Tomorrow never knows「お久しぶりです、師匠」
慣れた手付きでハンドルを切るモブを助手席で眺める。久しぶりに見るモブの横顔に精悍さを感じた。
モブはペーパードライバーの俺より運転が上手いかもしれない。ただ車線変更は苦手なようで、慎重だった。モブは緊張しながらちらちらと後方を確認して、車間に車体を滑り込ませた。
運転中の車内は静かで、ラジオのパーソナリティが間を取り持ってくれた。
俺もモブも普段から饒舌ではない。沈黙の合間に現在の仕事や人間関係の話を一言二言話すだけだ。冷めた缶コーヒーを持て余しながら、今流行っているという曲を聴いていた。
今日は遠方の海沿いの街に住む依頼人からだった。
調味から公共交通機関で行くには時間がかかって億劫だと電話で零したところ、モブが快く運転を申し出てくれた。最近芹沢の稼働が高かったため休暇を取らせ、モブには悪いが手伝ってもらうことにした。
モブは調味を出て県外の企業に就職し、一人暮らしをしている。
最初はバス通勤だったが、車酔いが辛くて車通勤に切り替えたそうだ。運転免許が取れるか心配していたが、何度か補習を受けた位で卒業検定も試験も一発合格だったらしい。相当嬉しかったようで、合格当日にモブから送られてきた免許の画像が程良くブレていて笑ってしまった。
依頼は滞りなく済んだ。
モブの力は変わらず凄まじい。悪霊と思われる竜胆色をしたイカの化け物が漁船に触手をかけようとした途端、モブの力を浴びて一気に蒸発した。イカの断末魔と爆風に煽られた依頼人が腰を抜かしていた。
自分で言っておいてなんだが、イカの断末魔ってなんだ。
依頼人から依頼料とお礼の蒲鉾を受け取って帰途に着いた。
車内から見る港町の建物の壁面は潮風で色褪せ、物悲しく曇り空に項垂れているように見える。
あっさり青に変わる信号に、モブとまだ離れ難いと思った。
車は調味に向かって進路を切る。ラジオから懐かしい曲が流れてきた。
『とどまることを知らない時間の中で、いくつもの移りゆく街並みを眺めていた』
明日のことなんて分かりゃしないって名前の曲だ。実際、その通りだと思う。
「僕、この曲好きなんです」
「意外だな。音楽、聴かなそうなのに」
確かに前の僕は聴かなかったかもしれません、とモブは俺の知らない大人の顔で苦笑した。そんな表情、俺は知らない。
「通勤中にラジオを聴くようになったんです。それで」
通勤、という言葉が追い打ちをかける。何を今更、と思う。モブが社会人になって何年目だ。
俺の中にいるモブは、未だ中学二年生のままで止まっていた。
このまま離される。置いて行かれる。
素直に弟子の成長を喜べない自分が疎ましく、酷く煩わしかった。またあの日のように、隣にいてほしい。帰りたくない。
いい年をして幼子のように駄々を捏こねている。自分の要求を口に出せる分、幼子の方が圧倒的にマシだ。まあ俺の場合、要求を口に出した瞬間、モブに幻滅されて終わりだ。
昔は何にも執着しなかったため人として何か欠けているんだろうなとぼんやり考えていたが、執着を得たら得たで見事に面倒臭くて質が悪くなった。アラフォーなこともあって、余計に気色悪さが際立つ。こんな面倒なおっさんに執着されるモブを憐れに思った。
「いよいよ…………おっさんになったなあ」
眉間を揉んで諸々の感情を込めて溜息を吐くと、モブが心外だと聞き返した。
「あ、違う違う。俺の話。モブがどんどん大人になっていくなってみじみしてたところ」
「でも僕は全然師匠に追いつけなくて、正直……焦っています」
方向指示器をカチカチ鳴らして、モブは右折のタイミングを図っている。
「僕が頑張って大人になっても、師匠はもうずっと先にいる」
「それは、」
どういう意味だ。
モブの言葉に、俺の精神構造を見透かした皮肉かと思った。
お前の背中を追いかけているのは俺の方だ。
中学生のモブの背中を追いかけて手を伸ばすが、その手はまだ届かない。モブの隣に並んで、そこから同じ景色を見たい。
卑屈さで停滞している自分にモブが追いつけないなんてことは何かの間違いだ。むしろ初めて出会った時からお前の方が前にいただろう?
待っていた対向車が通り過ぎて、モブはハンドルを切った。鬱蒼とした細い路地に入る。そういえば往路でこの道を通った記憶がない。
「ナビ、合ってるか?」
「う……たぶん」
ハンドルを握って僅かに怯えるモブは、あの頃の、良く見知った顔をしていて安心した。
好きな子に気持ちを伝えようと不安になりながらも、奮闘する姿が好きだった。いつだって応援していた。今も、その気持ちに変わりはない。今、モブが好意を寄せている相手はいるのだろうか。
──最低だな。
握り締めてふやけた情を誤って、取り落としてしまっている。
薄暗くて狭い道を進む。枝や枯葉を踏み潰す微かな音がする。辛うじて舗装されている道路に、飾りのような心許ないガードレールが添っている。もし衝突したら何の支えにもならず、一緒に崖から転がり落ちてしまうだろう。不謹慎だが。
「し、師匠」
モブの声に焦りと不安が滲んでいる。
「どうした」
「対向車が来たらどうしよう」
ぎゅっと音が出る程にハンドルを握り締めて、俺を縋るように見詰めた。よお、モブ。久し振りに会ったな。
「おっ……それはヤバいな」
拗らせた庇護欲を噛み殺して、ナビを確認した。しばらくは行き違う余裕がなさそうな細い道が続いている。一方通行の表示はない。
「僕、バック苦手なんです。すぐ斜めになってしまって」
「そしたら一緒に崖の下か」
「うう……!」
それもいいかもな、と言いそうになるのを飲み込んで笑った。
モブが求めている言葉は俺の言葉ではない。師匠の言葉だ。
「んー、ま、もし来たとしても」
思っていたより暢気な声が出た。
「対向車の運転手がバックすげー上手いかもしれないし」
怖がるモブを安心させるようにゆっくり言い聞かせる。モブは「そんな人がいるのか」という顔をした。いるんだよ、世の中には。
「いざとなったらお前の力で車飛ばせるだろ? 何もそこまで怖がることはねーよ」
モブはひとつ瞬きをした。自分が超能力を使えることを忘れていたようだ。
「はっ、そうだった、そうですね……」
「だろ? まあ、対向車が来たら考えようぜ」
「はい」
後ろ手に組んだ腕に頭を預けて、欠伸をした。考えても仕方がない。モブは俺の顔を見て嬉しそうに笑った。
「ん、何」
「いや、やっぱり師匠はすごいなと思って。いつも僕の不安を吹き飛ばしてくれる」
「そうか? 普通だと思うが……おい、前見ろ前」
「は、はい……っ!」
前に急カーブの標識。山道らしいヘアピンカーブが続いている。本当にナビ合っているのか。
恐れていた対向車はやってくるとこなく、広い道路に出た。標識によると左折すると高速道路に合流するそうだ。モブのほっとした横顔を見ながら思う。
お前は大丈夫だよ、モブ。
俺には何もないけど、お前には沢山の力がある。
お前が思う程、俺はひとつも誇れるものはない。あるのはただ一握りの責任感と執着と惰性だけだ。お前に出会わなければ、俺は今より更に淀んで生きていただろう。建設的でない思考は精神を脅かす。過去の仮定は時間と脳のリソースの浪費だ。分かっていることなのに止められない。一種の自傷行為かもしれない。
モブはいつも未来を見ている。俺はよく過去を振り返る。
小さく頼りない背中が、いつの間にか広く眩しい背中になったのはいつだっただろう。
「あのさ、モブ」
俺はお前が好きだよ。そんなお前が誇りに思える俺になりたいよ。
「どこか飯食って行かないか。今日の礼をかねて俺のおごりだ」
「いいんですか? 嬉しいな」
口角が上がっている。モブは良く笑う。俺にとって変わらず、可愛い弟子だ。夕日が雲を焼いて、美しく緋色に染める。
お前のおかげで前を向いて生きているなんて、重過ぎて口が裂けても言えない。
俺は今も、白黒の世界にモブからたくさんの色を貰い続けている。