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    spring10152

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    spring10152

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    白衣組の痴話喧嘩

    #彼女の箱庭
    #檻の箱庭

    この衝動は殺意に似ている「千智、俺は冗談や悪戯で言っているわけじゃない」

    背後から私の両肩に手を置き、彼は私の耳元でいつもなく真剣な声で言う。そうは言っても同じ言葉をもう何年も聞き続けているのだから私の耳には本気には届かない。彼の戯言に割く時間など一秒たりともありはしないと私は彼の方へは視線も向けない。

    「今まで何度も言い続けたのだって、冗談なんかじゃない。いつだって本気だ」

    彼は彼を無視して読書を続ける私の左手を手に取った。すると薬指にひやりと何か冷たい物が触れる感触があり、そこへ視線を向ければシンプルなデザインの指輪が室内灯の光をはじいてその存在を主張していた。

    「結婚しよう」

    彼が私の手をそっと両手で握り、床に膝をついて真摯な眼差しを此方に向けながら静かに一言言い放った。

    「私がお前に与えられるものなど何もないぞ」
    「いいよ。金も労働も愛情もいらない。ただ、あんたが俺の手元に居てくれればそれだけでいい」
    「それは今と何が違う?」
    「あんたが他の奴の者にならない証が得られる」

    私には彼の言わんとすることが理解できない。一般的に結婚とは、金、労働、および愛情、もしくは社会的地位などを求めてするものではなかったか。そのどれも必要ないのなら結婚する必要もあるまい。ただ妻が欲しいだけならば、そう口にすれば一見顔も性格もいい彼にはいくらでも女が言い寄ってくるだろうに。それなのに、彼が私に固執する意味が分からない。彼は私の人嫌いがどれほど酷いか知っているのだから、わざわざ『こんなもの』で私を縛り付けずとも誰の物にもならないことくらい分かっているのではないだろうか。

    「千智、俺だって不安になる事があるんだよ」

    長年一緒に居るせいで彼には私が何を考えているのかはおおよそお見通しだ。握った手に僅かに力を込めながら彼は哀れみを誘うような声色で言う。

    「俺はあんたに無償の愛を捧げられる。でも、あんたがいつか俺を必要としなくなってどこかへ行ってしまったらと。気が気じゃなくなるんだ。俺にはあんたが必要なんだ」

    無償の愛。そんなもの存在するものか。それを私に捧げるべき両親でさえ私にそれをくれなかったのだ。ましてや赤の他人である彼が私にそんなものくれるわけがない。世渡りの上手い彼の事だ、私が居なくなったら居なくなったでまた次の女を見つけて上手くやっていくのだろう。

    「それを今まで何人に言ってきた。そんな陳腐な言葉で私がお前に惚れると思っているのなら、私はお前に失望するぞ」
    「9年。ずっとあんただけを見続けてあんたに尽くし続けている。これだけじゃあんたにしかこんなこと言わない根拠にはならないか」

    握られた手を引き抜き、指輪に嵌った小さなダイヤが反射する光を眺めながら考える。確かに時に非情な程に合理的な彼の性格からして、軽い気持ちならばここまで長く寄り添いはしないだろう。だが、惰性で共にいる可能性だって無いわけではないのだ。それに付き合う価値は、限りある私の人生の一部を奴に捧げる価値はあるのだろうか。

    「家事炊事もできる限り俺がやる。生活費だって賄ってやるからあんたが稼いだ金は全てあんたの好きに使えばいい。俺はあんたのやりたい事をやりたいだけやれるよう最大限の協力をしてやる。あんたにとっても悪い話じゃないだろ」

    はらりと目の前に一枚の紙が差し出される。それは彼の欄は全て記入済みの婚姻届だった。一度瞬きをし、横目で彼を見やる。視線の先の彼の表情に嘘は無いように見えた。
     私は机上のペンスタンドへ手を伸ばし、ボールペンを手に取ると、適当な紙へそのペン先を滑らせインクの残量を確認し、目の前の紙の空欄を埋める。半分白かった紙面を黒く染め上げると、机の脇にあるチェストの引き出しの持ち手を引き、中から小さなケースを取り出す。そしてそれを開き、収納されていた印鑑にインクをつけ、丁寧に指定の場所へ押し付けた。
     印が綺麗に押せた事を確認すると、紙を数回振り、インクを乾かしてから床に正座している彼に差し出す。すると彼は「ありがとう」と笑みを浮かべて部屋を去っていった。
     今は一度結婚したらそうそう離婚できないような世の中ではないのだ。嫌になったら離婚すればいいだろう。そう考えながら読みかけだった本へ再び視線を落とした。


    ─────


    「暁、大分髪が伸びてきたな~」

     彼と結婚して数年。彼は宣言した通り私には何の負担も掛けなかったし、中々都合が良かったので不満も無く、今までと変わらず同じように時が流れた。そしてその中で、彼が子供を欲しがるので、私は嫌だったが今までの多大なる献身への礼と考えれば、と子供も産んだ。勿論世話は全て彼がするという約束は取り付けたが。

    「きったほうがいいかなぁ?」
    「ん~、暁はお母さんに似て美人だからどんな髪型も思うぞ」

     休日の朝、リビングのソファーに座り、智彰の淹れたコーヒーを飲みながらテレビの画面に映し出されるニュースを眺めている私の隣。智彰が娘を膝に乗せ、その髪を丁寧に梳いてやっている。

    「ねぇねぇ、おかあさんはどう思う?」

    顔は私に似た娘が、智彰に似た純粋な笑みと共に問いかけてくる。煩わしい。髪の長さなどどうだっていいだろう。そうは思うがこの幼い娘に対してそのような態度を取ろうものなら智彰が文句を言うから仕方なくそちらへ視線を向ける。私の髪とは違って柔らかそうでふわふわとした彼女の髪は背中の中ほどまでの長さがあった。私はそれに対して長くて邪魔そうだ、という感想しか抱けないのだが、彼女の髪質的に短くすると智彰のようにはねてしまって逆に手入れが大変になりそうであることを考慮すると、長い方がまだ束ねられる分扱いが楽なのではないだろうか、と少し悩み、「……長い方が似合うんじゃないか」と言葉を選んで簡潔な回答を作り上げる。会話はそこで終わり、私はテレビの画面へ視線を戻す。
    やれやれ、この家の主人は誰だというのか。
     
     彼女は6歳にして既に私が意味の無い会話を好まない事を理解しているらしく、あまりだらだらと長い会話を求めてはこない。私が返事をしたことで嬉しそうににこにこと機嫌良さそうに笑っている。この辺は智彰の教育の賜物だ。彼は私に対し、娘にあまり冷たい態度を取らないようにとそれだけは口煩く言ってくるが、娘の方にもあまり私にしつこく構うなと言い聞かせているお陰でいい距離感を保てている。

    「今日は三つ編みにしてやろうな」

    智彰は暁の髪を整えると、器用に彼女の髪を編み始める。女の子なんだから可愛くしてやらないと、と彼は毎日異なった手の込んだ髪型にしてやっている。よくもまぁ、嫌にならないものだ
     家事、育児、労働。彼は何でもやってくれる上にどれも手を抜かない。よくできた父親だ、と出来上がった髪型を鏡に映して喜んでいる娘とそれを嬉しそうに眺めている智彰を眺めながらぼんやりと思う。

    「それじゃ、ちょっと買い物に行ってくるけど一緒に行くか?」
    「いいや、いい」

    娘の身だしなみを整え終わると彼は彼女の小さな手を取り立ちあがる。そして私は彼の提案に首を横に振った。

    「そっか。何か欲しい物とか食べたいものは?」
    「何も」
    「ん。それじゃ行ってくる」

    一般的に献立を問われた時、何でもいいという返事は好まれないと聞くが、彼は文句ひとつ言わない。それどころか笑顔さえ浮かべて娘の手を引きながら空いている方の手を此方に向かって振る。

    「行ってきまーす」
    「行ってらっしゃい。気を付けて」

    娘も彼に続き元気よくいってきますと告げて出ていくのに簡潔に返事をし、二人の背を見送った。
     テレビでは粗方ニュースも終わり、どうでもいい芸能人のスキャンダルやら何やら下世話で悪趣味な話題ばかりになってきたので、リモコンを手に取り、電源を落とした。そしてソファから立ち上がり、空っぽになったマグカップを台所へ片付けに行ってリビングへ戻ってくる。
     一人になり、静かになった室内を何気なく見まわしてみると、綺麗に片づけられたそこにはあちこちに娘が描いたり作ったりした絵や何だかよく分からない物体が飾られているため、無音の空間ではあるが、賑やかな印象を受けた。
     この家は愛情に満ち満ちている。

    私は居心地の悪さに眉を寄せると、賑やかなリビングに背を向け、さっさと自室に籠ろうと二階への階段を上っていった。
     

    ─────


    「ちょっと出かけてくるから、悪いけど暁のこと見てて」

    智彰達が買い物から帰ってきて、昼食を食べ終えると彼はこう言った。彼が出かけると聞いて娘は不服そうな声を上げる。

    「すぐかえってくる?」
    「暁がいい子でお留守番できたら早く帰ってくるかもな。お母さんに迷惑かけないよう、大人しくしてるんだぞ」

    彼の服の裾を掴んで引き留めようとする娘をやんわりと宥め、優しく頭を撫でてやると彼は出かけて行った。玄関まで行って彼を見送った後、娘はぽてぽてとリビングへ戻ってくる。私は本当ならば部屋に戻りたかったのだが、いくら教育が行き届いているとは言え、このくらいの歳の子供は目を離すと何をしでかすか分かったものではない。私としては娘がどうなろうと関心が無いのだが、彼女は智彰の大事な大事な宝物だ。日頃散々尽くしてもらっている以上、多少こうして見ているくらいのことはせねばなるまい。しかし彼女を自室には入れたくない為私はリビングで本を読みながら娘を見守ることにした。
     彼女は私の方を向き、何かを言い掛けるもすぐに口を閉じてテレビの前へと向かうが、電源を入れようとしてもやめてしまった。リビングの中をうろうろとしている娘を、何をしているのだろうと本を読みながら視界の端で眺めていたふと気づいた。もしや私の読書を邪魔すまいと気を使っている?
     私は普段部屋に籠りきりで彼女と接点を持たないにも関わらず、彼女は私が雑音を嫌うと知っているのだ。

    「暁」

     少し悩んでから娘に声を掛ける。何を吹き込まれているのかは知らないが、父親に似て私の事を大変に好いているらしい彼女は、私に名を呼ばれるとぱぁ、と表情を明るくし期待に瞳を輝かせながら勢いよく此方を振り向いた。

    「散歩にでも行かないか」

    続いた言葉に彼女は益々嬉しそうに喜びを全身に表しながらこくこくと頷く。それを見て私は本に栞を挟むと重い腰を上げた。
     窓の外見ると、庭の草木が初夏の日差しを受けて青々としていた。真夏ではないとはいえ、娘をそのまま外に出すのは良くないだろうか、と考えていると、私が考えるまでもなく彼女は自分で帽子を用意していた。義務教育の過程すら至っていない子供など、何の知能もないものだと思っていたが、案外賢いものだと僅かに関心を覚えつつ自分のついでに娘の肌に日焼け止めクリームを塗ってやる。
     普段娘の世話は全て智彰に任せているため、私は散歩になど行ったことがない。何が必要だろうかとひとまず自分の荷物を鞄に詰めていると、娘もどこからか鞄を持ってきてそれに荷物を詰めていた。きっと普段から自分のことは自分でやるよう智彰が教え込んでいるのだろうという事が彼女の行動から窺えた。
     自分の事しか、いや、自分のことすら全て智彰に任せきりで何もできない自分と違って、娘は年齢的にどうしようもない事は多々あれど自分の事は自分でできるのだ。そう思うと、私はこんなものにも劣るのかと惨めな気分になった。

    支度を整え、戸締りを確かめ、娘を連れて外へ出ると玄関に鍵を掛けた。外気は思ったよりも暑く、日傘をさしていても強い日差しは地面で反射し、じりじりと肌を焼く。あまり遠出をしたくなかった私は公園へ娘を連れていくことにした。そう遠くも無いし、勝手に遊ばせておけば楽だと思ったのだ。「公園へ行こう」と娘に告げると娘はそれに頷き、手を差し出してきた。私はその意味が分からず小首を傾げると、彼女は困ったように眉を下げた。

    「おててつながないの?」
    「その必要があるか?」
    「ひとりであるくとあぶないからって、おとうさんはいつもつなぐ……」

    放っておくと勝手に走って行ってしまう子供ならともかく、智彰がきっちり躾けていて突飛な行動をしない彼女ならばその必要は無いと思うのだが。しかし、彼女がほんの少し泣きそうな顔で此方を見上げていたため、仕方なく手を差し出すと彼女は嬉しそうに頬を染めながら私の指を握った。
     私は彼女の手を握り返さなかった。

    ─────


    「おかあさん、あれなに?」
    「ツツジだ」
    「なんではっぱはみどりなの?」
    「緑色植物は光合成に主に赤色光を使い、緑色光は一番光合成に使いにくいため吸収せず反射するからだ」

    脚の短い彼女の小さな歩幅に合わせているとちっとも先に進まない事にほんの少しの苛立ちを感じつつ、あれこれとその辺にあるものに興味を示す彼女の質問に答えながら歩く。
    私の説明は恐らく彼女には一つも理解できていないだろう。だが、この程度の子供にもわかる程度の平易な言葉を使って説明するのはあまりにも手間がかかるし何より馬鹿々々しい。
    それでも彼女は私と話したいのか、あれこれと質問を続け、分かりもしない私の説明に一生懸命耳を傾ける。そうこうしているうちにやっと公園へ到着した。

    「好きに遊んで来い」

    娘にそう告げ、私は日陰のベンチに腰掛ける。彼女は数秒私の方を見ていたが、直にひとりで遊具で遊び始めた。少しすると見知らぬ子どもが彼女に駆け寄っていった。楽しそうに会話している様子からして恐らく友人なのだろうか。顔こそ私と同じだが、ずっと智彰と居る彼女の性格は父親似で、明るく社交的らしく、みるみるうちに彼女の周りには数人の子供が集まり楽しそうに遊びだした。
     そんなものに興味は無かったが、読書をしていたりして目を離した隙に怪我をされてはかなわない。私は無為に時間を過ごすことに強い抵抗を覚えつつもぼんやりと辺りの様子を観察していた。
     その中で視線を感じ、そちらを横目で見ると、子供達の母親らしき人物達がちらちらと様子を窺うように私を見ていた。私が娘と一緒に居る事は滅多に無いから、私と娘の関係をはかりかねているのかもしれない。または、智彰の姿を探しているのかもしれない。彼は女性にとても親切だし、性格もよく、一般的には顔も良い部類らしい。母親グループの中では人気があるのではないだろうか。
     彼は恋愛感情は今のところ私のみに向けているようだが、非常に女好きであるため恋愛感情の有無に関係なく誰にでも気を持たせる。故に、私の見ていないところで浮気まがいのこともしているのかもしれない。きっとしているだろう。
     私は彼の事を愛しているわけではないのだから、そんなこと、どうでもいいのだが。

     目を焼く強い太陽光。他人の視線。決して低くは無い気温。僅かに汗がにじむ不快感。
    ぐるぐるぐるぐる胸で渦を巻き吐き気にも似た気分の悪さが込み上げてくる。ああ、私はこんな所で何をしているのだろう。
     けれど娘を見ていなければ。娘をきちんと管理しなければ。私に気を使わなくていいように。嫌な思いをさせないように。つまらない思いをさせないように。そう、しなければ。
     私の視線の先では娘が楽しそうに、元気よく駆け回っている。私と同じ顔。私と違う愛らしい表情。


    ─────


    ガタっと玄関を開け損ねた音がする。続いてカチャリと鍵の開く音と玄関が開く音がした。そうだよな、ここはお前の家だもの。
     静まり返った自室の中で、一階の玄関からする物音から夫の帰りを察知しながら窓の外に広がる茜色の空を見つめていた。

    「   」

    彼の声と足音がする。誰かを呼びながら歩き回っている。家の中で誰かを探している。それは娘だろうか。私だろうか。そんなことを考えていればトントンと彼が階段を上ってくる音が響いてくる。足音はどちらへ行くだろうか。私の部屋か、娘の部屋か。
     足音は真っ直ぐ私の部屋の前へやってきた。コンコン、と彼が私の部屋の扉をノックするが私は答えない。カチャリと音がして扉が開かれた。彼が私の背後に立つ。お前の口から最初に出てくる言葉は何だ。

    「千智」

     彼が私の名を呼ぶが、私は答えない。黙って窓の外を眺める。

    「ただいま」

     おかえり。彼に背を向けたまま短く答える。彼の声はいつものように明るいものではない。怒っているだろうか。焦っているだろうか。私は振り返らない。振り返ることができない。 
     彼の表情は分からない。

    「暁は」

     胸がずきりと痛んだ。そうだろう。そうだろう。お前の知りたい事はそれだろう。けれど私は何も答えない。足音と共に彼の気配は私の部屋から出ていった。階段を下りていき、玄関を開閉し、鍵を掛ける音がした。


    ─────


    再び玄関が開かれる音がした。足音は2つ。1時間か。早かったな。なんて考えている私を置いて階下からは彼が娘と会話しながら夕飯の支度をしている生活音がしてきた。そしてそれは数十分後静かになった。
    足音が階段を上って私の部屋へ向かってくる。私は部屋の扉に鍵を掛けた。そして私は扉に背を向けたままサイドチェストから一枚の紙を取り出す。木製の扉をノックする軽やかな音が室内に響いた。私はじっと手元の紙を見つめる。するとガチっとドアノブが捻られるが鍵によって阻まれた音がした。彼はそのままガチャガチャと音を立て、暗に開けろと要求するが私は動かない。
    机上に置かれたスマートフォンが着信音を奏でる。発信者は彼。扉の向こうから掛けてきているのだ。私はそれに出てみる。

    「千智、開けろ」

    彼の声からは感情が分からない。怒っているだろうか、苛立っているだろうか、もしくは何も感じていないのだろうか。私は無言を貫く。

    「どうした?」

    私の予想は全て外れた。いつもの彼だ。私はスマートフォンをスピーカーモードにして机上に置いたまま扉を見て、その向こうの彼の表情を想像する。

    「千智」

    優しく穏やかな彼の声など聞くものか。私には何も聞こえない、聞こえない。この部屋が私の全てだ。この扉の向こうの事は私には無関係だ。他の物など何もいらない。いらないんだ。放っておいてくれ。 
     電話は切れた。そして何やら階下で歩き回る音がしたかと思うと智彰と娘が車で出かけていく音がした。これは好都合だ。静かに過ごす事が出来る。
     そしてしばらくすると車のエンジン音が帰ってきた。彼は再び私の部屋のドアノブを捻った。無駄だ。鍵は閉じたままなのだから。と高をくくっていた一瞬の静寂の後に

    ガッ

    と乱暴な騒音が室内に響き渡る。その音は何度も何度も繰り返される。扉を殴っているのか?何をしているんだ。何だこの音はと混乱する私の目の前で扉は力づくで破壊され、こじ開けられた。

    「どうした、千智」

    彼は手に持っていたバールを床に捨てて何事も無かったかのように私に歩み寄ってくる。あまりにも予想外なこの事態に、私の足は震えて力が入らず一歩も動けない。

    「……あ、あき、暁、は」
    「今千優さんとこに預けてきた。怪我も無い。無事だったよ。日が暮れてもずっと、あんたを待ってた」

    彼と私の距離は20㎝。椅子に座ったまま机と彼に挟まれる形となった私に逃げ場は無かった。恐怖に震える私の声とは対照的に、彼の声は落ち着いていて穏やかだった。

    「暁があんたに何かした?何か気に食わなかった?」
    「いや……とても、いい子にしていた」
    「そうか。あんた外嫌いなのに散歩に連れてってくれたんだってな。暁、喜んでたよ。そこで何かあったのか」

    彼は私を安心させたいのか、その場にしゃがんで私よりも目線を下げ、私を見上げるようにして問いかけてくる。彼は裏表のない人間に見えるが、案外心にもない演技をするのが上手い。だからこの態度が彼の本心そのものかは大分疑わしいが、それでも様子を見る限り、私が娘を公園に置き去りにしてきたことを怒ってはいないらしい。そのことに私は僅かに安堵した。

    「いや」
    「暁の扱いが分からなくて嫌だったか」
    「違う」
    「日差し強かったし、結構暑かったからな。だるかったか」
    「そんなことは無い」
    「暁の友達の母親達に何か言われたか」
    「いいや」

     彼は私の手をそっと握り、次々と質問を投げかけてくる。私はそれを全て否定するが、彼にはそれの真偽が分かっているようだった。

    「他には」

    彼はその質問を最後に口を閉じて私の反応を待つ。私達しか居ない、静まり返った家の中で時計の秒針が時を刻む音だけが規則正しく鼓膜を揺らしている。状況は硬直状態のまま変わらない。
     彼はしつこい。なんせ自分に振り向かない女を約10年追いかけ続ける男だ。このまま私が何も言わなければ何時間でもこの状態が続く可能性もある。

    「離せ」

    小さな声で呟くように言うと彼は大人しく手を放して私を見つめ続ける。私は緩慢な動作で机の上に置いてあった紙を、彼の視界を遮るようにして突きつける。

    「理由は」

    それを受け取った彼は、私の左手を一瞥しつつ緩く首を傾げる。

    「そんなもの必要ないだろう。元々、私はお前の事が好きで結婚したわけじゃない。いつ離婚したって、おかしくはないだろう」
    「自分の感情より実益重視のあんたが、俺を手放せるとは思えねえけどなぁ」

    理由は他にあるだろう。言外にそう含ませつつ彼は手に持った離婚届を真っ二つに破り捨てた。彼の言う事に何一つ間違いは無い。何も否定できない。私は彼を手放す事ができない。彼はあまりにも私にとって都合が良すぎるのだ。けれど、私だって、時には理性に感情が勝る事がある。それが今だ。この場に居ることが耐えがたいのだ。

    「あまり私を、過大評価するな。私とて人間だ。感情を基に動くことだってある。嫌いなんだ。お前も、暁も。これ以上こんな家に居られるものか」

    私は泣きそうになりながら左手の薬指から指輪を抜きとり彼の手に握らせる。

    「何が気に食わない?」
    「全部だ」
    「俺が暁ばかり構うからか」
    「自惚れるな」
    「あんたか暁、どちらか選べと言われたら俺はあんただと即答するよ」
    「だったら私が暁を捨てろと言ったらお前はあれを捨てられるのか」
    「あんたが望むなら」

    普段のふざけた態度など一片も無く、いたって真剣な眼差しで彼はゆっくりと、しっかりと、答える。
     あれだけ大事にして可愛がっている娘を簡単に捨てられると言ってのける目の前の男に鳥肌が立った。

    「勘違いするなよ。俺は大切なものを簡単に捨てられる人間だって言いたいわけじゃない。あんた以上に大切なものは何も無い。だからあんたの望むことなら何だってできると言いたいんだ」
    「口では何とでも言えるだろう」
    「千智」

    感情が高ぶり否定の言葉を並べ立てる私を宥めるように彼が私の名を呼ぶ。血がにじむほどに唇を噛みしめる私の頬を大きな手でゆるりと撫でながら彼は私が落ちつくのを待つ。

    「あんたは自分のしたい事だけをしていればいい。無理しないでいい。外になんて出なくていい。世間体なんて気にしなくていい。何もできる必要なんてない。母親になんてならなくていい。ただここにいてくれるだけでいい。俺にはあんたが必要なんだ。……出ていかないでくれ」

    彼は懇願するような声音で言葉を紡ぎながら私の左手を取ると薬指に再び指輪を通した。
    私を逃さないこの指輪を忌々しく思いながらも私はそれを受け入れた。
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    spring10152

    DONE烏丸さんが芽衣ちゃんを育てて食べようと決意する話
    捕食者と被食者の出会い「おじさんあたしを隠して!」
    彼女との出会いはこの一言だった。私は彼女の通う小学校の学校医で、職務を終えて自分の病院へと帰ろうと丁度車のドアを開けたところに彼女が飛び込んできたのだ。何事かと事情を問おうにも彼女はしっかりと車に入り込んでしまい後部座席の足元に姿を隠して早く発車しろと怒鳴るばかりで取り付く島もないので、仕方なく私は彼女を車に乗せたまま出発した。
     到着するとひとまず彼女を病院に上げて事情を聴くことにした。何でも担任が気に食わなくて鋏で刺してきて追われていたところを私は保護してしまったらしい。そういえば健康診断の時に問題児が居るから怪我を負わされないよう注意しろと言われていたが、もしやこの子の事だったか、と面倒事を抱え込んでしまった事にため息を吐いた。食べて隠蔽しようかとも思ったが、事前準備もなく連れてきたのでは警察に捕まってしまうかもしれないし、聞いてみれば4年生だという彼女は食べるにはやや大きい。どうしたものか、とりあえず学校に帰そうかとすると「どうせ明日には処分が決まるんだから今日はここに居させてよ」とふてぶてしい態度の彼女は病院内の備品に張り付いて離れない。しぶしぶ私は彼女を病院に置いたままその日の診察を終わらせた。
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    spring10152

    DONEひなたに彼氏の肉を食わせる静さんの話
    幸福な食卓私はルームシェアをしているひなたの為に毎日食事の用意をする。それが私達の役割分担だったから。私は正直料理の腕には自信がある。毎日一汁三菜、ほかほかと湯気を立てる温かい食事を、愛を込めて用意していた。そう私は彼女の愛していた。
    私が彼女の愛していたというのは、友愛や親愛ではない。恋愛感情だ。私は彼女が欲しいと思っているし、彼女が他人と話していれば嫉妬する。正真正銘欲を持って愛していた。
    けれど彼女が同性愛者でない事は分かっていたし、私はこのルームシェア生活が続きさえすればそれで良かった。想いを伝えるつもりなどなかった。あの日までは。
    彼女が男の恋人を作ってきたのだ。今まで恋愛にはあまり興味が無い、彼氏はいらないと言っていた彼女が。私の見知らぬ男の隣で幸せそうに笑っていたのだ。許し難かった。そんな男の何がいいのだ。背なら私だってひなたよりも高いし、性格だって女の子に好かれやすい。顔だって悪くないはずだ。私の方がひなたの事を何でも知っていて気遣いができて最高の恋人になれる筈なのに。それなのに、あいつは男というだけで私からその座を奪い取ったのだ。
    1581

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    @t_utumiiiii

    DOODLE #不穏なお題30日チャレンジ 1(2).「お肉」(傭オフェ)
    ※あんまり気持ちよくない描写
    (傭オフェ) ウィリアム・ウェッブ・エリスは、同じく試合の招待客であるナワーブと共に、荘園の屋敷で試合開始の案内を待っていた。
     ここ数日の間、窓の外はいかにも12月らしい有様で吹雪いており、「試合が終わるまでの間、ここからは誰も出られない」という制約がなかろうが、とても外に出られる天候ではない。空は雪雲によって分厚く遮られ、薄暗い屋敷の中は昼間から薄暗く、日記を書くには蝋燭を灯かなければいけないほどだった。しかも、室内の空気は、窓を締め切っていても吐く息が白く染まる程に冷やされているため、招待客(サバイバー)自ら薪木を入れることのできるストーブのある台所に集まって寝泊まりをするようになっていた。
     果たして荘園主は、やがて行われるべき「試合」のことを――彼がウィリアムを招待し、ウィリアムが起死回生を掛けて挑む筈の試合のことを、覚えているのだろうか? という不安を、ウィリアムは、敢えてはっきりと口にしたことはない。(言ったところで仕方がない)と彼は鷹揚に振る舞うフリをするが、実のところ、その不安を口に出して、現実を改めて認識することが恐ろしいのだ。野人の“失踪”による欠員は速やかに補填されたにも関わらず、新しく誰かがここを訪れる気配もないどころか、屋敷に招かれたときには(姿は見えないのだが)使用人がやっていたのだろう館内のあらゆること――食事の提供や清掃、各部屋に暖気を行き渡らせる仕事等――の一切が滞り、屋敷からは、人の滞在しているらしい気配がまるで失せていた。
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