Web非公開としていた短編ですが、新刊「サンクタム」に収録予定のため、一時的に公開しております>

    Jacaranda .



     少し先端のすり減った杖で砂利を避けながら、慎重に歩を進める。
     何も考えずとも足が体を運んでくれていたのは何十年前の話だ。今は考えれば考えるほど動けない。
     杖の先やほんの少しの石畳を目印にして、短い距離を刻みながらやっとベンチに辿り着いて息を吐く。
     体は重く、思考は大河の如くどろりと流れゆく。話しかけられてもすぐに返事ができない。弁舌が取り柄だった自分が。
     幸いまだ動けるから、こうして街路樹の中に居場所を見つけにいく。クエルナバカ・セントロから少し離れた、何の変哲もない小さな公園。
     朝日に染まっていく雲とまだ眠っているかのような街、見事な花々との対比に飽きることは生涯ないだろう。この年齢ではもう何年もないだろうが。

     思い通りに動かないのが体だけならば良い。いつかは頭もひどく遅くなり、誰かと話すこともできなくなるのだろう。
     満開の並木をぼうっと見つめる。手繰り寄せた脳内の糸が、ああ春だ、と暖かなリザルトを返す。そして、自分以外の人間の気配にようやく気付いた。

     呆然と立ち尽くす人影は、30歳にもならなそうな、背の高い青年だった。すっぽりとフードのついた外套を身につけているが、なんとも時代がかっていて、この天候にも見合わない。
     もっとも、最先端のファッションだと言われてもおそらく自分にはわかるまいが。
     朝靄に輝く花々を見上げながらも、視線が定まらない。じっと観察しているとこちらに気づいたのか、躊躇いがちに近づいてきた。
     みじろぎしてベンチの端を開けてやると、音も立てずに腰掛けた。

    「旅行者ですか」
     なぜ話しかけようと思ったのか分からない。年齢を重ねると、以前だったら注意深く避けていたような余計な関わりも怖くなくなるものだ。
     幸い言葉は通じた。
    「ええ、その様なものです」
     何か変わった訛りがあるが、とにかく話せた。不思議と心が軽くなる。
    「だいぶ朝が早いのですね。まだ誰もいないのに。もう少し待てば賑やかになりますよ」
     小さく息をつく様な返事が聞こえたが、その後は静寂に包まれた。時折舞い散る花弁以外に、特に面白いこともない、ありふれた公園の景色。
    「人を待っていたのです」
     と、青年が口を開いた。やはりどこか変わった国の言語に聞こえるが、何故か意味は理解できる。「どうも迷ってしまったようです。ここはどこなのでしょう」
     老人は杖を抱え直すと、初めて青年をまじまじと見た。
     いつの間にかフードが取り去られており、特殊な病気か突飛な装飾でもない限りありえないような華麗な銀色の髪がそよ風に揺れていた。鋭いがどこか不安定な横顔は、長年の記憶を検索してもうまい表現の見つからない、なんともいえない美しさを湛えている。
    「公園はここ以外にもたくさんありますよ、どちらでの待ち合わせですか」
     青年は黙り込んだ。たっぷり数分は沈黙が続いたが、特に焦ることもなかった。答えがあってもなくても、昔ほど気になることは無くなった。
    「思い出せないんです」
     そうでしたか、と口の中だけで呟く。いくら老いていても、さすがにこの若者が普通ではないらしいことは分かる。しかし詐欺師や泥棒の類とも思えない。売れない役者の練習台にさせられている可能性ならあるかもしれないが。
     青年は意を決したように顔を上げた。
    「ここはどの大陸ですか」
     そうきたか。
     しかし何故か、この遊びに付き合ってやりたくなった。
    「北米ですよ」
     彼はまた目を落とし、所在無げにマントの片隅をいじった。
    「地が果て海が始まる国ではなさそうですね」
    「それはヨーロッパでしょうね。ここに来るには大西洋を渡らないと、アレクサンダー・フォン・フンボルトの様に」
    「古の勇者の様に、船を得て」
    「ええ」
     十年前の自分だったら、何の企画だ、老人をからかって面白がる不届き者め、仲間が茂みに隠れているのではないだろうかと、ひたすら眉をひそめ辺りを見回していただろう状況だ。激昂していたかもしれない。
     なのに、なぜだろう。今はこの不毛な会話が心地よい。
     青年は夢見るようなまなざしのまま淡々と話し続けた。
    「はぐれたら、この花の下で会おうと。そう約束したんです。だからこの時期には必ずそこを訪れていたのに」
     年季の入った外套の端を爪の先で引っ掻きながら、「今年はどこか間違ってしまったみたいだ」と自嘲気味に囁いた。
     物事をつなぐのが鈍重になってしまった脳内で、状況をなんとなく推測しようとしたが、どうも無駄な気がしてきた。
    「この年齢になると、待ち合わせる相手もいません。街を離れて旅することも出来ないですから、公園が生活のすべてです。お若いというのは、羨ましいですね」
     そう言うと、青年は顔を上げてじっと老人を見た。
    「年を取るというのは、どのような気分ですか?」
     などと言う。いい大人の質問ではない、まるで孫の言葉だ。小学校の教師だった頃に、同じようなことを聞かれたことがある。真っ直ぐな目をした子供達に。
    「良いものではないですよ。昨日の事も忘れてしまう。舌は重いし、腰は伸びない。筋肉が落ちてしまって、数センチの段差も怖い。排泄だって難しい。全てがゆっくりで、しかも、痛い。皮膚は薄くてすぐに傷だらけになる。髪がべたついて、口の中がひどく匂うこともある。杖を取り落としたら、拾うだけでも難儀。未来はこんな風に広々とした青空ではなく、漏斗の先の様に暗く狭い行き止まりです。いつか終わるはずなのに、ものすごく、遅い」
    「……そうですか」
     それでも旅人は、まずいことを訊いてしまったというような素振りもなく、少し微笑みすら浮かべて視線を花へと戻す。
    「自分には、あなたが眩しい。人に許される限りの時間を、この世界と共に生きていて。俺にはできなかったから」
     小鳥のさえずりと共に、小さな木の実が落ちる音がする。植え込みがざわめく。いつもこの辺りを通り過ぎる猫だろうが、姿は見えなかった。
    「最後まで、生きることにしがみついていたかった。ほんの少しでも、彼と一緒にいたかった」
     異国風の響きを持つ言葉の意味をじっと考える。文脈が、遠いやまびこの様に時間をかけて認識に追いついた。

    「それでは、あなたはもう生きていないのですね」

     現実主義。数学者。教育者。冷徹。理論家。そう呼ばれてきた人生の終盤。空想にふけることすらほとんどなく淡々と生きてきたのに、まさか口にするとは思わなかった不可思議な言葉がこぼれ出てしまった。

     青年は返事をしなかった。

     上りたての朝日の冷たい青が徐々に薄まり、温かな午前の黄色い日差しが侵食してくる。公園のすべてが色づき始めている。
     それなのに、二人の周囲だけは冷えた早朝の空気が残っているように感じた。世界から切り取られたかのように。
    「……もう行かないと。お話しできて良かった」
     青年はフードを被りなおして立ち上がり、杖の先に置かれた老人の手に自らの両手を重ねた。陶器の様に白い肌は、しかし、想像よりもずっと柔らかな感触を残した。
    「待ち合わせ場所が見つかるといいですね」
     と言うと、
    「ええ。あなたも」
     と返された。
     驚いて見上げる。日差しを背にしたフードの中身はよく見えなかったが、穏やかな微笑みは感じ取ることができた。

     そのまま迷いなく振り返り歩き出した青年の背をじっと見つめていると、突然雷に打たれたように立ち止まった。
     一陣の風が吹き抜け白い外套が舞うと、その向こうに淡い影が見えた。
     青年が慌てた様子でこちらを振り返る。けして優雅な仕草を崩さないが、ほんの少し動揺した足元と丸く開かれた目から、子供の様にはしゃいでいるのが分かる。 
     こちらも、思わず頬がほころんでしまう。
    「友達が見つかったのかね」
     光の中で、青年は今一度フードを取り去り微笑んだ。
     雪の様にも見えた白く豊かな髪は、今はもう春の日差しを受けて澄み切った小川の様にきらめいている。
     心の奥が掴まれるような、輝くばかりの笑顔。
    「彼は絶対に俺を見つけるんです。どこにいても。そう約束したから」
     その声は距離に比して遠く感じられ、空気全体が響くようだった。けぶるようなすみれ色の雲が、彼らを包んで歌う様に揺らめいている。

     走り出した青年が一歩遠ざかるにつれ、なにかまばゆい光がその足元から立ち上る。平凡な公園に居合わせた生き物もガラクタも妖精も皆、永遠の約束を祝福して浮足立っているようだった。

     蜃気楼の向こうで、時空を超えた恋人たちが抱き合うのが見える。
     くすくす笑いが木々と響きあい、打ち寄せる波の様に拡がっていく。ついには辺り一面が幸福なおしゃべりと笑い声に包まれた。

     聞き覚えのある音。
     囁き声に誘われるように目を閉じれば、古びた木材と絨毯の香りと共に、視界いっぱいに絢爛豪華な舞台幕が映った。
     着飾った客の笑顔、シャンパンの香り。
     人生最後に訪れた旅行先だった。メトロポリタン・オペラのバレエ公演、演目は「眠れる森の美女」。
     開演直前のオーケストラの音合わせ、オーボエの"A"に始まる共鳴が世界を埋めていく。
     高まる期待と興奮の中、そっとかたわらの手を握る。
      
     ……なぜ忘れていたのだろう。
     いつも隣で微笑んでいてくれた、あの人の事を。


     目を開けると、不思議な音は消え去っていた。
     いつもどおりの風景。
     そろそろ人通りが目に付くようになってきて、ジョギング中の女子大生が目の前を横切っていく。顔なじみの野良猫が興味深そうに遠くからこちらを見ている。

     息を吐き、杖を握りしめていた手を緩める。
     
     きっと誰も信じないだろう。
     自分も、明日になれば覚えているかすら分からない。

     肌身離さず持っている小さな手帳を苦労してジャケットのポケットから引っ張り出すと、慎重に古びたページを繰る。目的の番号は擦り切れていたが、まだ読めた。
     その下に書かれた名前を、ひび割れた指先でそっとなぞる。

     穏やかな朝の空を覆うハカランダの花弁がひとつ、落ちてくる。
     それをしおりに挟むと、老人は時間をかけて立ち上がる。
     じりりと杖を構えなおすと、紫の並木の中へと、一歩踏み出した。
     
      
     


     
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