ひまわりの花束をきみに夏が始まったばかりのある日のこと。
午前中の早い時間に1週間の海外出張を終えて七海の家に帰ると、僕の持ち込んだ私物はスーツケースにまとめられ、リビングのローテーブルの上には僕の家の合鍵と、小ぶりのひまわりが生けられた花瓶があった。
合鍵の下のメモ用紙には、七海の几帳面な字で、こう書いてあった。
──私たち、もう終わりにしましょう
昨日、電話で話した時には変わった様子はなかったはずだ。
僕が出張から戻るからと、伊地知に言って七海も今日明日と休みにしてもらった。
七海には伊地知くんにあまり無理をさせないでくださいと言われたが、多少強引にしないと七海は休暇を取ろうとしない。
それは伊地知も心配していて、休暇の調整を頼んだら快く引き受けてくれたのだ。
僕は電話を取り出し、七海にかけた。
呼び出し音が鳴ったのでしばらく待ったが出る気配はない。
伊地知の番号を呼び出しかけると、すぐに出た。
「伊地知、七海どうしてるか知らない?」
「七海さんですか?今日明日は休みのはずですが……そういえば休みに入る前、休暇を延長するかもとおっしゃられてました。今のところ、その連絡はないですが」
しばらく僕と会わないようにするつもりなのか……?
そこまで七海を怒らせるようなことはしていない、と思う。
第一、しばらく姿を消したとしても職場が一緒なんだから意味がない……いや、ただの同僚で学生時代の先輩後輩の関係に戻ると決めたら、七海はそれを徹底するだろう。そういうヤツだ。
でも、なぜ、七海はそんなことをしようとしているのか。
その理由は伊地知の次の言葉ですぐに分かった。
「そういえば五条さん、結婚されると噂になってます」
「結婚?誰が?」
「五条さんです」
「え?僕?」
寝耳に水の話だった。
「先日、お見合いされたお相手とついに身を固めるのではと」
「そんなわけないじゃん。七海と、っていうなら別だけど」
見合い……その手の話はほとんど断っているけれど、何十回かに1回はこの僕でも断りきれず会うハメになる。
先日も仕方なく会ったが、相手の女性にはもちろん、丁重にお断りした。
大方、結婚どころか見合いもせず、後輩の男の家に足繁く通っている僕に痺れを切らし、五条家のジジイたちが噂を流したのだろう。
それを聞いて七海は終わりにしようと言ったのか。
結婚するという噂を鵜呑みにしたわけではないのだろうが、自分は規定側だと言って憚らないあの真面目な男の事だ。
五条家当主であり六眼と無下限持ちの僕は女性と結婚し、後継ぎを設けるべきだと考えているのだろう。
僕のために、僕から離れるつもりなのだ。
あの、バカ……僕はオマエを二度と手放さないって決めてるのに。
後継なんて、五条家の血筋を引く者の中から選べばいい。
僕はたまたま直系だったけれど、直系だからって強い力を持つとは限らない。
分家にだって優秀な人材はいる。
伊地知に、七海から連絡があったらすぐ僕にも連絡するように頼み、通話を切る。
早急に七海を見つけなければ。
心当たりはいくつかある。
僕との想い出がある場所にいてくれるならば、だけど。
どこから行くかと考えていると、テーブルの上の花が目に入った。
誰もが思い浮かべる大きさより小さな、黄色いひまわりの花。
そういえば、と数ヶ月前の記憶が蘇った。
「五条さん、花屋に寄ってもいいですか」
七海の家から一緒に高専に出勤する途中、花屋の前を通りががった時に七海がそんなことを言った。
「いいよ。でもなんで?」
「補助監督の女性が結婚するそうなんですよ。お祝いに花束でもと思いまして」
「オマエ、そういうのマメだよね」
「人間関係の基本だと思いますが」
「僕も七海から花束もらいたいなー」
「アナタ、花になんて興味あるんですか」
「あんまり」
花屋の店先でそんな会話をしていると、ある花が目に入った。
「あ、こんな小ぶりのひまわりなんてあるんだ。ひまわりって健気でかわいいよね。いつも太陽の方を向いてるとかさ」
「アナタの口から健気なんて言葉を聞くとは……」
「僕ほど健気な男はいないと思うけど」
そう言って七海の腰をぐっと抱き寄せた。
外ですよ、やめてください、と七海に手を叩かれ、仕方なく腰から手を離す。
七海は店員に結婚祝いに花束を贈りたいのですが、と声をかけた。
花束を作ってもらっている間、僕は店にある花をなんとはなしに眺めていた。
花屋なんて滅多に来ないから、見たこともない花もあってなかなか楽しい。
さっきの小ぶりなひまわりが気になってまた見ていると、かわいいですよね、そのひまわり、と店員の女の子に話しかけられた。
「恋人や奥様に買われていく男性もいらっしゃいますよ。あとはプロポーズされる時とか」
「へー、プロポーズといえばバラだと思ってた」
「ひまわりも本数によって花言葉が変わるんですよ」
「── 108本で結婚してください、ですよね」
いつのまにか紙袋を手にした七海が隣に立っていて、そう口を挟んだ。
「お客様、よくご存知ですね」
「本で読んだことがあります」
店員の女の子の声のトーンが少し高くなり、頬が赤くなったように見えた。
七海、いい男だもんなぁ。でも僕のなんだけど。
モテて当然と思ってもどうしても嫉妬してしまう。
「七海、行くよ」
七海の手をがっちり握り、店の外に出た。
「五条さん、そろそろ離してください」
店を出て少し歩いたところで七海はそう言ったが、僕は手を離さず、七海の手に指を絡ませてしっかり握りなおした。
「たまにはいいじゃん」
通勤ラッシュが終わった時間とはいえ、駅が近いのもあって人通りはそこそこある。
すぐに振り解かれると思ったが、意外にも七海が僕の手をぎゅっと握り返してきた。
ふわっと花のような笑みを浮かべ、七海が言う。
「──少しだけですよ」
外で手を繋いでくれる七海なんて、レア中のレアだ。
そのためか、この花屋での出来事はよく覚えていた。
テーブルにはあの花屋で見たひまわりと、同じひまわりが飾られている。
僕はあの花屋に走った。
晴天の青をうつし、海も空と同じ青に染まっている。
あの人の瞳みたいな青。
夏のはじめの海は波も穏やかで、波の音が耳に心地よい。
遊泳禁止の場所のためか、人もそれほど多くない。
波打ち際で遊んでいる親子や、散歩をしているカップルや犬を連れた人がちらほらいる程度だ。
私は海を見ながら立ちすくんでいた。
いつか、五条さんとは別れなければいけない日がくると、ずっと覚悟はしていた。けれど、こんなに苦しいとは。
──手を離したのは自分なのに。
この海は、私たちがはじめてキスした場所だった。
高専1年の冬の終わり。
誰が言い出したのか、灰原と私、2年の3人――五条さんと夏油さん、家入さんで海に行った。
灰原は終始テンションが高く、五条さんは冗談みたいな話ばかりをして、時々私を揶揄った。
波打ち際から離れたところに敷いたシートで休憩していると、隣に五条さんが座った。
「冬の海もいいもんだな」
「そうですね」
私はごろんと横になり、空を見上げた。
雲ひとつない晴天、冬の空の淡い青。
「空がきれい」
そう言った私の顔を五条さんが上から覗きこんだ。
いつもかけているサングラスは外され、私を見つめる青の瞳に見惚れていると、五条さんの顔が近づいてくる。
私の唇に、五条さんの唇が重なった。
キスされたことを理解する前に唇は離れて――また重なる。
どうして、そう思ったけれど声にはならなかった。
それから、私たちの間にはそれ以上のことは起こらなかった。
あのキスで、私は五条さんに対する感情が恋愛感情であると気づいてしまったが、五条さんにとっては取るにたらないことだったのだろう。
ただの先輩後輩よりは近い、つかず離れずの関係が続いた。
あの暑い夏、私は灰原を、五条さんは夏油さんを失った後も、高専卒業後、私が呪術の世界を離れても、それは変わらなかった。
だから復帰後、すぐに五条さんに好きだ、と言われた時は本当に驚いた。
にわかには信じられず、学生時代から抱えていた五条さんへの想いを拗らせていたのもあって素直になれない私を、五条さんは根気よく口説き続けた。
結局、五条さんの熱意に押されて、私たちは恋人、という関係になった。
些細なことでケンカもしたが、私たちはうまくいっていたと思う。
お互い忙しかったけれど、少しの時間でも五条さんは私の家にやってきて一緒に過ごした。
食事をして話をして、時間があるときは一緒に出かけ、時間の許す限り、身体を重ねた。
五条さんの腕の中はとても居心地がよくて、いつのまにか、私はすっかり骨抜きにされていた。心も、身体も。
それでも、いつか別れなければならないという気持ちは常に心の片隅にあった。
五条さんは女性と結婚して後継ぎを設けるべきだし、五条さんが拒んだとしても周りがそれを許さないだろう。
この海に未練は全て置いていく。
あの人に愛されたという、幸せな記憶だけを持っていれば、この先も私は大丈夫。
でも、もし、あの人がここに来て私を見つけたら。
あの部屋に置いてきたメッセージに気づいてくれたとしたら。
その時。
「七海」
私を呼ぶ声がした。
隣に立つ、私より大きな人の気配。
「五条さん」
「──覚えてたんですね」
「覚えてるに決まってるじゃん」
あの時、はじめて誰かにキスしたいって思った……七海がとてもきれいだったから。
少し照れた顔で私を見つめた。サングラスは外されている。
あの時と同じ、美しい青い瞳。五条さんは言葉を続けた。
「それは今も変わらないよ。僕が自分からキスしたいって思うのは七海だけだ。今までも、これからも」
五条さんが私を抱き寄せた。
その手は少し震えていた。
「ここにいなかったらどうしようかと思った」
「……もしかして、あのひまわりの意味にも気づいたんですか」
私の残した、最後になるはずだったメッセージ。
「あの時の花屋に行って教えてもらった。3本のひまわりの花言葉。──ね、七海の口からきかせて」
波の音と、子供たちのはしゃぐ声が遠くに聞こえる。
五条さんの肩口におでこをコツンと当てて、私は静かに言った。
「アナタを愛しています」
私を抱き寄せる腕に力がこもる。
「もう1本、ひまわりがあるのにも気づいたよ」
五条さんの部屋の合鍵の下に置いたメモ用紙には、一輪のひまわりのイラスト印刷されていた。
「4本のひまわりの花言葉は──」
私は五条さんから言葉を引き取って、言った。
「──アナタを一生愛し続けます」
「僕も愛してる」
五条さんが私の耳元でそう囁いた。
私は五条さんの背中にまわした手に力をこめた。
「……五条さん、ここ外ですから。あと、暑いです」
しばらく私たちは動かずにいたが、夏の晴れた午後、時々吹く汐風はひんやりと心地よかったけど、やっぱり暑い。
離れがたくてしばらくくっついていたので、2人ともしっとり汗をかいていた。
私が五条さんから少し身体を離すと、すかさず顎に手がかかり、五条さんの顔が近づいてくる。
それを手で押し留め、全力で阻止した。
「えー、キスしたい」
「外ではやめてください」
「分かったよ」
そのかわり、帰ったら覚悟しとけよ──
五条さんはそう言って、私の首筋をするりと撫でた。
身体中がぶわっと熱くなり、私は思わず下を向いた。
「そんなに素直な反応されるとこっちまで照れるじゃん」
五条さんの顔も赤い。日差しのせいだけではないはずだ。
「しかし、七海がこんなにロマンチストだとは知らなかった。ひまわりの意味に僕が気づかなかったらどうするつもりだったの」
「気づかなくてよかったんですよ……別れるつもりだったんですから」
「僕、すぐ気づいたし、この場所も分かったし、本当は別れる気なんてなかったんじゃないの?」
そう言われると何も言い返せない。
五条さんを試す気持ちがなかったといえば嘘になる。
「別れなくてはいけないとは思ったけど、別れたくはなかったんです……矛盾してますよね」
五条さんが私の手を握った。
「もう二度と、別れるなんて言わないで」
「……それはアナタ次第ですね」
「そこはもう言わないって言ってくれよ……」
「さて、と。帰ろうか。七海の家――僕たちの家に」
私たちは繋いだ手を離すことなく、電車に乗って家まで帰った。
家に着き、手を洗ってからリビングに行くと、先に部屋に入ったはずの五条さんの姿がない。
ローテーブルの上には3本のひまわりと五条さんの家の合鍵、その傍らには五条さんの私物を詰めたスーツケース。
カーテンを開けると、部屋中に太陽の光が降り注ぐ。
寝室のドアが開く音がして、そちらを見ると、大きな黄色い花束を手にした五条さんがいた。
小ぶりなひまわりの花束。もしかして――
「七海、これ……108本ある。受け取ってくれる?」
「──分かったと思いますが、私は重いし、めんどくさい男ですよ。それでもいいんですか」
「大丈夫、重いのもめんどくさいのも僕の方が上だから。それはオマエが一番よく分かってるでしょ」
そうだった……呪術界で最も強く最もめんどくさい男、それが五条悟という男だ。学生時代からどれだけ被害にあったことか。
その上、付き合ってみたら嫉妬深いことこの上ない。
けれど、そんなところがかわいいと思ってしまうのだから、私もすっかり絆されている。
「こんな僕を愛して、こんな僕に愛されちゃったんだから、仕方ないよ。もう覚悟を決めて、七海」
──僕と結婚してください