自己認識 少し離れた場所でしゃがみ込み、デコピンを食らった額にハベトロットから絆創膏を貼ってもらう道満を眺めてから、マスターは振り返りヘシアンを見た。
「そういやヘシアン、ニャンコを説得した時、ロボはなんて言ったのか知ってる?」
首なしの騎士に問うと、彼の指が狼王の脚を指さした。
それから指は道満を指し示し、最後に自分の喉へ向けるジェスチャーをしてみせた。
「どういう事?」
「……こうではないでしょうか」
マスターと共にヘシアンの動きを目にしていた晴明が口を開く。
「ロボ殿にとってその鎖は忘れがたき屈辱の証であり、彼を構成する概念の一つ。我々が現界した時の服を着替えられるように、鎖も実を持っているのだから外せるはずで。だが今なお身に着けたままであるのは、人間を憎む心を決して忘れてなるものかという楔の役割を持っているから。鎖の音がする度に、彼は自身が何者であるのか認識し、だからこそ彼であり続ける事ができる。
道満の喉元を覆うものも意味を同じくして、今回のように一時気まぐれを起こしてしまう事はあれど、それでも己が己である以上、揺らぐ事は、他にかまける事はない。
化け猫の入り込む余地は微塵もない。決して振り向かない相手を追い続ける覚悟はあるのか。手に入らないモノを追うは愚と知って尚、その道を選び取るのか……と」
晴明の言葉にヘシアンは親指を立てて見せる。どうやらビンゴらしい。
成程納得。しかし解説とは言え、自分がそこまで道満から目の敵にされていると言う事を平然言ってのけるかね?という顔でマスターは晴明を見つめた。
「晴明さんさ、楽しんでるみたいだけど、道満からそうまで思われて嫌じゃないの?」
「ははは、楽しんでいると見抜かれてしまったのならば私もまだまだ。ええ、楽しい、実に愉快。サーヴァントは影法師ではあるがほんのひととき楽しめる第二の人生ともいっても過言ではないから、生前では想像もできなかった体験を、もっと他の事を楽しめばいいのにと思わなくもない。
しかしそれでも、あれが私だけをまっすぐに見つめている。そうする事が自分なのだと声もなく吼えている。これを無視なぞできようはずもない。
ここだけの話ですが、道満から冷たく燃える視線で見つめられ、いつ仕掛けてくるのだろうかとぞくぞくしながら待っているのはなかなかスリリングで癖になるんですよ」
晴明は口の端を歪めて嗤う。随分と人の悪い笑顔であり、発した言葉は道満は決して自分に勝つ事がないと確信しているからこそ口にできているのだと知れた。
道満が勝つ事はない、しかし晴明とて全部が全部軽くいなしているという訳でもなく追い詰められる事もあり、彼にとってはその駆け引きが楽しいのだろう。単純に道満をいじめて楽しんでいるのとは訳が違い、だからこそ厄介。
晴明が来る前、どんな人物なのかと彼を知る者達に人となりを聞いた時の反応を思い出し、あれが意味していたのはこういう所なのだなと納得できる思考の持ち主、それが安倍晴明。少しだけ道満に同情してしまう。
そういう余裕ぶってる所が道満から余計に嫌われる原因なんじゃないかなと思いつつ、マスターは身を伏せ目を閉じているロボに視線を向ける。
「協力はしてくれるけど、やっぱりロボは人間を憎んでいるんだね......」
ぼそりと呟くとぽんと肩に手が乗せられた。見ればヘシアンの手が元気づけるようにもう一度ぽんと肩を叩いた。
「気にする事はない。人間を憎んでいる事は変わりないが、しかし人理が消えればロボはブランカと出会い愛した日々もなかった事にされると理解している。迎合する気はさらさらないが、きちんと整理はできている……と言った所。
己が己である為にマスターの善性に引かれる事を拒み、復讐の獣であり続ける事で自分の有用性を保ち続けているという訳だ。それはマスターに対する彼なりの真摯さの現れ。
もしあの鎖が取れる日が来るのであれば、それは彼の中で揺るぎないものが生まれた証拠。狼王という存在が更に強くなったという事だ」
そう晴明が解説をすると、ヘシアンが両手を上げた。大正解、万歳!……という事だろうか。
「晴明さん、よくロボの気持ちがわかりますね?」
「それはそうだろう。私とて同じ。あれと過ごした日々をなかった事になんてしたくはない」
これからもロボは協力してくれると知ったマスターは安堵して、それから、安倍晴明は特に術を使うでもなくこうまで他人の心が分かるのに、なんで道満とはああなのかなあと考えて、はたと気がついた。
さっきの言葉といい、晴明さんは道満の事、滅茶苦茶気に入ってますよね? 好きな子にちょっかいかけずにいられない子供みたいな精神で道満に絡んでいきますよね。もし、『嫌われる』という強い感情で道満の中に在り続けようとしているのなら、それってかなり傍迷惑なのでは?
そして晴明のそういう所がダメなんだと知っていながら無視するでもなく(晴道さんがそうさせてくれないとは言え)敢えてつっかかっていく道満は、晴明の言葉を借りるなら『決して手に入らないモノを追うは愚と知って尚、その道を選び取る』を実践しているのだから、相当に晴明さんの事、好きだよね
マスターが何を考えているか大体の想像がついた晴明は内心で笑う。
道満が桔梗色の首の飾りを必要としなくなった時。それは道満の自己の成長であると共に、忌々しく思うはずの安倍晴明と決別すまいと、現在の霊基に内包する事を選択したという意味を持つ。
刻み込まれた記録から来る感情ではなく今の彼が自ら『そうあれかし』と定め、晴明という存在と共に在る事を望んだ姿。
蘆屋道満──安倍晴明なくして語れぬ存在ではあるが、しかし心の平穏を求めるならば陰陽師という方に焦点を当て、晴明と極力関わらない道を選ぶ事もできように。
それをしないのは道満自身の意識によるもの。
そうまでして望まれて手を出さないというのは失礼であるし、何よりも、晴明は道満との関わりを特別なものだと思っている。発端について道満が先か晴明が先かはどうでもいい。
憎むべき者がいるというのに、復讐者には成り得ぬ蘆屋道満。しかし彼は本来適するキャスターでなく、自分の感情を薪にするアルターエゴで召喚された。
その事実が彼の答えであり、そもそも首の飾りを持ち出すまでもないのは確かだが。
であるからして、この絶妙な運命を楽しまなくてどうするのだ。
戻ってきた道満が晴明の顔を見て眉を潜めた。
「晴明殿はまた何かよからぬ事を考えておいでですな」
「わかるか」
「それはもう」
苦虫を噛み潰した道満を見つめた晴明は喉の奥で笑う。道満はこちらをよく理解している、その事が楽しくてたまらない。
手を伸ばすと道満が一瞬構えたが、気にもかけずに額の絆創膏に指でそっと触れた。
「痛ましいおまえも可愛いなと。だが、まあ──痛いの痛いの飛んでいけ」
言いながら晴明の指先が「ぺっ」と絆創膏の上をなぞると道満の顔が益々険しくなる。
「馬鹿にしてるのですか」
「きちんとした術なのに信用ないなァ」
意味ありげに笑うと晴明は道満の側をすり抜け、次へと移動する意思を見せた。
残された道満は言えば額の痛みが本当に失せた事を知り、あんなおもちゃのような術で……と、唇を噛み、痛みを与え今また消し飛ばしと道満の感覚を自在に操る男の遠ざかる背を睨んだ。