「今日でここともお別れとは寂しいねえ」
ヴィラの高い天井を見上げながらモクマは呟いた。脇にはパッキングされたトランクケースが2つ転がっている。
極北で深手を負ったチェズレイの療養とモクマの実母への挨拶を行った南の国での3週間。
それまでの2年近い目まぐるしい日々と比べると天地の差があるほど、とても穏やかで平安な日々だった。
頬を撫でつける南国の風と同じぬるま湯のような暖かさと心地よさはモクマだけでなく、相棒のチェズレイの心をも癒やしてくれたようだった。
お互いの間にあった氷のような結晶のような心の壁がなくなって、南国の風と共に相棒を胸に抱いた時の感慨を昨日のことのように思い出せる。
そんなリゾート地とも今日でお別れだ。
着慣れた羽織の内側に長方形の紙がちゃんと納まっているか確かめる。脇腹あたりに仕舞っていたそれは航空チケットの形をしていた。この南国からミカグラ島への飛ぶ直通便だ。
旧知の友が手配してくれたそれを握りしめ、懐かしいミカグラ島へ向かって旅立つのが今日の予定だった。
「モクマさん」
呼ばれて振り向けば、チェズレイが玄関先に立っていた。
「お、手続き終わったかい?」
「ええ、チェックアウトしましょう」
玄関に立つ彼の下へモクマは二人分の荷物を軽々と抱えて歩いた。
南国の高い気温に中てられてか少し頬を紅くしたチェズレイに白いカンカン帽を渡す。被せてやりたかったが届かないものは仕方ない。
「お気遣いをどうも」
素直に受け取って頭に乗せたチェズレイと目が合う。唇が柔らかく弧を描いていた。
「行きましょうか」
花の蜜を纏ったそよ風がモクマの耳を撫でる。
「はいよ」
世話になったヴィラとエメラルドグリーンの海(チェズレイ曰く礁湖)をぐるりと回るようにして二人は歩き出す。
空港に向かう道すがら、左手奥に見慣れた色の屋根が小さく見えていた。あそこにモクマの実母が暮らしている。
「……ご母堂へ旅立ちの挨拶をしていきますか?」
モクマの視線を追いかけたのだろう。察しの良い相棒が声をかけてくる。
モクマは首を横に振った。
「いいよ。昨日まで散々話したし。今日出てくことも伝えてある。それに、これが最後の別れってわけでもないだろうしさ」
そう言って次に顔を出すのがいつになるのか曖昧なまま親元を離れるのは今回が初めてではない。
幼い頃、マイカの里へ忍者修行に出された頃を思い出す。かつて両親と兄たちが過ごしていたミカグラの沿岸部へ暇をもらうたびに帰っていた小さな自分がいた。
しかし、同時期に進んでいたブロッサムの開発が盛んになるにつれモクマの足は実家から遠のいていった。ブロッサムとマイカが対立するにつれ家に居場所が無いこと、両親たちがミカグラ島を出ていくことを薄々感じ取っていた頃だ。それでもモクマは「またね」と告げて紅く萌える山へ消えていった。これが最後の別れとも思わなかったが、そうなってもいいやとも思っていた。家庭に残りたいという執着も欲もなかった。モクマがいないことの方が家族にとって日常であったし、何より独りのほうが気楽だ。
家族と会うのはあの日が最後になっていた。だけど、最後じゃなくなった。二十年以上の空白は空いたが、マイカ山に消えた忍者の子がこうして南国の地で実母に再会しているのだから。
それに、この情が厚くて思慮深くて広く情報網を張り巡らせている相棒が居れば、母親に危機が迫ればすぐにモクマへ伝えてくれるだろうとも信頼している。
「チェズレイ、ありがとね」
「……フ、信頼されたものだ……」
「相棒が相棒を信じて悪いことはあるかい?」
「いいえ、少々こそばゆいだけです」
角を右に曲がってしまえば、モクマの実母が住む家は他の建物に隠れて見えなくなった。
後ろ髪は引かれない。背を向けているわけでもない。
彼女と相棒と過ごした温かな日々の思い出がモクマの背中を前に押し出し、足を浮き立たせる。
「楽しみだねえ、久しぶりのミカグラ島。きっともっと素敵になってるだろうねえ。ナデシコちゃんもスイちゃんも、シキだって」
弾むようなモクマの笑みにつられてチェズレイも笑みを深くした。
「ええ、それを確かめに参りましょう」
空港へ向かって伸びる影を追いかけるように二人は脚を前へと踏み出した。