バレンタイン ししさめ♀バレンタインの1週間前、村雨は久しぶりに兄の家を訪ねていた。顔を見せに行くついでに兄の健康状態を診るという大事な目的を兼ねて。
家族との昼食を終えて義姉とソファで話をしていると、姪が村雨に話しかけた。
「ねえ叔母さん、今年も味見お願いしていい?」
「ん? …ああ、もうそんな時期か。」
「ごめんね、礼二君。この子ったらどうしてもあなたにお願いしたいって聞かなくて。」
毎年バレンタインが近付いてくると、姪は村雨に手作りチョコの味見を頼む。父親と弟、友達に毎年あげているという。最初は自分でいいのかと聞きながら引き受けていたが、今ではすっかり二つ返事で引き受けている。
「だって叔母さんの感想、すごく的確で助かってるんだもん。厳しいとか思う方がおかしいよっ。」
「…ふふ、あなたの将来が楽しみだな。」
自分を慕ってくれる姪の頭を撫でれば、彼女は嬉しそうに笑った。何を作ろうかなと話す姪を見て、村雨は獅子神の姿を浮かべる。きっと今年も彼の家でお手製のチョコスイーツを食べて過ごす事になるのだろうが、今年は、少し変えたいと思った。
「味見はもちろん引き受けるが、その、義姉さんにお願いがある。」
「え、なになに?なんでも言って。」
「…私も、作る側に立ってもいいだろうか?」
頬を染めながらそう言った村雨を見て、母娘は暫し互いを見合い、喜びに顔を綻ばせると、村雨へ目を輝かせた。
「あらあらまあまあ…!」
「叔母さん、彼氏が出来たんだね!」
「…っ、いや、彼に渡すのは…感謝の意味で。それに、兄貴にも、何度もお願いされてたから…。
ただ、料理の経験があまり無い為、2人に迷惑をかけるかもしれないが…。」
「もう、そんなの遠慮しなくていいのよ!礼二君の恋の為なら、私なんでも手伝っちゃう!」
「私も手伝う!一緒に作ろ!」
「う、うん…。」
恋人である獅子神のことはまだ紹介していないが、自分に好きな人が出来たことを心から祝ってくれる2人を見て、村雨は安堵に小さく笑みを浮かべた。
──2月14日、バレンタインデー
獅子神の家にいつもの5人が集まり、テーブルには何種ものチョコレートスイーツが置かれていた。
「今日はバレンタインデー、という事で、敬一君のお手製チョコスイーツ食べに来たぞー!」
「いぇーい!」
「何がいぇーい、だ。数日前にいきなりメッセージでリクエスト送ってきやがったくせに。」
「だってこれが楽しみだったんだもん。」
「神への供物、感謝するぞ獅子神君。」
「はいはい…、出来たてもあるから火傷に気をつけろよ。」
ブラウニーやフォンダンショコラ等、それぞれが食べたいとお願いしたスイーツに舌鼓を打つ。村雨もまたリクエストした、ベリーソースがかかった生チョコのタルトを口にする。こんなにも料理が出来る彼に、自分の贈り物は喜んでもらえるだろうかと、村雨は自分の荷物に入った赤い箱に触れ、獅子神を見つめる。
「…ん?どうした?」
「っ、…いや、思った通り悪くない味だと感心した。」
「はは…、そりゃどーも。」
ばちりと目が合ってしまい、取って付けたような言葉で誤魔化す。今はまだ気付かないで欲しいと、村雨は鼓動が速くなる胸を押さえた。
「さて、超美味いスイーツを食べ終えたところで、俺と礼二君はちょっと抜けまーす。」
「えっ?」
「なになに?出し物とか始まるの?」
まあまあ、そこはお楽しみって事でさ。男共は敬一君が貰いすぎたチョコでも消費してて。ほら、礼二君行こ。」
「あ、ああ…。」
黎明が村雨の手を引き、リビングを出て行く。残された男達、特に獅子神は何を考えているのかと首を傾げる。
「あ、でも高級チョコは残しといてよ!」
黎明は抜かりなくそれだけ言い残してドアを閉めた。
「あいつら何する気なんだ?」
「さあね、チョコでも食べながら待ってよ。」
「それにしても獅子神君、随分と沢山の愛を受け取ったのだな。」
テーブルに置かれたいくつもの箱。それは全て獅子神宛に贈られたチョコレートだった。商談先で知り合った仕事相手や受付嬢だったり、VIPの観客からですと銀行から届いたものだったりと、贈り主は様々だ。
「さすがに断れねえだろ、オレのことを考えて選んだって言われたら。まあ有名店のチョコが大半だし、どれも義理のつもりなんだろうな。」
『……。』
真経津と天堂は獅子神の言葉に呆れて何も言わぬまま、チョコをまた1つ口にする。普段使いする者も少ない高級店のショコラ、明らかに手作りされたチョコ、これらを見て義理などと思う者はまずいない。
「無自覚とは恐ろしいものだ。」
「獅子神さん、下心って言葉知ってる?」
「あ?知ってるわそれくらい馬鹿にすんな。」
積まれていたチョコが片付けられていき、数箱の高級ショコラだけとなった頃、リビングのドアが開き、黎明と村雨が入ってくる。その手には3人分のチョコが入った袋があった。
「ふふん、待たせたな男共!今から俺と礼二君が厳選したチョコを配ってやるから感謝しろよ!」
「なんでそんな偉そうなんだよ。」
「あれ? 2人とも可愛い服に変わってる?」
「さっすが晨君。今日の為に礼二君も可愛くなったんだ!」
さっきまで着ていた私服と違い、黎明はビビットカラーのスウェットにショートパンツ、村雨はホワイトベージュのカーディガンに赤のワンピースという装いに変わっていた。満足気に笑う黎明とは裏腹に、村雨はどこか不機嫌そうにしていた。
「…なぜチョコを渡すのに着替える必要があるのか意味が分からない。」
「村雨さんも似合ってるよ。ね、獅子神さん?」
「恥じる事は無いぞ村雨。私達以上に好ましく思っている者がいるからな。そうだろう?獅子神君。」
「2人揃ってにやついた顔でこっち見んな!」
「ええっ!敬一君、この可愛い礼二君見ても何とも思わねえの?」
「ちが、そんなこと…っ。」
獅子神は3人にはやし立てられながら村雨を見る。目が合った村雨は、言葉を待つように獅子神を見つめている。黎明が選んでやったであろう普段と違う服装に、獅子神は人前では言わない言葉を面と向かって伝えた。
「…に、似合ってるよ。」
「…!あ、あなたまで彼らに合わせなくていい…。」
「いや、本音だから。…すげえ可愛い。」
「…そう、か。」
頬を染めてふい、と顔を逸らしながらも、嬉しそうに微笑む村雨の愛らしい反応に、獅子神は抱き締めたい気持ちを必死に抑えた。
「行けー、獅子神さんー。」
「そのままぶちゅっと行っちゃえー。男見せろー。」
「聞こえてんだよ、そこ!!」
辺りが暗くなる頃にバレンタインパーティーは終わり、獅子神と彼の家に泊まる村雨以外の3人が帰っていく。
「じゃあね獅子神さん、ごちそうさま。」
「おやすみ獅子神君、今日も良き集まりだった。」
「おう、寒いから気をつけろよー。」
「お邪魔しましたー。…あ、礼二君。」
「ん?」
2人に続くように家を出ようとする黎明は何かを思い出すと、村雨に耳打ちする。
「……あれ、ちゃんと渡しなよ?」
「っ!…そのつもりだ。」
小さく頷いた村雨に嬉しそうに笑うと、黎明は真経津達を追いかけるように家を後にした。
2人きりになってリビングに戻ると、ソファに座って一息つく。村雨は私服に戻さぬまま、ワンピースの姿で獅子神の隣に座る。
「さて、時間も時間だし、そろそろ寝るか。」
「…獅子神。」
「ん?どうした?」
「まだ、渡せていないものがあるんだ。」
「え?」
ソファに置いていた自身の荷物から赤い箱を取り出し、獅子神に渡す。微かにチョコの香りが鼻を掠める。獅子神が小さく見開いた目で村雨を見る。驚きの表情に、喜びが少しずつ見え隠れしている。
「これ…。」
「…作った。義姉と姪に助けてもらいながら。」
手作りなんて、幼い頃に母親と作った時以来、自分からすることは無くなった。それでも、恋人である彼に何かを贈りたくて、身内に助けられながら作り、今に至る。家を訪ねた際に見たテーブルに置かれた彼宛てのチョコを思い出し、もう食べ飽きてしまっただろうかと、箱を持つ手を下げる。
「だ、だが、あなたは周りからたくさんチョコを貰っていただろう。だから、味は落ちるだろうが、明日食べても問題はな…──。」
それ以上言葉は続かなかった。気付けば村雨は獅子神に抱き締められていて、彼の厚い胸板に頬が押し付けられるように触れる。
「し、獅子神…? ちょ、苦しいっ。」
「…ごめん、だって、こんなのずるすぎんだろ…っ。嬉しすぎて、どうにかなっちまいそう…。」
触れた手を通して逸る胸の鼓動を感じる。声は震えて、獅子神は感激にうっすらと涙を滲ませていた。
「…大袈裟すぎる。あなたの心情も、心臓の鼓動も騒がしい。」
「嫌か?」
「…嫌じゃない。喜んでもらえたのなら、作って良かったと思ってる。」
涙を拭ってやり、愛しい彼の頬に口付ければ、獅子神は愛しいと言いたげに笑みを向けた。
獅子神が箱を開けると、中にはココアパウダーを纏ったトリュフが入っていた。
「へえ、トリュフか。上手く出来てんじゃん。」
「そうか…。ほら、特別に私から食べさせてやる。感謝して食べるといい。」
「はは…っ、急に上機嫌になりやがって、可愛いな。」
「む…、食べないのか?」
「食べるよ。食べさせて。」
村雨が一つ手に取り、獅子神に食べさせる。獅子神は味わうようにゆっくりと食べていく。ビターチョコに仄かなラム酒の香りが口いっぱいに広がった。
「ん、うまっ。これ、ラム酒使った?」
「ああ、チョコは甘さ控えめにした。あなたの口に合うと思って…。」
「…ありがと、村雨。すげえ嬉しい…。」
「…ん、良かった。」
「お前は食ったの? せっかくだし食べろよ。」
「じゃあ…。」
獅子神に言われるまま、村雨はトリュフを口にする。作る際に味見はしていたが、改めて食べてみても上手くできたと嬉しそうに微笑む。
「うん、我ながら上手く…──。」
上手くできた、そう続くはずの言葉は獅子神のキスに止められる。口の中で溶かされたチョコが絡み合い、互いの舌を汚す。唇が離れた先にある獅子神の表情は、村雨を食べたいと望む獣のソレだった。
「ん…、っ、は…、ししがみ…。」
「……少しだけ、甘くなったな。」
「…マヌケ、キスしたいならそう言え。」
「チョコだけじゃなくて、お前も食いたくなったから。」
「ん…っ。」
「…なあ、食わせて?村雨。」
首筋に、耳に口付けられて、甘く囁かれれば、簡単に理性も思考も蕩けてしまう。いつの間にか押し倒された村雨は、これから自分と一緒に食べられるトリュフが入った箱をテーブルに置き、獅子神の首へと腕を回す。
「貪欲なマヌケめ、食べ残しは許さないからな。」
「ああ、仰せのままに。お医者様。」
ほんのりビターなチョコすら甘くなる二人きりの時間、それは時間すらも忘れさせる程の熱い夜となった。