聞香 千葉道場の帰り道は常に足取りが重い。それなりに鍛えている方だが、疲労は蓄積するものなのだと隠し刀は己の限界を実感していた。所詮は人の身である。男谷道場も講武館も、秘密の忍者屋敷もすいすいとこなしたところで、回を重ねれば疲れるのも道理だ。
が、千葉道場は中でも格別であった。理由の一つは毎度千葉佐那が突撃してくることで、一度は勝負しないと承知してくれない。そうでもなければ、「私に会いに来てくださったのではないですか」などとしおらしい物言いをされるので弱ってしまう。健気な少女を健全に支えたつもりが、妙な逆ねじを食わされている形だ。
佐那だけならばまだ良い。性懲りもなく絡んでくる清河八郎もまあ、どうにかなる。問題は最後の一つで、佐那が坂本龍馬と自分との手合わせを観たいとせがむところにあった。彼女は元々龍馬と浅からぬ因縁があり、ずるい男は逃げ回るばかりで年貢を納めようとしない。その癖、隠し刀の太刀筋が観たいだのなんだの言いながら道場までついてくる。佐那は龍馬と手合わせできないのであれば、二人が戦う様を観たいと譲歩してくれるというのが一連の流れだ。
ややこしくも煩わしいが、実際のところ隠し刀としても龍馬に年貢を納めてもらっては困る立場である。佐那には口が裂けても内情を漏らすことはできない。あるいはひょっとすると賢い彼女は何かに気づいて、自分たち二人を手合わせさせたがっているのかもしれなかった。僅かながらの良心の痛みから、ついで楽しみもあって龍馬と手合わせをする。夢中になるうちに死に物狂いの一歩手前まできて、ああもう今日は無理だと二人して大の字になるのだ。いい加減己らの体力を鑑みよ、と記憶の中の研師が叱責する。
「今日もしょうまっことやりきったのう」
「やりすぎだ」
のんびりと言う龍馬の顔は、夕空よりも澄み渡って穏やかである。満足しきったと書かれた表情に、先ほどの手合わせでの張り詰めた様子は少しも伺えない。
「短銃は使わんかったき、手加減はできちょろうが」
「道場で持ち出すものではないだろう」
誰ぞに当たりでもしたらば事だ。冗談とわかりつつも真面目に反論すると、龍馬がにししっとだらしのない笑い声をあげた。余裕があって何よりである。まともに取り合うだけ骨折り損だ。
麦酒を飲んで、帰りがけに湯屋に寄ろう。否、逆の順序の方がほろ酔いを楽しめるかもしれない。などと今夜の算段をつけていると、ふわりと良い香りが漂って隠し刀は足を止めた。
「どうしたかえ?」
「少し待ってくれ」
香りの元を辿るべく鼻を動かせれば、すわ剣呑な事態かと龍馬が身を強張らせる。香りは聊か複雑なようだ。マシュー・ペリーが昔贈ってくれた上物のウヰスキーにも似た甘み、苦み、海、鉄錆、最後に香るのは少々の埃っぽさと油っけ、到底良い取り合わせには思われないのだが、混じり合った結果はなんとも興味深い。
「んー」
香りを探って一歩踏み出す。と、にわかに香りが強くなり、隠し刀は迷わず根源に顔を突っ込んだ。
「わ!おまん、何するがよ!」
「少し黙ってくれ」
狙い違わず、香りの元は大胆に開いた龍馬の胸元であった。もじゃもじゃと生えた体毛がくすぐったい。うろたえる龍馬を他所に首筋や背中も確認し、間違いないと隠し刀はうなずいた。
「……お前、良い匂いだな。美味しそうだ」
「それは本気の目じゃな。やめえ!儂は食べ物ではないぜよ」
「舐めても良いか?」
これだけ良い匂いがするのだ、食べたらば文句なく咀嚼できる自信がある。されども龍馬の抗議はもっともで、見るからに慌てた男はああだのううんだの言って顔を真っ赤に死、とうとう絞り出すようにして打開策を提案した。
「わかった!こいはきっところんぜよ」
「ころん?」
「西洋じゃあ、身だしなみとして香りをつけゆう。横濱にいた頃、商人から買うたがじゃ。帰ったらおまんにも分けてやるき、今は勘弁せえ」
「ふむ」
香りをつけた、というのであれば一理ある。鰻のかば焼きの美味しさは、何よりタレの匂いに負うところが大きい。
「つまり、お前は鰻だな」
「なんの話じゃ!」
わいのわいのとやり合いながら、どうにも腹が減って仕方がない。江戸は名物、鰻のかば焼き、これを食べぬ手はないだろう。龍馬の腕を引っ張ると、隠し刀は勝海舟に紹介された名店へと誘った。
***
散々な目に遭ってしまった。湯屋に行くのをさぼり、ころん任せで乗り切ろうとした矢先にすんすん匂いを嗅がれる羽目になるとは、故郷で乙女姉さんが龍馬の不衛生さを怒っているのかもしれない。
生業柄、匂いに敏感な隠し刀の判断は信頼がおける。いつぞや、うっすらとしか漂わない火薬の匂いから、蔵に潜む敵を文字通り嗅ぎ当てた手腕は見事なものだった。美味しいかどうかはさておき、悪い意味でとらえられなかっただけ不幸中の幸だろうか。
鰻屋でも鰻と自分とを交互に嗅がれて閉口し、珍しくも湯屋に直行しての帰宅と相成った。湯屋の後では気にならなかったのか、何も言われなかったのでやはり、と心持沈んだのは秘事である。
「昨夜話したころんちゅうんは、こいじゃ。これからは、儂を嗅がんでええろう」
「ありがとう」
早速翌日、目当てのものを探していそいそと長屋に向かう己の姿を、龍馬は我ながら滑稽だと苦笑した。早起きの隠し刀は驚きもせずに迎えると、小瓶を受け取り破顔する。初めて見る表情で、また一つ人間味を増した相手に龍馬は胸がきゅんとした。
隠し刀は慎重な手つきで小瓶の蓋を取り、はたはたと手で煽って香りを浅く、ついで深く吸い込む。まるで毒物を扱うかのようだ。胸が大きく膨らみ、ゆるゆるとしぼむ。さて正解かどうか。常にない緊張と共に待つ時間は、恐らく数秒のことだろうが、数時間は過ごしたように感じられる。どうだ、どうだ―
「違う。これではない」
「なんじゃと?」
にべもなく否定するなり、隠し刀は瓶の蓋を閉めてこちらに襲い掛かって来た。完全な不意打ちになすすべもなく、再び昨日の醜態が繰り返される。胸元で深く息を吸われ、吐かれる。何が起きるかわかっているだけに、昨日以上に恥ずかしかった。恐らく自分の顔は耳まで真っ赤に染まっていよう。
頼むから、今は誰もこの長屋を訊ねないでほしい。仲の良さを見せつけるのは大歓迎であっても、これは話が別だ。格段の羞恥心を味わう拷問を経て、隠し刀はようやっと顔を上げた。
「わかったぞ、龍馬。やはりお前が美味しそうだ」
「……頼むき、もっと説明してくれ」
「承った」
さて専門家の説明によると、隠し刀が『美味しい』と感じる匂いの元は二つから成り立っている。一つはころん、ウヰスキーにも似た酩酊感は良いと気に入った風であった。今一つは、よりにもよって―
「龍馬。お前の汗だ」
「な」
なんちゅうことを言いゆうが!もはや悲鳴に似た叫びは、声にさえならなかった。ぶわっと体が熱を持つ。途端隠し刀が機は今とばかりにとびかかって、またぞろすうはあしてくるのだから、たまったものではない。一体何が悪かったのか。己が美味しいばかりにか?
「諦めろ。美味しいのはお前だけだ」
「おんし、ほりゃあ殺し文句ろう」
自分の完敗だった。全身から力を抜くと、もう相手の好きにさせるに任せる。ついで、龍馬は相手の匂いをすんすんと嗅いだ。普段こねくり回してる薬の匂い、丁子油のほんのりとした甘く上品な香り、それにその先には、と踏み入って相手の気持ちに得心が行く。
確かにこれは美味しそうだ。深く息を吸うと、龍馬は恥も外聞もなく相手の肩口に顔を埋めた。
〆.