熱くて甘い 二月も半ば過ぎれば春遠からじ、と口ずさんでみたくもなる。暦の上では翌月は春だ。桜も段々と蕾が膨らみ、学び舎では去る者来る者が民族移動の如く入れ替わる。しかし、自然は人間が作り出した線引きなど意に介さない。ぴゅう、と一段と強く吹き付けた寒風に骨を震わせると、福沢諭吉は未だ冬が君臨していることを痛感した。
つい昨日までは、常夏を思わせる温かな国にいたためか、毎年慣れていることだろうに今年は一段と寒いなどと思ってしまう。今回の出張は学会ではなく、シンガポールに新設した分校の開会式に出席するよう依頼を受けてのものだった。大学は入学試験の真っただ中で講義はなく、青息吐息で卒業論文に取り組む在校生たちに二日三日は休みを与えても良いだろうとのありがたいお言葉である。
公式に他人の費用で旅行をするようなものだ。あれこれ人と社交をしたり、饗応を受けるのは面倒だったが、異国の風土を感じることは好きなので帳消しになる。ここまでは良い。だが、遠方の出張であれば伴えるはずのアシスタントは同行不可能、というのが残念でならなかった。大人げないと解りつつも、アシスタント兼同棲する恋人でもある隠し刀に嘆いたらば、くっ、と小さく笑われたものである。
「気に入ったなら、今度の休みに出掛ければ良い」
他人のスケジュールに振り回されないで済むぞ、と悪魔のささやきを付け加える隠し刀はどこまでも余裕の構えを崩さず、これまた口惜しい。
「たっぷり遊んで、あなたに観光案内してさしあげますよ」
「それは楽しみだ。会えない間、お前が旅をする様子を想像して過ごそう」
少し寂しげな相手の言葉に、諭吉ははたと冷静さを取り戻して表情を和らげた。どうしようもないことに駄々をこねこそしないものの、相手も残念に思っているならばそれで十分だ。寧ろ、離れているからこその楽しみも生まれるかもしれない。
互いに優しく折り合って、出かけて戻るまでは本当に一瞬のことだった。出かける前にあんなにももだもだとしたくだらぬ遣り取りをしたのは茶番である。南国の太陽は熱く、人は忙しなく、蟹を中心とした魚介は美味で、アジアの東西が混じり合った文化は興味深い。分刻みで立てられたスケジュールは奇跡的に滞りなく終わり、諭吉は自分がベルトコンベアに乗っていたのではないかと首を傾げるほどに完璧な仕立てだった。一部に自分の恋人が噛んでいるのは間違いあるまい。半ば敗北した気分で、隠し刀に土産のマーライオン柄のTシャツを渡せば大変喜ばれた。この男は着飾ればそれなりに耳目を集めるだろうに、全くの無頓着なのである。早速昨夜から着始めた恋人を、諭吉は己の失敗で顔をしかめて眺めた。
さて、そんな非日常の数日間を終えての出勤は緩やかに始まった。事務作業をこなすために一足先に出た隠し刀を見送り、諭吉はゼミ生に伝えた通りの時間に出勤した。今年は入学試験の担当から外れているため、ゼミ生の面倒だけで良いからである。諭吉のゼミの学生たちは熱心だが、早朝から押し寄せてこようという輩は幸いにしていない。ならば、下手に刺激をしないようゆるりと顔を出すに限る。ある種、時間に縛られない職業の特権と言えるだろう。
「おはようございます」
「おはよう、諭吉」
研究室の扉を開けば、出迎える恋人の声と共に、甘い香りがなだれ込む。おや、と変化に気づき、諭吉は上着を脱ぎながら考えを整理した。常であれば、隠し刀が入れるのはコーヒーだ。それもハワイのコナコーヒーがお好みとかで、酸味よりも甘みを強く感じられる種類を選ぶ。
しかし、今日に至っては完全に『甘い』。どうしたことかと考えながら、無意識に定位置に座ると、目の前に答えが提示された。
「ココアですか。珍しいですね」
「今日は寒いからな。コーヒーの方が良かったか?」
「いえ、いただきます。嬉しいな、さっきは本当に風が強くて!校門からここまでがひどく遠く感じられましたよ」
おまけに光熱費をケチっているため、廊下は冷え切っている。先に人が入って準備をしてくれるありがたさを、諭吉はしみじみと感じ入りつつココアを口にした。香りは甘さだけを感じていたが、口に含めば苦みや、みずみずしいフルーツを思わせる爽やかさが踊り出す。意外にも甘さは控えめだった。体を温める飲み物は南国と無縁のはずが、何故だか昨日まで訪れていた遠方を思い出させた。
「美味しいです。もっと甘ったるいものかと思っていましたが、繊細な味わいなんですね」
「べた褒めだな。作った甲斐がある」
「……ひょっとして、既製品ではないのですか?まさか」
器用だとは知っていたが、まさか手軽に作れるココアを手作りしたというのか。唖然として返せば、隠し刀は我が意を得たりと深く頷いた。
「日はずれたんだが、その……恋人らしいことをしたいと思ったんだ」
「あ」
照れた視線の行き着く先、壁に掛けられたカレンダーに目をやって諭吉はようやく答えに辿り着いた。ヴァレンタイン・デー。自分が南国に出掛けていた間、この国は今年も愛を語らっていたらしい。異国から伝えられた祭事は、日本の商魂たくましい人々の手によってチョコレートの催事へと変化している。右も左もチョコレートで埋まり、我先にと買い求めて配る人々でひしめき合う熱狂の日だ。まさか伝えた先が混沌に満ちる羽目になるとは、異国の人々も想像だにしなかっただろう。南国でも一応行われたのだろうが、さしたる賑わいではなかったので、諭吉は完全に看過していた。
「すみません、恋人と過ごすのは初めてでしたから。恥ずかしいな……ああもう!来月は覚悟してくださいね」
「心しておく」
にやりと笑った隠し刀は、ティッシュを一枚取って躊躇わずに諭吉の口元をぬぐった。どうやらこぼしていたらしい。
「軽食にクッキーもあるぞ。食べるか?たくさん作ったんだ」
「いただきます」
流れるように受け取りながらも、諭吉の頭はまたもや疑念に渦巻いていた。ココアの件は解決した。が、お茶請けを大量に作る意図は何だろう?この時期に大学で隠し刀の周囲にいるのは職員か、はたまたゼミ生たちである。労いの意味で作るにしては、必ず出そろうわけでなし、無駄が出ることを考慮すれば出来合いのものが望ましい。
出された皿に乗った焼き立てらしいクッキーはまだほかほかと湯気を上げていて、柔らかい。つまり、今日他人に与えるために厨房を使ってまで用意したのだ。そんな風に隠し刀が他人に心を砕くからには、何かのっぴきならぬ事情があるに違いない。寧ろ、ついつい羨んでしまう自分自身を納得させるためにも、そうであってほしかった。まだ、今抱くのは嫉妬ではない。もう十分すぎるほど受けているにも拘らず、彼に情をかけてほしいと子供のような羨望を抱いている、ただそれだけだ。
「学生から、大学関係者に金銭や物品を渡してはいけない規則があるだろう。それでも、忘れたり事情があったりで渡そうとする人間はいる」
「そんな話もありましたね」
論文の締め切りを伸ばしてほしい、単位を落とさぬよう考慮してほしい、あるいは本気で好意を告げようとするなど理由は枚挙にいとまがない。たかだか菓子一つで揺らぐと思ったらば大間違いなのだが、頼む方は必死で、藁にも縋る思いで迫ってくる。故に、諭吉は毎年この時期だけはできるだけ出勤しないで済むように調整していたのだった。断ると心に決めていても、断ること自体は気分が良くない。態度で示して、相手が解ってくれればそれが一番だった。
「大丈夫だ、全員断っておいた。ただ、しこりが残るかもしれないから、今日はクッキーを焼く日だと伝えたんだ。そうすれば、繋がりは残るだろう?」
既製品にしない理由は、金銭の価値をつけられないようにするためだ。なるほど随分考え抜かれている。規則通りに従いはするが、望めば関係性は維持できるのだと相手に逃げを与えるのは上手い手と言える。この手の根回しの類が面倒、もとい無駄としか感じられずに放置していた諭吉ではやろうとも思わぬ対抗手段だった。
「諭吉は人気だと知っていたが、それでも多かったな」
さらりと続けられた一言に甘い期待を抱き、諭吉は黙ってクッキーを齧った。コーヒーが練り込まれた生地は、一見チョコレートに似ているが、そのほろ苦い味わいで現実を突きつける。もう一枚はココナッツミルクが仕込まれているらしく、二つを交互に食べると丁度いい塩梅だった。
「恋人が人気なのは誇らしいはずなのに、正直なところあまり面白くなくて……諭吉があの場に居なくて良かったと思ったんだ。私はおかしいのかもしれないな」
「僕は嬉しいですよ」
淡々とした恋人が、独占欲をむき出しにするのは珍しい。相手だけではないことを示すべく、諭吉はちらりと流し目をくれてやった。
「第一、あなただって人からもらっているのではありませんか?」
「事務職員の誼だ」
「いくつです」
「五……いや、九だったか?今年は教授たちからももらったな」
絶句である。職員同士の物品のやりとりは禁じられていない。故に、完全に自由であるゆえに断りにくい。面倒見がよく、あちこちで他の職員を助けていることは知っていたが、想像以上に守備範囲は広いようだった。
「恋人がいることは公言しているから、お歳暮代わりだろう。そちらには同じ金額のものを贈るようにしている」
「あなたって人は、つくづくひどい」
そこまで気に掛けられて、うっかり一縷の望みを抱く人間が出やしないだろうか。断ることができる相手には断っているらしい抜け目のなさも恐ろしい。
「……やっぱり、誇らしくなんて思えませんよ。どうせあなたのことだ、律儀に食べるんでしょう」
「ああ、昔は一人だったからな。今は伊藤たちに分けている」
仲良くつるむ友人連中の中に、甘いもの好きが幾人かいるらしい。彼らは彼らで他人からもらうことも多いだろうに、小躍りしながら食べるというのだ。
「甘いのは良いが、食べ過ぎるのは体に毒だ」
「僕が言いたいのは、そういうことではないんですよ。解って言っているでしょう」
「そうかもしれないな」
来月を楽しみにしている、と片目を瞑って去る恋人は、どこからどう見ても遊び慣れていた。人付き合いでは数段上の手練手管に歯噛みしつつ、ままならなさを抱いてクッキーを齧る。
冷えたクッキーが、ばきりと大きな音を立てて折れた。
〆