藤色のイブニングドレスを纏った可憐な少女が、バルコニーでひとり、宵空に浮かぶ細い三日月を物憂げに見上げていた。月と同じ金色の髪は緩いウェーブを描き肩上にかかっている。
彼女の背後では華やかな社交パーティが行われている最中だった。この国を牛耳る富豪や政治家、各界の著名人たちが話に華を咲かせている。歓談の声がオーケストラ演奏のようにホール一体に響いていた。
パーティに疲れた良家のお嬢様は、分厚いえんじ色のカーテンの影に隠れて星を見つめている。
「やあ、素敵なお嬢さん。今夜は星が綺麗だね」
彼女へ一人の男性が声をかけてきた。
ハードワックスを使って後ろへ撫でつけられた灰色の頭。整えられた無精髭。黄色地にヘビ柄のネクタイは安物には見えない。身につけているスリーピーススーツも市製品ではなく、男の身の丈に合わせて縫製されたオーダーメイドのものに見えた。初老の富裕層のおじさま。そんな印象だ。
柔らかに下がった目とコケた頬に視線が吸い寄せられる。
「疲れちまったかい?」
女性は首を横に振った。対して、おじさんの方が「俺は疲れたよ〜。こういうシャコーカイって堅苦しくってダメだね」と嘆きの声を漏らした。
首元のネクタイを緩めるおじさんへ女性が囁く。
「……おじさま、私ね、退屈してましたの。あなたならこんなパーティよりももっと素敵なこと、ご存知では?」
女性は男の胸にしなだれかかり、男の肩へ置いた手を下へ向かってなめらかに滑らせる。真っ赤なルージュを引いた妖艶な唇で蠱惑的な吐息を男の顎へ吹きかけた。
おじさんは困ったように笑った。
「……そうさねえ。じゃあ、おじさんと近くのホテルで朝までじっくり語り明かさない? 退屈させないよ」
「あァ……、寝かせてくださらないなんて……今すぐあなたとトんでしまいたい」
「はは……熱烈なお嬢さんだ。りょーかい」
おじさんはしゅるりとネクタイを解き、スーツを脱ぐ。すると、あっという間に真っ黒な忍者装束に身を包んだ男が現れた。鮮やかに衣装チェンジした男を見て、女性はペロリと舌を出す。
「ほっ!」
忍者は女性を横抱きにすると、バルコニーの手すりへ足をかけた。三階建て相当の高さを諸共せず、忍者はドレス姿の女性をお姫様抱っこしたまま、隣のバルコニーの手すりへ飛ぶ。少し走って、次は屋根へ昇る。
星空に見守られながら、忍者とお姫様は夜空を飛び駆け回った。
忍者の示すホテルの屋上へ到着する。ヘリポートの上にヒールを立たせた女性は忍者へ振り返った。
「ご苦労様でした、モクマさん」
ドレス姿の女性の喉から涼やかな男の声が降る。忍者ことモクマはヘリポートに尻をつき、深い息を吐き出した。ワックスの取れかけた前髪が数房垂れ下がり、揺れる。
「ねえ、最後の方の芝居、意味あった? バルコニーで合流したらすぐに脱出するって言ってたじゃん、チェズレイ――」
「おや、この後のことを思ってあなたに火をつけてあげようと思ったのに」
ドレスアップした女性姿のチェズレイはモクマの前にかがむ。
「ねえ、モクマさん。今夜、このまま、いかがです?」
チェズレイは女性の艷やかな声を作り、細い息を彼の頬へ吹きつける。ダメ押しで豊満な胸をたくましい二の腕へ押し付けた。チェズレイの胸に実る乳房は作り物だが、本物の感触に拘った一級品だ。感度は演技で補えば、きっとモクマも満足させられる。
「このまま、って……」
モクマはチェズレイの偽乳を一瞥してから、視線を外した。あえて見ないようにしている逃げを感じた。声も困惑したように震えている。
「パーティ会場でたくさんの美女に囲まれて、さぞ良い気分になられたのでは? あなたとて一人の男。久しぶりに女性を抱きたくなったのではありませんか? その欲望、私が叶えましょう。退屈なパーティへ同行し、情報を得てくださった御礼として。クオリティは保証しますよ? 過去、見破った者はおりませんでしたから」
モクマの顔が勢いよく振り向き、チェズレイを睨みつける。
「…………チェンジ」
モクマが低く唸った。
「は?」
「チェンジで! おじさんは、チェズレイとエッチがしたいです!」
「だから、このままシませんかと」
「やだ。今すぐ変装解いてよ、チェズレイ。このままじゃキスの1つも出来やしない」
ぶすくれる男を見下ろしてチェズレイはクックッと喉を鳴らして笑った。
ゴムのマスク、ウイッグ、ドレスすべてを脱ぎ去ったただのチェズレイ・ニコルズがモクマの唇を奪う。