多生之縁 とんでもない人物に、とんでもないことを教えてしまった。罪悪感と背徳感から、隠し刀は柄にもなく深い悔恨の念を抱いていた。まさかこんなことになるとは、まるで予想がつかなかったと言えば嘘になる。それでも可能性は低いと思っていたのだ。何しろ隠し刀が己の手腕を染み込ませた相手は、かの理性の人・福沢諭吉なのである。
「考え事ですか?」
ひそりとした声に思考の波から戻ると、隠し刀は小首を傾げる諭吉の頬を手の甲で撫でた。すりり、とすかさず寄って顔を綻ばせる情人は可愛いと同時に末恐ろしい。付き合いたての頃であれば、何をするんです!などと恥ずかしがって逃げ出していただろうに、今では危うくこちらが取り込まれそうになる。人通りが少ないとはいえ、二人がいる場所は横浜貴賓館の図書室なのだ。
「誤魔化さないでください」
「駄目か」
苦笑しつつも、どう答えたものかと思案する。今日はいつものように英語を教えてもらい、なかなか覚えがいいと褒められた。後は時間があれば一緒に休憩するだとか、行楽に行くだとか、はたまた宿で密やかに愛を交わすなどするのが常態化していた。互いに忙しいので、共に過ごせることはこの『お付き合い』における最大の幸福である。同性同士が付き合おうともさして大きな問題ではならなくとも、社会生活をみだりに犯すことはできない。理性の人と寄り添うために、隠し刀が何より尊重しているのがその点だった。
だと言うのに、だ。『よくできましたね』と言った諭吉は周囲を確認してから自分に口付けてきたのだ!ポカンとしたところに舌まで入り込んできて、思考が奪われる。閨事では圧倒的に自分の方が分があるが、奇襲は迂闊にも想定外だった。おまけに付き合いたての頃より明らかに巧みになっていて、吸い付く端から体の奥に眠らせていた情欲が熱を持つ。今日は――よりにもよって今日は長州藩主宰のフグの宴に出なけれなばならない。そも当初こちらの予定は諭吉に共有済みだ。
「諭吉はひどい」
どうにか口から紡ぎ出せたのは、子供のような愚かでてんで意味の通じない台詞だった。長らく背伸びをして、どうにか相手との釣り合いをとってきた全てがガラガラと崩れて、もう体裁など構ってられやしなかった。ついで、こちらの言い分を汲み取ろうとする相手に申し訳なさが芽吹き出す。
「違う、どう説明すれば良いか……」
辛抱強く待つ沈黙に耐えきれず、愚かしさはどんどんと積み重なっていった。多分に今の自分の顔はみっともないだろう。呆れられていなければ良いのだが。彼を前に格好つけてきた諸々の努力が水の泡だ。何か言わなければ。さりとて上手い言い方はちっとも思い浮かばない。もし自分と諭吉の立場が逆であれば、彼はもっと気の利いた言葉を選べるだろう。短い舌がもつれ、半端に開いた口の中が渇き始めた。
ボーン、と掛け時計が時を知らせてハッとする。もう行かねばならない。卑怯な真似であることを重々承知しながら、隠し刀は諭吉の手を取り、手袋越しに手の甲に恭しく口付けた。
「また明後日に」
「あ、」
追いかける言葉に後ろ髪を引かれぬうちに荷物をまとめて逃げ出す。情けない、無様だ、何もかもが台無しだ!敵前逃亡もいいところで、何より申し訳なさから隠し刀は自分自身を深く呪った。
建物群の上を飛び回りながら、脳裏から諭吉の嫣然とした笑みを振り払う。積極的な姿勢はありがたいし、彼を花開かせたのは自分だという誇らしい気持ちもある。こんなに教え甲斐のある生徒はそうはいない。海綿が水を吸収するように、諭吉の振る舞いや閨の仕草はより艶やかになった。以前は自分が一方的に揶揄ったり、誘いかけていたのが、諭吉の方からも仕掛けるようになったのである。
例えていうならば、毎日拝んできた美人画が急に実体を持って迫ってきたような、とんでもない色香を真正面から浴びているのだ。先日も物陰で口付けを強請られたし、ヒヤヒヤしながら応えた――大層興奮してしまった――後、たまさか人が通りがかって心胆寒からしめた。おまけに諭吉は知人とのやりとりを平気でこなし、去り行くのを見届けた上で「バレませんでしたね」などと宣ったものだからたまったものではない。またこの時の表情が無垢さと艶っぽさの両方を兼ね備えていて抜群の破壊力だった。何度だって見てみたいが、これでは心臓がいくつあっても足りない。
生死のやりとりを幾度となく行い、死戦を掻い潜ってきた隠し刀が怖気付くなど空前絶後の事態だ。ああこんな時に片割れがいたらば、背中を蹴り飛ばして吹っ切れさせてくれただろうに。誰かに頼る甘えた根性と、振り払おうとすればするほど諭吉の誘惑の思い出(あれを誘惑以外のなんと呼べば良いのか)にぐずぐずにされてしまう。
ひゅるりと空を飛ぶ。陽が傾き、宴の時間が迫ろうとしていた。
呆れられてしまった。置いてけぼりを食らった諭吉は、呆然としながら機械的に散らばった道具を片付け始めた。人目がつかない場所ならばと確信して己の欲に従ってしまったのだが、やはりはしたなかっただろうか。相手の反応も上々で、隠し刀は喜んでいたように思う。そうでなければ自分も続けられはしない。だが、うまく言葉を紡げぬ男が放った言葉と表情にはありありと後悔の二文字が滲み出ていた。
『諭吉はひどい』
拗ねた口調に込められた感情は複雑で、どうにか読み取ろうとするもついぞ理解することはできなかった。額面通りに捉えるほど、諭吉は男を知らぬわけではない。とはいえ耳に残った言葉は、気持ちを暗くするには十分だった。何を間違えてしまったのだろう。最初の頃は先方から仕掛けてくることが多く、付き合うようになってようやく彼なりの罠であったと思い当たったことが多々ある。もちろん今でもその癖は治らず、彼はふとした仕草で諭吉の欲を煽る真似をする。
先ほど彼が口付けを残していった手袋の甲を眺め、熱を探るようにそっと口付けを落とす。冷たくなった無機物が恨めしい。こんなことをされれば、名残惜しさで悶々と今日を終える羽目になるではないか。
「ひどいのはあなたの方だ」
子供のように拗ねた口調で呟いたところで気分は晴れない。隠し刀と会えないのだから、気持ちをぶつける先を見失っている。またぞろ長州藩の連中とつるんで宴に出るらしい。人付き合いにどうこう口を出すつもりはないものの、頻繁すぎやしないかとも思う。付き合うまではまるで気にならなかった二人の隙間が、より親密になった今では身を切るほどに辛く、引き裂かれた牽牛の心情をありありと想像できるほどになった。
「なんだ、珍しいじゃねぇか、そんなしけたツラしてよ。景気が悪いことでもあったか?」
「勝さんこそ、ここでお会いするとは珍しいですね」
塩辛い声が聞こえた、と思うと、廊下の向こうで異人と談笑していた勝海舟がこちらに手を振っていた。どうやら自分は考え事をしながら定位置に戻ろうとしていたらしい。我ながら器用なことだ。勝は話を終えたのか、異人と挨拶をして颯爽とした足取りで真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「今日は、ちょいと新燃料について話しを聞きに来てたんだ。マーカス、って言ったか。あの男、若ぇがなかなか目の付け所がいいね。俺なんざ想像もつかねえモンから金を産む術を思いつきやがる……っと、本題から逸れちまったな。福沢、今夜一杯どうだ?横浜に来るのは久々だからよ、洋酒が飲める良い店に行きてぇんだ」
「構いませんよ」
どうせ今日は予定もない。一人で帰れば、延々思い悩むばかりだ。ならば、多少いざこざはあったものの、顔馴染みの勝の気儘に付き合う方が時間の潰しがいがある。豪快なようで繊細な男は、どうせ自分の浮かない顔を見て相談に乗ってやろうという老婆心(この場合は老爺心か)を起こしたに決まっていた。普段であればお節介だと鬱陶しい気遣いも、今は妙に身に沁みる。
「じゃ、決まりだ。七つになったら時計塔の前で待ち合わせるとしようや。俺は、それまでに雑用を済ませておく。遅れるなよ?」
「わかりました」
相変わらず豪快で自由な人物だ。言いたいことを言うだけ言って去ってゆく姿に苦笑すると、諭吉は少しだけ気分が軽くなったのを覚えていた。美味しい洋酒を置いていて、勝の好みに合ったつまみを出す店となると数が絞られてくる。根っからの江戸っ子の勝は塩辛く味が濃い食べ物と、甘味が何よりの好物だ。酒はいつまでも飲んでいられると豪語するほどに強く、船酔いする彼が漕ぎいだす海は酒でできているのではないかと思わせる。勝手に一人楽しんでいるかと思いきや、さりげなく相手の話を引き出してゆくあたりはなかなかの見ものだ。
勝と酒を飲むと、ついつい度をすぎて飲んでしまうため、醜態を晒したことは数えきれないほどにある。羽目を外させるのが上手いとも言え、宴の終わりの多くが記憶の外にある。それで良いのだ、と思えるようになったのは何度目のことだろう。今では店を紹介するのだから(あるいは相席する要人をもてなすのだから)良いだろうくらいの横暴な気分で参加している。
今日は大いに飲むとしよう。心に決めると時間が経つのは早いもので、なすべき些事をこなしていたらば鐘が七つを知らせてハッとした。今日は公文書の翻訳を仕上げる予定で、ちょうど出来上がった頃である。我ながら完璧な仕事捌きだった。満足して退出し、駆け足で時計塔に向かうと、反対側から小走りに駆ける勝がおおいと声を張り上げた。悪目立ちをするのでやめてほしい。横浜と江戸は街中の空気がいささか異なる。ギョッとする異人たちの間を平気で泳いでやってくる勝に、諭吉は頬を引き攣らせた。
「そんなに声を上げなくとも、すぐにわかりますよ」
「はは、つい癖でやっちまったな。ここいらは背が高い奴が多いもんだから、見失いやしないかヒヤヒヤするぜ」
「返しにくい冗談はよしてください。良い店を見繕っておきましたよ。露国のウォトカを仕入れたばかりだそうです。火酒の一種で、非常に強いそうですよ」
「そいつぁ楽しみだ」
口笛を吹く勝はまるで子供のようだ。店に誘うと、洋館であることにまず驚き、次にずらりと並んだ洋酒の瓶に目をキラキラと輝かせる。今回選んだ店は、近頃開いたばかりのもので、諭吉自身足を運ぶのは二度目だ。魚を中心とした洋風の肴がおつで、何を隠そう店主が雇った料理人が仏国人だというのだから本物である。店の奥から出て料理人が挨拶した時の勝の顔と言ったらばなかった。嬉しい、という気持ちが全身から溢れている。今夜は美味いものが食べられるだろう。
干し鱈の揚げ物や、油でグラグラと煮られた海老と野菜とをつまみに、まずは麦酒を傾ける。弱いものから順々に深くしてゆくのがいつもの流れだ。本当は酒の種類を複数梯子するのはあまり体に良くない、と理解しつつも、今日は健康は雲の彼方に隠れてしまっている。塩気の強い肴が酒の力を得て口内でえも言われぬ心地よさを生んだ。勝はもちろん大興奮で、ホクホクの揚げ物を食べて舌鼓を打っている。わかりやすくて全く良い。
隠し刀と飲み食いをすることはあれども、もっとゆったりと時間を楽しむことが多かった。あまり食事を共にする機会がないこともあり、ガツガツと平らげるのは勿体無いように思う。彼の家で手料理を楽しむ時はもちろん、その後の展開が期待される小料理屋で(ここに立ち寄れば次は貸宿に行くと暗黙の了解があった)過ごす時は幸福を噛み締める場でもある。気楽に会えたらば、とついつい欲張る心が溢れて諭吉は嘆息した。
「またでけぇため息をつきやがって。言ってみな、一体お前さんほどの頭の切れる奴を悩ませているのはなんだってんだ」
「言うほど大きくありませんよ。一々大袈裟なんですから」
口答えをしつつも、ウヰスキー、焼酎、ウォトカと順々に世界を巡ってきた頭はぼんやりと勝の存在を肯定しつつあった。この男ならば、普段から隠し刀に出会う可能性は低い。周辺との接点も殆どなく、蚊帳の外のさらに外のような人物だ。何を相談したとて酒の席、と止めてくれる漢気もある。今の自分が抱える犬も食わない話を持ちかけるのにうってつけではないだろうか?
「好いた人と、ようやく親密になれたんです」
「へえ。良いじゃねぇか。お前さんも隅におけねぇな」
相手は誰だい、と言わないのは勝なりの配慮だ。まあ聞いたところで、彼がわかるはずもない。女性を想像しているだろう勝に、諭吉はほどほどに相手の様子を語った。年は同じ頃で(言いながら初めて相手の年齢を知らないことに気づいて驚いた)、物静かだが自分を想っていることが行動の節々から痛いほどに伝わってくること、そばにいることで黙っていても安心できること、などなど。言い連ねればキリがなく、存外自分はベタ惚れなのかもしれないと諭吉はくすりと笑った。勝が酢を飲んだような顔をしているのだから、余計に可笑しくて仕方がない。
「ケッ、ご馳走様だぁな。めでてぇじゃねぇか。一体そいつに何の問題があるってんだ?」
「僕が誘うと逃げるんです」
言葉を選びに選んで、諭吉が言えたのは潔くも無様な表現だった。今日は見事に逃げられてしまった。出かける約束があると知りながらもあんな真似をしたのは、ただしたいというその場限りの欲だけでなく、自分を優先してほしいという子供じみた願望の表れだった。
「驚いたな。お前さん、おとなしそうなフリして随分押しが強いんだな。いや、異国とのやり取りではお前さんの肝っ玉の太さに随分助けられてるんだ、するってぇと不思議でもねぇか」
「……僕は幻滅されたんでしょうか」
「弱気だな」
ハ、と他人が鼻で笑う。他人事だから当然だ。何倍目かのウォトカが喉を燃やし、諭吉は軽く咽せた。こちらは心底悩んでいると言うのに気楽で羨ましい。隠し刀は自分を何だと思っているのだろう。いつもいつも、
「あの人は僕を壊れものみたいに扱うんです。良いんですよ?大事にされるって、悪い気分じゃありませんからね。ですが、程度というものがありませんか?僕はしたくてしてるっていうのに」
同衾しようと決めてから、二人は互いに歩み寄りを着実に進めている。が、最後まで交合するには至っていない。大層気持ち良くて毎回頭がおかしくなりそうになって、笑い合って満足してしまって別れた後では、と気づいて一人の時に物寂しさと物足りなさで気も狂わんばかりになる。孤閨をかこつとは自分のためにあるような言葉だと、アーネスト・サトウに物を教えながら胸を突かれて泣きそうになった。
「全部奪ってくれて良いのに、全部くれることさえしないんです。ひどくありませんかあ?」
「贅沢な悩みに聞こえらぁな。相手はお前さん一筋なんだろ?」
「そう、思います。そうじゃなかったら殺してる」
どろりと溢れた醜い独占欲にハッとする。今まで一度も浮上しなかった考えだ。物騒で非合理的で益体もつかない。勝の表情は二重三重にもぶれてしまって漠然としているが、ケラケラ笑って卓を叩いているので大丈夫そうだ。
「情熱的じゃねぇか。良いね、俺はそういう熱さってもんは良いと思うぜ。けどよ、お前さん、そいつを相手にぶちまけたことはあるか?花火ってもんはな、打ち上げなけりゃ無用の長物だぜ」
一発そいつを打ち上げてみちゃあどうだ?と塩辛い声が心の帆を膨らませてぐらぐら揺らす。視界だけでなく全身が揺れているのは、ははあ、酒の波が大荒れなのだと全身を燃やしてそらんじる。来ぬ人を、まつほの浦の夕凪に。
「おい、聞こえるか?福沢、しっかりしろ」
藻塩が焼けている。
フグは絶賛狩られ尽くしていた。長州人というのはフグの天敵であるらしい。いつぞやフグを巡って一悶着あったことを思い起こしながら、隠し刀は因縁の地・十二天社に足を運んでいた。本牧は中心地からやや離れているため、馬を使って駆けてもどうにか遅刻する手前での到着となった。漁火のようにそこここで鍋がチロチロと火にかけられて賑やかで、あの日自分が打ち倒した人間が覚えてやしないかという懸念がちらつくも、誰に咎められることもなしに社殿の中に入り込む。
「おお、来てくれたね。気を変えやしないかと心配していたよ」
「すまない、山賊と一悶着あった」
真っ先にこちらに気づいた桂小五郎に軽く頭を下げると、誘われるままに彼の隣へと座る。フグが仕上がる前に大分酒をきこしめしたらしく、酒癖の悪い男はすでに上半身を裸にして顔を朱に染めていた。面に血が昇ると、普段隠れがちなそばかすが浮かび上がって目立つために少年のように見える。そういえば諭吉は酒好きだと方々で聞いているものの、いついかなる時も小五郎のようになることはなかった。自分も北国らしく酒には強く、叩き込まれた教えが決して酔わせることもない。閨での快楽以外で揺蕩う彼を見てみたいと願うのは、観音菩薩と共寝をしたいと嘯くような俗っぽさで反吐が出そうになる。
「そいつは災難だったな。おっと、あんたのことじゃない。相手の山賊の方さ。襲う相手を間違えるなんざ大した奴じゃないだろうが」
「買い被りすぎだ、晋作」
奥で三味線を弾いていた高杉晋作が猫のように忍び寄ってくるのを苦笑して迎える。この頃には坂本龍馬が盃を持って踊りに出た小五郎の隙間を埋めていた。鍋ができたと皿が回ってくる。全く忙しくて悩む暇もない。てんでめちゃくちゃな情報交換を続けながら、隠し刀は置いて行った情人に対する申し訳なさを酒で流し込んだ。フグに狂う長州人の気持ちは分からずとも、美味さは十分堪能できる。
「ほいで、おまんはどうしたがよ?」
「どう、も何もないが」
遊崎の妓女の話をしていたはずの龍馬が、不意に刺す。脈絡のない発言は鋭く、龍馬は躊躇うように酒をちろりと舐めて続けた。
「心ここに在らず、ちゅう顔じゃ。何じゃ、あの鬼の手の侍の行方でもわかっちゅうがか?」
「坂本さん、そいつは外れだと思うぜ。こういう顔をする時は、大概色恋沙汰だと決まってるもんだ。そうだろ?」
深い仲の相手がいると聞いた、と晋作は言う。特定には至っていないのか、諭吉を名指ししなかったことにひどく安堵した。自分は堂々と自慢をしたって良いと思うが、幕府で働く役人の身の上では浮いた噂は気がかりだろう。人間関係に金感情を絡ませるのは好かないが、フラフラとした浪人風情と付き合うことが諭吉の足しにはならないことくらい容易に想像される。
一方、こうして自分を手元に置いてくれる長州藩がらみの面々は気安いものだ。異人を襲う話が加速しておりどうにもきな臭く、おかしな方向に捻じ曲がってきているようにも感じられるものの、彼らとの間にしがらみはない。しがらみ。諭吉と出くわすこともない彼らであれば、どうすれば良かったかを示唆してくれはしないだろうか?よらば文殊の知恵という。おまけに自分よりも余程人付き合いに関しては一日の長がある人間ばかりである。迷う暇はなかった。
「そうだ」
短い返答に、周囲がどっと沸き立ち、一瞬静まり返る。火が一度消えかかるにも似て、間をおかず質問は一斉集中砲火となって猛然と襲いかかってきた。相手は誰だ、どんな人間でどこで出会い、何を思うのか、物語を物語ってくれ!
「良い人だ。いつも私に初めてを教えてくれる」
一緒にいるとここが温まるんだ、と胸の辺りを指すと、なぜか周囲がほう、と押し殺した声を漏らした。
「ただ、どうすれば良いか分からなくて……確かに私の手には余る」
「なるほど。これは重大事だよ、君!もう少し詳しく聞かなければならないね」
小五郎が龍馬を押し退けてぎゅうぎゅうと間に入り込む。普段は奥手な人間が、酒が絡んだだけでこうも大胆になるとは痛快極まりない。
「近頃ようやく深い仲になることができたんだ。私としてはもっと時間がかかるかと思って、かけるつもりでもいた」
しびれを切らしたのは諭吉で、全く人の気持ちは分からないものだと感動すら覚えた一大事件だ。とはいえ男性同士が交合を最後までするには念入りな慣らしが必要となる。何、恋仲になることは体をつなげることが全てではないさと言えるほど隠し刀は高潔な人間ではない。さりとて諭吉では別に十分満足できるような気がしていたのでのんびり構えていた。のんびりし過ぎていたのだ、と思う。故に熱烈に求められることに(それ以外の何かでないことを心から願う)あたふたとするばかりで格好がつかないのだろう。言葉が拙いためにうまく説明できたものか、おおよそそのようなことを語って聞かせると、聴衆は憮然とした面持ちで唸っていた。
「おまん、思うた以上にうぶじゃな」
「うぶ」
龍馬の物言いは相変わらず面白い。自分から遥かに遠い言葉を口の中で転がして、隠し刀はそれを脳裏の諭吉に投げた。ほんのちょっとしたことで花を咲かせる人、色づく様から目を離すことのできない人、初めてを積み重ねられる人にこそ、『初(うぶ)』は相応しい。
「男冥利に尽きる話だぜ?好いた相手があんたを思って変わったんだ。まさか、すれたからって捨てるような人でなしじゃないだろうな」
「私を、思って」
晋作が三味線を鳴らして艶めく音で部屋を満たしてゆく。自分のせいで諭吉は変わった――まさしくその通りだ。自分との間で築き上げた関係での変化でなしに起きたものならば、自分は嫉妬の業火で悶える羽目になる。そんな気持ちを教えてくれたのも諭吉で、なるほど互いが互いのために変容しつつあるのだろう。木々が陽の指す方を目指して枝を伸ばすように自然に思われた。
「君にとっては、きっとこんな悩み自体も初めてで、だからこそ惑っているのだろうね。分からないではないな」
「まっこと、可愛らしう見えてくるき」
「止せ」
顎の下をくすぐろうとしてきた龍馬の手を跳ね除けると、機嫌を悪くするどころかむしろ上機嫌にぴゅうと口笛を吹かれた。妙な趣味でもあるのかもしれない。思えばこの男は気の強い女が好きだといつぞや話していたような記憶もある。龍馬は気安い第二の相棒とは思うも、諭吉と同じ扱いにすることは到底不可能だ。晋作が笑うと、初めて龍馬が拗ねたように唇を尖らせる。
「それでいい。嫌なら拒めば良いんだ。態度をはっきりさせない方が不誠実だ」
「しかし、」
「……先ほどから聞いていれば、随分小さな悩みだな。嬉しいならば嬉しいと伝えれば良い」
ズバリと切り込んできたのは、他の藩士たちにせがまれて詩吟を詠んでいた久坂玄瑞だった。相変わらず惚れ惚れするほどの男振りを発揮している。酒のせいかフグのせいか、目つきが据わっており恐ろしい。美人が怒ると怖いと言うが、猛り狂った美丈夫も十二分に怖いと隠し刀は思う。
「お前の好いた相手は、お前が喜んで嫌がるような人間か?言葉を選べるものなら選べば良い。だが、弁舌が全てではない。持つべきは心、そう志だ」
「要するに、素直に君の気持ちを伝えた方が良いということさ。策士策に溺れるという。慣れないことに時間をかけると、君は大切なものを失うかもしれない」
断言はできないけれどもね、と小五郎が玄瑞の言葉を補足する。人と人は繊細に結びついているものだから、ちょっとしたことでもつれて絡んで、思わぬ方向に捻じ曲がってしまう可能性があるのだ。だから慎重に、できるだけ格好つけていた自分は道化もいいところだったらしい。無闇に考えたところで答えはいつまで経っても出やしない。ならば進むしかあるまい。道はいつか振り返ることができるだろう。
「伝えてくる」
「よく言った!結果は必ず教えてくれよ。健闘を祈るぜ」
晋作が奏でてくれたお囃子を背に、夜の本牧を抜け出す。フグは美味しかったが、やはりこれという感慨を抱くには至らない。ただ、気の置けない仲間と囲む宴は楽しい、つまるところはそんな簡単な話なのだろう。諭吉といる時間が早くも恋しい。あれは――フグよりもずっと深く自分の中に染み込んだ好物だ。
勝は弱りつつあった。諭吉の話があんまりにも面白いものだから、酒の肴にするため良いわ良いわで飲ませ過ぎてしまったのである。自分の宿に放り込んで早朝に起こせばいいか、と思うも自分もなかなか忙しい身の上なので世話をする暇がない。酔いどれの諭吉に手を尽くすにはちょっとしたコツがいる。慣れた人間以外に任せるのは申し訳ない。諭吉の宿舎に連れてゆくには、潰した手前忍びない。頭から水を被せれば目覚めるだろうか。以前はそれで起きたことがあったような――呻吟しつつも酒を飲む手は止まらない。
しかし勝は天にも愛された男だった。何杯目かのウォトカに手を伸ばした頃、見たことのない男が音もなく襖を開けたのである。あまりにも気配がなく、ひょっとすると刺客ではないかという危機意識が脳裏をちらつくも、勝は敢えて鷹揚に構えることを選んだ。
「何でぇ、お前さん。人を訪ねるなら挨拶くれぇしなけりゃ野暮ってもんだぜ」
「夜分に失礼する。諭吉を探しに来た」
「そういう意味じゃねぇんだけどな」
皮肉を文字通りに返した男に稚気を感じ、勝はうっかりクックと笑ってしまった。殺されるかもしれない時に気を緩めてどうする。しかし男は気にしないらしく、着物をめちゃくちゃにして床に轟沈した諭吉の口元に耳を寄せてほっと胸を撫で下ろすなどしている。剣呑な相手でないことだけは確かだった。まるで家出した子供に出会った母親のような甲斐甲斐しさは好ましい。
「家に連れ帰っても良いだろうか」
「ああ。構わねぇよ。お前さん、そいつを随分大事にしてるみてぇだしな」
「礼を言う」
男が諭吉を抱き起こすと、うろうろと目を彷徨わせた諭吉が途端に盛大に吐き出した。今日は随分飲んだだけでなく食べた上に、食べ合わせが今ひとつなものも多かったので、予想されうる事態である。げえげえと豪快な音が全て見知らぬ男の胸元に吸い込まれる様を眺めながら、勝は諭吉が愛想を尽かされやすまいかと要らぬ心配を抱いた。
「諭吉、すっきりしたか」
感心したことに、男は一向に気にしないどころか諭吉の背中を摩りながら吐瀉物を受け止めている。もちろん酔っ払いの返事はなく、水音ばかりが響き渡る。勝が他人に面倒を頼むに当たって迷った最大の問題が披露されていた。吐いたものが喉に詰まると窒息してそのまま昇天する、などという不幸も珍しくはない。甲斐甲斐しく見守ってやるには骨が折れる。男は黙々と勝が願う世話をしており、なかなかどうして見どころがあった。
そうして時折休みを挟んで散々吐いた末、諭吉の体が再び沈む。今度は深く寝入ったらしい。ここまでくれば世話はしやすい。汚れを取り去って寝転がせば終わりである。男は自分の羽織ものをあっさり脱いで諭吉の汚れも拭うと、それを放って着流し一丁で諭吉を背負った。
「すまん。捨ててはもらえないか。必要な金は後で払いに行く」
「良いさ、手間賃ってことにしといてやるよ。何かの折にその恩は返してくんな」
「かたじけない」
ぺこりと頭を下げる男は、そうして音も立てずに去っていった。
「たーまやー、ってか」
最後のウォトカを飲み干すと、勝は男が諭吉に見せた慈愛に満ちた眼差しを思い起こした。あれは親どころか、もっと深く結ばれた多生之縁に違いない。打ち上げた後はどうなるだろう?次の肴は決まったも同然だった。
目を開けた諭吉が最初に思ったのは、今は夜だ、という事実だった。真っ暗で、ぼんやりとした視界に見える月がとても明るく見える。今日は雲ひとつないらしく、周囲の景色がうっすらと浮かび上がって何やら神々しさを帯びていた。夜風が頬に心地良い。けれども自分の体は暖かなものに揺られていて、風邪をひく心配はなさそうだった。ついでに言えば、勝手に寝場所に連れて行ってくれているような気もする。風景が流れているとは、歩かずとも動いている証拠だ。随分行き届いていることだ、と記憶を反芻して諭吉はじんわりと脳を覚醒させた。
「迎えに来てくれたんですか」
「会いたかったからな」
誰ですか、という問いは最初からはなかった。この温もりを間違えるはずもない。勝と飲んでいたはずなのに、場所を知らぬ彼が迎えに来てくれたとは重畳だ。それも自分に会いたかったから、というのがどうしようもなく嬉しい。
「フグはどうだったんです」
「美味かった。命を張るほどではないと思うが」
「はは、伊賀七さんの件ですね。あれは大変だったと聞きました」
「苦労した甲斐があったから良いさ」
具合は良いか、と隠し刀が優しい声で問う。できるだけ揺れぬよう気遣ってくれているのだ、と思い当たって諭吉はああ、と小さく叫んだ。途端男の足が止まる。
「どうした?まだ本調子ではなかったか。もうすぐ長屋に着くが、我慢できそうか?」
「大丈夫です。いえ、そうではなくて、僕はひょっとしてあなたに」
「ああ、随分吐いていた」
「やっぱり!」
今度こそ大声で叫び、男がしいっと振り向いて言ったことで慌てて口を塞ぐ。夜は剣呑だ。余計な輩の気を引いたらばまずい。幸いにして脅威はなかったらしく、男はゆるゆると再び歩を進めた。
「申し訳ありません、そんな目に遭わせるつもりじゃなかったんです。もしかして、あなたの着物を台無しにしてしまいませんでしたか?ああ、もう、自分で歩けますって」
「着物は駄目になった」
男はどうということもないように淡々と事実を伝える。いっそあからさまに迷惑がってくれた方がマシだと諭吉は男の朴訥さを呪わしく思った。完全な八つ当たりである。できるだけ自分の醜態を必要以上に晒さないよう気をつけてきたというのに、全部が台無しだ。ただでさえはしたないと思われているだろうに、汚点ばかりが積み重なってゆく。しどろもどろで繋ぎ合わせようとしても何も言えずにいると、男はやはり淡々とした調子で話を続けた。
「諭吉は嫌だろうが、お前の吐く姿を見られて嬉しいんだ。別に、妙な趣味だとかそういうものではなくて、私の知らないお前を見られたからだ」
「言わないでくださいよ、余計に恥ずかしくなります。こんな情けない……何が良いんですか?嫌がってくださる方が救いようがあります」
「お前を嫌いになれやしないさ」
骨の髄から好いている、と男は浮いた台詞も重々しく言ってのける。千両役者でもこうは行くまい。吐瀉物まみれのひどい状態であるにも関わらず、諭吉は男の顔を見たいと切に願った。長屋まではあと少しだと周囲の様子からわかるものの、どうにも気を揉んでしまう。
「今日、逃げてしまって悪かった」
それならば、自分にも言いたいことがある。第一、背中で謝るとは何事か。しがみつく腕の力を強めると、男がう、と埋めいた。締め上げてやってもいい。二人諸共無様に地面に転がって喧嘩でもすれば、お互いのみっともなさに何もかもどうでも良くなるような気さえした。
「ついたぞ」
しかし現実は逃亡を許さず、諭吉を彼の長屋へと運び込む。千客万来の彼の部屋は、今日に限ってしんと静まり返っていて冷たかった。不用心にもまた雨戸は開けっぱなしで、月の光がありありと全てを明るみに晒している。床に下ろされるや否や、諭吉は矢も立てもたまらなくなって隠し刀の顔を自分に引き寄せた。途端、嬉しそうに男が目を細める。
「嬉しいな」
「な」
「恥ずかしい真似をしてなんだが、私は諭吉に求められるのはとても嬉しい。ただ、あまりにも魅力的なものだから抑えが効かなくなりそうなんだ」
「魅力的?」
呆れていたのではなかったのか。今もうっとりとした表情を向けてくれるが、諭吉は悲惨な状態である。自分でも見たらばげんなりするであろう様態に、男は怯む素振りさえ見せない。そんな男前なことを言いつつも、自身の怯懦を吐露されてはあらゆる抗議が引っ込んでしまう。
「僕を壊れ物のように扱わないでください。その魅力的かどうか、は今は置いておきましょう。……僕も、あなたには言っておきたいことがあります」
「わかった」
聞こう、と男が居住まいを正す。背筋がピンと張って今日も綺麗だった。
「自分では考えたことがなかったんですが、僕は欲が深いんです」
だから、と男の目を真正面から見据える。真っ直ぐに自分を求めてくれる色に、諭吉は頬を緩ませた。
「こんな姿まで見られたんです、もう取り繕っても仕方ありません。あなたが、他人に渡せるあなたの全てを僕にください。本当は全部欲しいですけれども、個人の胸に残しておきたいことはあるでしょうから、例外は認めます。ですから、僕もあなたに委ねられる限り全てを差し上げます」
「良いのか?」
「今更拒まないでくださいよ」
その時にはさらに情けない様を披露することになるだろう。ムッとして眉間に皺を寄せると、隠し刀がやにわに顔を近づけてくる。こんな状態で口付けでもされたらばたまったものではない。慌てて後退りすると、男がくすくすと笑った。どうやら彼はかなり機嫌が良いらしい。
「全部、そうだな、私も諭吉の全部が欲しい。だから、鬱陶しくない程度に私のことも貰ってくれ」
「満足しました」
もう一度近づこうとしてきた男の顔を今度は拒まず、諭吉は眉間に口付けを受けた。ペロリとした感触に背筋が震える。またぞろほくろのあたりを舐めたのだろう。隠し刀はどういうわけだか、自分のほくろに執着しているのだ。
全て吐き出した気持ちよさと同時に、吐いてしまったが故に求められない事態を心底残念に思う。次の休みは覚悟を――お互い覚悟をして挑むとしよう。次こそはいけるという自信に満ち満ちて、諭吉は汚れた着物を脱ぎ始めた。
〆.
*作中に部分的に登場する和歌は百人一首より『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ』(権中納言定家)です。