モクマは湾岸埠頭の釣り場に腰を下ろした。背中に背負った釣り竿とクーラーボックスもコンクリートの地面に寝かせる。
「そいつはクーラーボックスの上に頼むよ」
モクマは隣に立つ相方へ声をかけた。
日傘の下でツバの大きい帽子を被った美人さんが、卓上ラジオを手に立ち尽くしている。釣り場ではなかなかお目にかかれない光景だ。
遠くで釣り糸を垂らしている男が、こちらをチラチラ伺っている気配がする。男の頭の中では、灰色頭のくたびれおじさんと日傘の長髪美人さんの組み合わせがどんな関係に邪推されていることだろう。
軽薄な視線を感じ取ってるだろうに、当の本人は涼やかな顔をしていた。チェズレイは炎天下でも汗ひとつかかない。ここまで歩いてきてタオルに濃い染みを作っているモクマとは真反対だ。
彼と同じ空間にいることを確かめたくて、モクマは手を伸ばした。
レース生地の手袋に覆われたチェズレイの手を引いて、折りたたみ椅子へ座らせる。触れた手首はじっとりと温かくて人の温もりがあった。
チェズレイは「ありがとうございます」とお礼を告げ、次に何を準備するのですかと問いかける。
モクマは今日狙う魚と食いつく餌について語りながら釣り糸に仕掛けを施す。モクマが喋り続ける間、チェズレイは微笑み、ときおり相槌を打ってくれた。愉しげな相方の様子にこちらも心が浮き立つ。興味津々で話を聞いてくれる姿にモクマの弁も熱が入る。
そもそもチェズレイが初めて釣りに付き合ってくれた時点で、モクマの心は釣り場へ到着する前から小躍りしていた。
今日はなんとしても良いところを見せたいと意気込む。
「あとは釣り糸を垂らして、かかるのをひたすら待つだけ」
「かかるといいですねェ」
凪いでいる海と同じ穏やかさでチェズレイは笑った。
「まあ、こういうのは『当たるも八卦、当たらぬも八卦』だからねえ。のんびりやろうや」
「そうですね。ところで……」
チェズレイの目がクーラーボックスの上へ流れる。モクマは目を細めた。彼の言いたいことは分かる。
チェズレイに持たせた卓上ラジオは釣りにどう役立つのか。
モクマはもったいつけながら、ラジオのつまみをチェズレイへ示す。
近くのリサイクルショップで拾ったラジオは、細かい傷がついているものの性能には申し分ない。むしろ使いふるされた中古品という点がモクマの心を掴んだ一品だ。
ラジオのつまみをゆっくりと右へスライドさせる。
音に耳をすませる。
大粒の雨音が地面に叩きつけるに似た雑音の砂嵐をかき分けていく。
チェズレイの視線が先を急くが、なにもモクマは彼に意地悪したくてもったいぶっているわけではない。ラジオの周波数を合わせる作業は繊細なのだ。
『……ザザ……ガザザ………す…………』
やがて人の声が雑音に混じって聴こえてくる。
もうちょっと右か。1メモリ横につまみを動かす。
『……ザザ……、……でしょう。届くといいですね』
モクマが片眉を持ち上げると、チェズレイが指先で小さく拍手を送ってくれた。
どうやらモクマが探り当てたラジオ番組は、地方の小さな局のもののようだ。この街の駅裏にあるパン屋がオススメだとラジオパーソナリティーが熱弁している。あとで寄ってみよう。
「どんなラジオ局のどんな番組に当たるかは場所によりけりだから、砂浜で宝探ししてるみたいで楽しいのよ」
「そのようですね。今のあなたは砂金を見つけて喜ぶ少年の顔でしたよ」
「へへへ。どこに合うか分からん周波数を探ってようやく見つけた先に自分の知らない知識や出逢いがある、ちゅうのは、人と人との出逢いに似て素敵だと思わんか?」
真面目くさったモクマの顔が可笑しいのか、チェズレイが堪えきれずに吹き出した。
「フ、なるほど、それが釣り文句だった?」
「そうそう。俺よりもうんと年上のおじさまがよく釣れたよ」
モクマがカラカラ笑う。
釣り場ではモクマよりも人生経験豊富な玄人たちとたくさん出逢った。彼らとはモクマが持ってきたポータブルラジオを囲みながら、他愛のない話をした。
彼らに困り事があれば積極的に引き受け、仕事を探しているのだとモクマが嘆けば仕事を紹介された。
「あなたの豊かなうんちくがんちくの源はそこにあるのでしょうかねえ」
チェズレイがしみじみと言う。
そうかもしれない。
モクマの頭の引き出しにある数々の知識は、元を辿れば釣り場で出逢った先達からの言葉にあった。
チェズレイはよく本を読んでいて、文字から知識を吸収しているけども、モクマは逆に読書が苦手で、人の話から知識を蓄えているということだ。
「モクマさん、今日の釣果はいかがです?」
うんともすんとも言わない釣り竿を見てチェズレイが尋ねる。
モクマは後頭部をかきながら、どうだろねとぼやいた。
「ボウズだけは避けたいところだ」
釣り用語で「ボウズ」といえば、釣果ゼロのことを指す。
「ふふ、ボウズはあり得ませんよ」
チェズレイがくすくす喉を鳴らして笑うので、モクマは不思議な気持ちになって首を傾げた。
「自信満々だねえ」
「ええ。あなたも自信を持った方がよろしい。すでに、私という大物が釣れているのですから」
チェズレイが釣りについてきた時点でモクマにとって今日の釣果は上々だろうということだ。
モクマの浮き立つ心を見透かされたようで、モクマの頬に血がのぼった。
先程こちらを伺っていた男が目の端に映る。モクマはずいと首を伸ばして、視界の隅から男を追いやった。
そうして視界にはチェズレイの愉しげな微笑みしか入らない。
「……そんなの、夜に捌いてくっちまうよ」
「おや、夜まで待てるのですか?」
チェズレイが妖艶に誘う。
「……――」
『ああ!今すぐつまみ食いしたい!』
ご馳走を前にして昂るラジオパーソナリティーの台詞がモクマの心境と見事に重なった。
「ところで、モクマさん、私ね、釣った魚に墨を塗って紙に転写する『魚拓』というものに興味がありまして。久しぶりにあなたが墨を磨るところも見たいですし……、お願いできます?」
「えっ!?墨使って魚拓プレイしたいってこと?!」
「は?」
「え?」