千優の告白もっと優秀にならなければ。テストではいつだって学年一位。中学で履修すべき範囲は大体自力で学んだ。次は高校の履修範囲へ手を出さなければ。もっと、もっと、優秀にならなければ。
そう言って机に向かう姉の後ろ姿はとても哀れだった。何故なら私は真実を知っていたから。私は姉が好きだから、この真実を早めに伝えてあげるべきだと思った。
「お姉ちゃん。最近お父さんとお母さんが素っ気ないのは、お姉ちゃんの努力が足りないからじゃないよ」
ひっきりなしに動いていたシャーペンの動きがぴたりと止まる。彼女は此方を向かないが、私は続ける。
「お姉ちゃんが賢くなりすぎて自分たちの手に負えなくなったから、嫌になっちゃったんだよ」
「……根拠は」
「お父さんとお母さんが話しているのを聞いちゃったの。『あの子は頭でっかちで愛想もなくて扱いにくい』って。それで、私が中学に上がる時に「青春を楽しみなさい、あの子みたいにならなくていい」って何度も言われたから」
そう聞くと姉はシャーペンを取り落とし、ゆっくりと顔を手で覆った。肩が震えている。泣いてしまったのだろうか。友人も娯楽も何もかも捨ててずっと勉強に打ち込んできた彼女の今までを否定したのだ、ショックも大きいだろう。でも、嘆く必要は無い、取り戻すチャンスはまだまだある、そう声を掛けようとしたときの事だった。
「くく、あはは」
姉は笑っていた。笑いは次第に大きくなっていく。狂気じみたそれに私はたじろぎ、一歩後ろに下がった。
「なんて、なんて馬鹿馬鹿しい。私は今までそんな下等な人間に褒められるために努力していたというのか」
「お姉ちゃん」
笑いの合間に絞り出される低い声は脳裏に思い浮かべた両親を心底蔑むようなものだった。
「どいつもこいつも何て頭が悪いんだ!がっかりだ!もううんざりだ!」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
彼女の耳に私の声は届かなかった。ぶつぶつと、この世の全てに向かって呪いの言葉を吐く彼女が恐ろしくて、私は彼女を残してその場を立ち去ってしまった。
彼女は元々学ぶことが好きだった。知識を得る事がすきだった。だから幼い頃から自ら進んでよく学び、その優秀さを周囲に見せつけていた。親を始め、教師、友人、その他大勢の人間。誰もが純粋に彼女の優秀さを称えた。彼女にとってはそれこそが自分の生きる価値だと思ったのだろう。彼女の向上心は止まるところを知らなかった。
彼女はどんどん優秀になっていき、年齢に合わない知識を身に着けていく。周囲は段々とそれが妬ましくなってきた。
それを最初に表に出したのは彼女の同級生。今まで友達だと思っていた人間も、誰も彼も皆彼女を突き放した。
それでも勉強することしか知らなかった彼女はまだまだ努力を続けた。同級生が駄目でも大人ならきっとわかってくれるだろう。そう信じて。
中学に入学して暫くすると、中学の授業は彼女にとって簡単すぎたため、彼女はそれを教師に訴えた。最初こそ向上心があっていいことだと褒め称えられたその行為も、次第に疎まれるようになっていった。
その頃には彼女の知識量は学の無い両親を超えていた。故に両親はもう彼女の話についていくことが困難になっていた。
彼女の優秀さを称えるのにうんざりしていた。
彼女の周りからはどんどん人が居なくなっていく。彼女の顔からは笑顔が消えていく。けれども彼女は勉強する以外のことを知らなかった。どうにもできなかった。
「私は、もう苦しい思いをしながら無理に勉強しなくていいんだよ、とそう言いたかったんです」
そのお節介は彼女が辛うじて守っていた最後の心の支えをへし折る残酷な行為でしかなかった。彼女が絶望の谷に落ちる最後の一押しをしたのは、私だった。彼女の生きる価値を否定してしまったのだ。
「それからお姉ちゃんはあんなになっちゃったんです。何てことを言ってしまったんだろうと、幼い自分の愚かさを呪いましたよ。……でも、お姉ちゃんが認められるような人に出会えて良かった。それがあなたじゃなければもっと良かったんですけど」
私はまだ湯気を上げている紅茶に息を吹きかけて冷ましながら目の前の男を見る。一見顔も性格もよく、頭脳も姉に劣らない完璧な人だ。しかし、この人もまた姉とは違った歪みを抱えていることを薄々と感じていた。彼はきっと彼女を支えるふりをしてじわじわと彼女の細い首を絞めるのだろう。
だからきっと、彼女はもう駄目なのだと、誰も彼女を救えないのだろうと心の片隅で思っていたが、彼女を支えるのは現状では彼が最適であり、私にできる事は何もない。
故に、私はただ静かに彼女の行く末を見届けようと思った。