輪違 めでたい話である。人と人が縁付き、新しい家門を形成し、将来の繁栄を子子孫孫まで伝えようとする。家族ができる、人生を共に歩む相手ができる、それだけでも十分喜ばしい。
そんなものは、畢竟自分には縁遠いものであったのだと隠し刀は痛感していた。家を持たず、自由に生き、己なりに人と人との縁を理解し不器用に繋いできたつもりであるが、所詮は枠外の存在である。
「おめでとう」
覚悟を決めるために口中で台詞を反芻しながら、長屋で一人、祝儀の品を作る。人生で初めて作るものが、一番の友人のためとは幸運だろう。自分がまた一つ、人らしくなった証だ——この胸をじくじくと痛ませるくだらない想いも含めて。
何もかも気づくのが遅く、全て手遅れだった。誰も悪くはない、強いていうならば己の不始末と言える。鮮やかな楓が染め抜かれた風呂敷の中に、秘蔵の葉巻をたっぷり詰め込み、仕入れたばかりのウヰスキーボンボンなる菓子を添えたところで、隠し刀は深々とため息をついた。どれほど作業が進もうとも、頭の中は遅々として回らない。数日前に勝海舟邸を訪れた時から、自分の時間は止まったままだった。
「福沢に用事か?あいつなら、ここんところは忙しくってな。ちょいと暇を出したんだよ」
勝海舟邸に入った隠し刀に、邸の主人は開口一番にこちらの真意を見抜いた。勝との付き合いはそう長くはないが、人間観察に優れた幕府の重鎮には容易に想像されたらしい。
「忙しい?留学から帰ったばかりだろう。寧ろ、帰国後の仕事はこちらで行うと思っていたが」
「人間、仕事ばかりが人生じゃないってね。何、あいつも年貢の納め時って奴だ。奴さん、とうとう祝言をあげるんだよ。年齢も年齢だ、おまけに留学もして前途洋々、国許が放っておく道理も無ぇからな。留学して早々始まった話だ、お前さんが知らないのも当たり前よ」
「祝言」
言葉の意味を把握するまでしばしかかり、ついで勝が続けた由来がどうだの相手がどうだの、といった話を咀嚼するまで相当に長い時間を要した。普段から表情も口数も少ない人間であったから良いものの、そうでなければ途方に暮れた様子がバレてしまったことだろう。頭が真っ白になった証拠に、どう返事をして帰宅したかも覚えていない。
福沢諭吉との交誼は、片割れを探す過程で偶然始まったものだった。飯塚伊賀七を介した向こう見ずな冒険や、諭吉たっての願いで黒船に侵入し『拝借』をするなど、尋常ならざる出来事を重ねたのは全くもって数奇な運命である。ウヰスキーでしこたま酔い、裸脱ぎになった諭吉を屋根に放り投げたのも、道場で散々居合の犠牲になったのも良い思い出だ。
ただの友情とは言い難い。正気の沙汰ではないことに骨を折り、相身互いに夢を語って心配する。夢と呼べるものは隠し刀にさしてなかったものの、西洋を目指し国を大きく発展させようという諭吉の夢は輝かしく、可能な限り後押ししたいと願ったのは確かである。
諭吉は限りなく親友というよりも——家族に近い存在であった。恐らく相手にとってもそうではないか、と感じられたこともしばしばある。念のために付け加えると、薄雲太夫で鍛えられたため、ちょっとした優しさを勘違いして育てた想いではない。
迫りくる懐かしさに負けて、ささやかな宝物を入れた文箱を押入れから取り出す。楓が散る千代紙が貼られた文箱は、いつぞや振り売りが持ってきて気に入ったものだった。しまいこんだ時間を思い出しながら蓋に手をかけるも、手が強張っていっかな開くことができない。人の首も平気でひねり上げるこの隠し刀が!文箱は猫よりも軽いというのに、鋼のようにずっしりと重たい。この重さは己の過失に対する罰だ。
「おめでとう」
自分を殺すために呟き、一呼吸して蓋を開ける。最初に目を奪うのは、朱色の可愛らしい胸飾りだ。小さな楓がより集まった細工物は、諭吉と二人で横浜の骨董通りで見つけたのだった。西洋では胸元に飾るんですよ、という彼の服装には合わないという理由で、何故だか隠し刀に贈ってくれたのである。あの時、諭吉はなんと言っていた?
「前々から、あなたに家紋をお渡ししたいと考えていたんです。ほら、あなたは僕の家紋を気に入っているでしょう?これは家紋の代わりというわけではありませんが、僕の気持ちです」
自分はといえば、ろくろく己の心もわからず頷くのみだった。思い返せば、舞い上がっていたのではないかと推察される。家紋、それはこの国の人間にとっては一種の家族の証だ。一定の身分を持つものは、一族郎党の証として小さな小さな意匠に願いを込める。
諭吉の家紋は、ただただ彼の好みだけで作られたもので、好きという以上は何もない。だからこそ、家という存在を持たぬ隠し刀にとって、彼の発言は大層魅力的に響いた。周囲の人間は元々の家紋を持つ者ばかりだ。諭吉が家紋を譲れるとすれば、確かに自分くらいなものだろう。誰よりも親しい友人!家族となりうる人!そんな相手は初めてだった。
ブローチの下にしまった紙束は、ほんの少し触れただけで開く勇気がわかなかった。あるものは黄ばみ、あるものは濡れた痕を残した紙は、海を渡って以降に諭吉が送ってくれた数々の手紙だ。生真面目で筆まめな人らしく、見知らぬ土地の文物や人のこと、勝を含めた仲間たちとのふざけたやりとりが綴られている。表現豊かで軽妙洒脱な文章が彼の人となりを滲ませて、まるで目の前で語っているかのようだった。
何度も何度も読み返したために擦れた紙は、今でも触れただけで内容をありありと思い出すことができる。
『あなたにも、この開けた国を観てもらいたいと切に願います』
伊賀七を経由し、遥か過去からの声を受け取って、どれほど嬉しかっただろう。諭吉の留学が決定しても実感がわかず、いざ別れるとなって初めて抱いた心の穴が叫んだのは、彼に会いたいという一事だった。日が経つにつれて、再会したらば話を聞きたい、話でなくとも声が聞きたい、聞けずともその顔を見たいという風に欲望はこんこんと湧き出でて、とうとう一つの形を成した。
縁は、円である。手と手を取って離れずに、完璧で無限を描くもの、そうあれかしと隠し刀は願った。友人や家族もどきでは生ぬるいとようやっと理解し、己の愚かさを呪う。全てを取り戻そう。円は、また描けば良い。
だが現実は全て手遅れで、最初から自分が枠外の存在であったことを自覚させるばかりだった。もし、もっと早くに諭吉への想いに気づけていたらば、今日は違った姿をしていたろうか。伝えたらば、彼は今度こそ家紋を譲ってくれたかもしれない。そうして自分は丸く描いた幸せに包まれて、満足しきっていられたか?
「おめでとう」
ありもしない未来を全部手折って、文箱をしまう。開けることは二度とないだろう。祝儀の品を再度確認し、隠し刀は風呂敷の端を丁寧に結んだ。
***
忙しい日だった。否、忙しさは間断なく続いている。慶事は半ば他人事、面倒くさい儀式や手続きで奔走しなければならない諭吉はここのところ、毎日が半ば無駄なように感じられていた。世間の人は、一体どうして手間をかけたがるのだろう?全く理解できそうにない。
唯一の救いは己の妻が、やや四角四面ながらも(追々お互い折り合っていけるだろう)気立てが良く、家族を成す喜びが家で待ってくれていることである。夫婦仲で揉めている同輩たちと異なり、自分は運が良い方だとしみじみ感じられる事実だった。
本当ならば、今頃は留学で得たものを報告書の形にまとめて、一刻も早く幕府の改正や民間の教育に身を入れたいところである。勢い付いて帰国しただけに、ある程度予定と予想があったとはいえ、祝言に関わるもろもろの雑務は煩わしくてならなかった。
故に、ご友人が来訪されましたよ、と妻が呼びに来た際にはまたぞろ面倒かと眉間に皺を寄せて出迎えてしまったのも道理だろう。無愛想この上ない。案の定、客は諭吉の顔に『早く帰ってくれ』と書かれているのを読み取って、いささか面食らった様子であった。
「ああ、あなたでしたか。お久しぶりですね」
相手を確かめて慌てて相好を崩すと、古なじみである隠し刀は唇の端を上げた。どうやら機嫌は良いらしい。少しやつれたろうか。互いに忙しい身の上であるため、帰国して以降じっくり話を聞く機会がなかったことに、諭吉は今になってようやく気が付いた。横浜では頻繁に会っていたというのに、たった一年で世界はなんと変わってしまったことだろう。
懐かしさで胸がいっぱいになっていると、隠し刀はそっと抱えていた風呂敷包みを手渡した。ふわ、と中から甘く苦い香りが漂う。自分が好きなものを察知し、諭吉は益々頬を緩めた。
「色々準備をしていたらば、遅くなってしまった。……おめでとう、諭吉」
「ありがとうございます。あなたに祝っていただけるなんて、僕は幸せですね」
どうやら彼の目的は、他の客同様に自分を祝うことであるらしかった。恐らくは勝から聞いたのだろう。所在を知らないとはいえ、どうせならば己で直接伝えて祝ってもらいたかった、などと図々しい考えが頭をよぎって諭吉は苦笑した。
隠し刀は、人でなしである。実際、初対面の時点では全く人らしさを備えていなかった。常識はずれで、ただ真っすぐに目的だけで生きている人に対し、当初抱いたのは当惑と憐憫だった。そう長く関係はすまい。果せるかな、合縁奇縁というもので、どういうわけだか周囲の人々も巻き込んで二人の仲は続いていた。段々と人らしさを増してゆく隠し刀の姿に目を奪われ、いつしか和を結ぶに至ったのは自然な流れだろう。
あの頃、自分は純粋に楽しく、目指したいものだけにまい進できた。今も同じ気持ちではあるものの、戻るべき港を得た身分では無鉄砲も無責任も頂けない。いつまでも独り身の風来坊ではいられやしないのだ。
だからこそ、自由の象徴である隠し刀からの祝いは殊更に身に染みた。もうあの頃の自分ではない――あり得たかもしれない自分の未来の一つを、辿るだろう他人を間近で見られるのは幸運である。
あれこれ思うも、なかなか言葉がまとまらない。そうこうするうちに隠し刀は、忙しいだろうからまたの機会に、と相変わらず訥々とした物言いを残して風のように消え去った。
「今度はいつ会えるでしょうね」
何を話そうか、と思うだけで心が浮足立つ。楓の柄が美しい風呂敷包みを胸に抱いて、諭吉は自室に引き下がった。問題がなければ、後で妻にも披露しよう。隠し刀は少々物騒だが、きっと彼女も気に入ってくれるに違いない。
隠し刀と結んだ和は、これから先も続くだろう。その輪をぐるぐると渦巻かせて描く年輪を想像し、諭吉は束の間の休息を楽しんだ。
〆.