ルル、スノボを始める とうとうこの年最初の雪が降った。
夕方からちらちらと白いものが混じるようになったと思ったら、翌朝には辺り一面が真っ白だ。庭のベンチもトレーニングをした芝生もみんな雪に覆われている。
「あれ、なに!?」
「雪だよ。そうか、ルルは初めて見るのか」
初めて見る雪にルルは興味津々だった。
「雪だるま、作れないかな!?」
スミスですら興奮気味である。雪を見るのが初めてというわけでもない、ましてや雪ではしゃぐような年でもなかろうにスミスは子供のようにワクワクしていた。そんな二人の様子にイサミは笑いを禁じ得ない。
「このくらいの雪じゃ、雪だるまはまだ無理だ。それはもう少し後だな」
こんな風にうっすらと積もる程度の雪ではすぐに溶けてしまう。こんな雪があと何回か繰り返され、やがてこの辺りは溶けることのない雪で一面真っ白に覆われる。イサミが子供の頃から繰り返されてきた光景だ。楽しいだけじゃなく、家の雪下ろしなど苦労も多い雪国の冬。けれど今年は今までの冬とは違う。そんな予感がイサミの胸にふつふつと湧いてくるのだった。
「ルル!もう行かないと遅れるぞ!」
玄関先で珍しそうに冷たい雪のかけらを触っていたルルはそうスミスに声を掛けられると名残惜しそうに立ち上がった。
「もう朝夕は冷えるからもう一枚着せた方がいい」
イサミの忠告に従ってルルに上着を着せ、マフラーを巻いた。少し長過ぎるマフラーをぐるぐる巻いたルルは、雪だるまのようにまんまるだった。イサミに手を振って二人を乗せた車は山を下って行った。
同じように着膨れてまんまるになった園児たちの中にルルを預けると、スミスは早速仕事に向かった。スキー場開きも間近に控えてスミスの仕事はますます忙しくなってきた。地元との密着型リゾートを目指しているとはいえやはりこの地での一番の売りは雪だ。そのためにスミスはあちこち奔走していた。
商店街の駅に近いあたりにある川田不動産の扉を開ける。既に中はストーブがついていて暖かそうだった。
「うちの田んぼを冬の間貸してほしい?あんな何にもないところどうするんだ?」
川田は不動産屋のデスクの前で呆れたようにそう声を上げた
「雪が積もったらそこで雪合戦のリーグ戦を開きたいんです。川田さんのところは一度にコートを何面も取れて大勢の人が集まれる。それにインターからも近くて駐車場があるのもいい」
「雪合戦なんて子供の遊びだろ?そんなもの外国から来てわざわざやりたい奴なんていんのか?」
「スキーは一度も雪に触れたことのない国の人にとっては少々ハードルが高いんです。雪合戦なら靴と手袋さえあれば誰でもやれるし、大人も子供も一緒に楽しめる」
スミスの日本語はまだまだ辿々しい。けれどその熱意ある説得に川田も押され気味だった。どうせ冬の間は手を入れられない土地だ。
「まぁ、よくわからんが、やりたいならやってみればいい。土地を貸すのは構わん。で、その間の賃料だが……」
そういうところは川田も抜け目がない。それから賃料の交渉をして、川田が契約書を作っている間に、スミスは出されたお茶を一気に飲み干し、立ち上がっていた。
「慌ただしい奴だな。もう行くのか」
「はい、すみません。この後はスキー場のオーナーのところにご挨拶に伺うので」
この市内だけでも小さなスキー場がいくつもある。ジャパネスクでラグジュアリーな高級リゾート体験はすでに多くの会社が取り組んでいるからこそ、そうでないところにビジネスチャンスを見出したいとスミスは考えていた。
「そろそろ山道は凍結するからな。気をつけろよ」
「はい!ありがとうゴザイマス!」
そう言ってスミスを送り出す川田は随分変わった。最初はあんなに目の敵にしていたのに。ルルがすっかり川田に懐いたのをきっかけに川田はルルを孫のように可愛がっている。必然的にその父親であるスミスはちょっと気に食わない娘婿の位置に収まった。
ルルが大喜びした雪も午後にはすっかり消えていたけれど、 黒いアスファルトの上にはキラキラと氷の粒子が光っている。目立たないが一番スリップしやすい危険な道路だ。スタッドレスに履き変えたスミスの赤いハイトワゴンは慎重に山道を進んで行った。
それから何度か雪は降り、溶け、それを繰り返すうちに庭に積もった雪はルルの背丈より高くなった。雪だるまを作った数も数えきれず、ルルはすっかり雪だるま職人になっていた。
そしてとうとう地元のスキー場がオープンした。リフト四機だけのこじんまりとしたスキー場は、地元の小中学生たちが必ずスキー教室に通う地元民にはなじみの深いスキー場だ。
今日はそこにスミスとルル、そしてイサミの姿があった。いよいよルルのゲレンデデビューである。
「今日はよろしくねー、ルルちゃん!」
そう言ってヒラヒラと手を振るのはヒビキだ。
「なんでお前まで来てんだよ。俺が声かけたのはヒロなんだが」
「いいじゃん、スーパー休みなんだ。久しぶりにイサミと滑りたかったし」
そういうヒビキはこの辺りでは有名なプロ顔負けのスノーボーダーで、あと二歳若ければオリンピックに出たのにな〜が口癖だ。
「それにみんなで滑った方が楽しいだろ!bro!」
陽気なヒロは山の家にもよく遊びに来ている。ルルもすっかり仲良しだった。子供用ゲレンデにスミスとルル、イサミ、ヒビキとヒロが揃った。
「ヒロとみんな!ヒロもfamily?」
「?違うよ?俺はルルのfriendだ!ルルのfamilyはスミスだろ?」
「違う!イサミもfamily!」
まだルルの家族報告ブームは続いているようだった。
さて、夏の間はずっとプラプラしていてしていたヒロもボードウェアを身につけるとすっかり頼もしい先生の顔になっていた。ヒロがレッスンしてくれるというので、まずはスノーボードからチャレンジさせることにした。
「悪いな。俺はスキーしか教えられなくて」
「いや、むしろプロにお願い出来たんだからノープロブレムだ!」
そんな話をしている大人二人はスキーを履いている。どちらも今どきには珍しくスノーボードの経験はほとんど無かった。
ルルは初めての雪山を前に目を輝かせていた。まず目に入る全てが真っ白だ。白くて冷たい雪はずいぶん庭でも遊んで大好きになったが、それがこんなにたくさんあるのを見るのは初めてだった。そこで雪煙を上げて滑る人たちがみんな楽しそうだ。
「まずは雪に慣れるとこからだ!」
そう言ってヒロがまずは板を履かずに雪の上に座り込み、ルルにも同じようにして、と促した。ルルが隣に座るとヒロは「見てて」と言ってゴロン、と後ろに転がった。
「転んでも雪があるから痛くないよ。ルルも出来るかな?」
「ルル、出来る!」
コロン、と雪の上に転がる。
「ルルちゃん…かんわいいーーー!」
ヒビキはずっとスマホを構えて写真を撮っている。隣ではもちろんスミスが動画を回していた。みんなだらしなく口元が緩んでいる。
「よし!じゃあ次は板に乗ってみようか。最初はスピードが出て怖いかもしれないけど今みたいにコロンってなれば大丈夫だからね。コロン、出来るかな?」
「うん!」
ヒロもなかなか子供の扱いが上手い。普段は主に英語しか話せない子供たちを教えているが、ヒロの教え方が上手いと口コミが広がり、海外からわざわざスクールの予約をしてくる観光客もいるほどだった。
「もう板を履くの?早過ぎないかな?大丈夫?」
横で見ているスミスの方が心配そうだ。
「子供は重心が低いから大人ほど転ばないんだ。それにルルは雪を怖がらないから大丈夫。最初はこの子供ゲレンデだけでやってみるよ」
大人の心配などよそにルルは初めから上手に板を乗りこなした。小さな板の上にちょこん、としゃがんで滑る様がまた可愛い。もちろん大人たちのスマホとカメラはフル稼働である。
「ルル、すごい!最初からこんなに滑れるなんて!」
「確かに…運動神経のいい子だと思ってたけど、天才かもな」
「あんたたち……」
スミスとイサミが動画を撮りながら大真面目な顔で話しているのをヒビキは聞いてしまい、思わず吹き出してしまった。
「スミスはともかく、イサミまで!ほんと、親バカだねぇ」
「悪いかよ?」
「いいんじゃない?イサミもいよいよ親らしくなってきたね」
そう言われてイサミは返事に窮した。ルルの親になろうというつもりはない。けれど家族なのだ。ルルが成長すれば自分も嬉しい、ただそれだけのことだった。
何往復がしているうちに徐々に慣れたルルが、三人の前に滑り込んで来た。
「そうそう!腰を落としてぎゅっと足を踏ん張って!そうすれば止まれるよ!」
ぎゅ、ぎゅ、と声に出しながらルルは踏ん張ってぴたり、とスミスたちの前で止まった。綺麗に撮影画面に収まる。
「上手いね!最初から止まれる子はなかなかいないよ。それにフォームがいい」
ヒロが褒めそやすものだから、ルルも得意げである。
「これ、おすもうと同じ!ルル、いつもやってる!」
確かに足を開いて重心を落とす形は相撲と似ている。大人たちとよく庭で相撲の練習をしているのが役に立った。
「次はリフト乗ってみようか?高いところに行くけどやり方は同じだからね。高いところは平気?」
「うん!ルル、高いところ好き!」
毎日庭の木に登って飛び降りていたのだ、高いところが苦手なわけがない。それにさっきからゲレンデの上をゆっくり行き交うあの乗り物にルルは早く乗って見たくて仕方なかった。
「頼もしいな。じゃあ、みんなで行こうか」
ヒロの提案でその日初めてのリフトに乗ることになった。ルルのサポートをするために先にヒビキが乗り、続いてヒロとルル、スミスとイサミはそれを追いかける形でリフトに乗った。ふわり、と浮き上がったリフトに喜んでルルはきゃあきゃあと声を上げている。
「それよりお前は大丈夫なのか?」
リフトに乗りながらイサミはスミスに尋ねた。
「まあ一応。アメリカにいる時に何度かはやったことがあるよ。イサミは上手いの?」
「それほど…。けど、県内の子供は大体授業でやるからな」
冬の体育にはスキーがあり、それとは別に特別授業として林間学校が開催されることもある。運動が好きだったイサミは毎年参加していた。
リフトの降り場はまだスキー場の中腹ではあったが雄大なアルプスの山並みと麓の町が一望出来た。そこにはルルの通う保育園やイサミの花屋、ヒビキのスーパーがある。反対側の山を登った中腹あたりがイサミたちの家のあるあたりだろう。こうやって見ると深い山々に抱かれて人が住めるのは本当にわずかな土地だったけれど、そこに人々の暮らしが息づいているのがよく見えた。
「すごいね。上からだとこんな風に見えるんだ」
「ああ。お前、夏の間は来なかったのか?頂上まで行ったらもっと景色がいいよ」
雪と山と空に囲まれた見渡す限りの雄大な自然。スミスが今まで見てきた広々としたアメリカの大地やハワイの美しい海とも違う、抱かれているような優しさがこの自然の中にあった。
そんな感慨に耽っている間にルルたちは先にスタートしてしまった。ヒロに声がけされながらルルは上手に降りている。
「しまった!置いてかれる!」
「待て、スミス!カメラはしまえ、危ないぞ!」
イサミが止める前にスミスはカメラを構えたまま滑り始めてしまった。そして盛大に転ぶ。イサミはスキーの先を下に向けるとくるりと綺麗な弧を描いてターンを決め、正確にスミスの横に止まった。
「大丈夫か?撮りながら滑るのは難しいぞ」
「そうみたいだ…。撮影係はイサミに頼めるかな?」
そう言うスミスからカメラを受け取ったイサミは片手にストックをまとめ、片手にカメラを構えて滑り出した。ただし…被写体はスミスだ。
「お前…そのフォーム……」
何とか転ぶことは無いものの、スミスの上半身はガチガチに固まっていた。まるで板の上にロボットが乗っているようだ。足元はボーゲンの形に固定したまま、右に左に体重を移動して何とか曲がっているが膝が全然使えていない。
「しょ、しょうがないだろ…!スキーなんて久しぶりで…!」
滑ったことがある、と言うのは嘘では無いが学生時代に友達と遊びに行ったくらい。自分ではもう少し滑れると思っていたらしい。
何とか無事に下まで着くと、ヒビキが指を指してゲラゲラ笑っていた。
「いつまで笑ってんだ。誰だって初心者の時はあるだろ?」
「ヒィーーー!だってスミスのあのカッコ…!普段あんなシュッとしてんのにィーーー!」
一旦休憩してランチにしよう、とゲレンデ食堂に入ってもまだヒビキは笑っていた。
「いや、お恥ずかしい。スキーは学生の時以来で」
「あれでも転ばないのはすごいよな。基本体幹が強いんだよ、スミスは」
ヒロも苦笑しながらフォローを入れる。
「いや、残念ながら一度転んだよ。上の方で」
「まぁまぁ、転んだ数だけ上手くなる、ってことで」
賑やかにテーブルを囲みながらイサミが撮ったビデオを見返して、まだヒビキは笑っている。
ゲレンデの食堂にはカレーライスやラーメン、丼ものなどお決まりのゲレンデメニューしかなくて、子供が食べられそうなものはお子様カレー くらいしかなかった。ルルはカレーが好きだったから喜んでそれを食べていたけれど。
「こういう場所でこそ地元の農家が作った物を使った料理を食べてもらいたいんだけどな。そうだ、ここの支配人にも一度ご挨拶を……」
「今日は仕事の話は忘れろよ」
そうイサミに嗜められてスミスは浮かしていた腰をもう一度椅子に落ち着けた。その様子を見ていたヒビキは本当に休日の夫婦のようだと思った。
「ところでさ、ルルちゃんが言ってたの、何?家族になったの!って」
スミスが苦笑混じりに口を開く。
「ああ、あれは…。参ったよ。ルルがあっちでもこっちでも家族になったんだって言いふらすものだからさ、保育園ではミユ先生に根掘り葉掘り聞かれて……」
「へー、家族、ね。やっとイサミにも春が来たか!」
「ち、違う!そういうんじゃない!」
ニヤニヤ笑いながら視線を寄越すヒビキにイサミは慌てて否定した。
「違うのか?俺は二人はステディな仲なんだとばかり」
ヒロにまでそう言われてイサミは余計焦ってしまった。海外の人だからだろうか?同性同士であってもそう見えるのかもしれない。
「イサミの言う通りだよ、誤解だ。俺たちは何て言うのかな……。運命共同体みたいな意味での家族になったんだ」
「運命共同体ねぇ……ますます夫婦みたいじゃん」
「そうだよな?同性カップルで養子を迎えてる家族って俺の友達にもいるよ」
「そういう場合って戸籍はどうするの?」
「アメリカでは同性婚も認められてるし、二人が親権を持つって感じが一般的かな?日本ではどうなるのか知らないけど」
「うーん、どうなるんだろ?」
本人たちをそっちのけでヒビキとヒロが頭を悩ませている。だから、そういうんではないんだ!と声を上げようとしたイサミの前に、ルルが不安そうな顔で口を開いた。
「スミスとイサミとルルは家族?違うの?」
「違わないよ、ルル。口の周りにカレーがついてるよ、ちょっと拭こうか?」
「んん……。ルルとヒロは友達?ヒロとヒビキは家族?イサミは?」
「なるほど?改めて考えると難しいな?」
ヒビキは一人分かったような顔をして頷く。
「仲のいい仲間とか、仕事を一緒にするチームのこと⚪︎⚪︎ファミリーって言い方する時ってあるじゃん?そういうのとたまに喋ったり遊びに行ったりする距離感の友達って違うよね?そう考えると『家族』って単に血縁があるか無いかじゃ無いのかもね」
「ふむふむ」
ヒビキの説明にヒロはなるほど、と頷く。
「そう考えると私とヒロはよく一緒に遊んだりはするけどファミリーってほどには近くないかな?イサミも同じ。でもイサミとスミスの関係は『たまに遊ぶ』ってレベルじゃないよね?一緒に生活して子供を育ててさ。そういう意味では『家族』の方がしっくりくるかも」
「excellent!そう、俺はそういうことを言いたかったんだ!」
スミスがパァッと顔を輝かせて大きく頷いた。普段体力の方が目立つヒビキだったが、意外に聡い一面もある。同じ年でありながら時にイサミの姉のような立場になるのはそのせいだったりもする。
「でもさ、イサミはそういう解釈でいいの?一回ちゃんと考えてみたら?」
ランチの皿をセルフサービスで片付けながら、ヒビキはスミスに聞こえないよう、こっそりと耳打ちした。
「なんだよ、それ……」
イサミは眉間に皺を寄せながら入口で待つ仲間たちの元に向かった。
午後はスノボ組とスキー組で分かれて滑ることにした。と言っても小さなスキー場だ、同じゲレンデにいればお互いの姿はすぐに見つけることが出来る。
「俺もスキーの勘を取り戻してみせるぞ!イサミ先生、よろしくお願いシマス!」
「あ、ああ……」
リフトに乗りながらこのままではすぐにルルに追い抜かれてしまう!と焦るスミスの隣でイサミが少しぼんやりした顔で前を見ていた。
さっきのヒビキの言葉が頭から離れない。考えるも何も「家族になろう」と言い出したのはイサミの方なのだ。けれど、思えばそこまで深くは考えていなかったかもしれない。特に自分とスミスの関わり方については。
───運命共同体……か
ただ自分たちをただルームシェアしているだけの同居人と定義したくなかった。今の三人の暮らしをなんと表現したら良いのか?考えた結果出た言葉が『家族』だった。それは今でも間違っていたとは思わない。
「イサミ!もう着くよ!」
スミスの声で我に返る。リフトはもう終点に差し掛かっていた。
「あ、悪い…!」
イサミが慌てて立ちあがろうとしたので慎重に降りようとしていたスミスもバランスを崩してしまった。二人、塊になってリフトの降り場に転がる。係員が急いで機械を止めた。
「スミス、大丈夫か!?」
「ああ…君がクッションになってくれたお陰で…助かったよ」
冗談めかして言っているがスミスはイサミに乗り上げる形で転んでいる。重いだろうと急いで起きようとすればするほど、初心者のスミスは上手く立ち上がれない。スキーを履いた長い足がこんがらがってしまっている。イサミはスミスのスキーの位置を揃えてやり、もっと腰を足に寄せてから立ち上がるように教えた。
思ったより近くにスミスの顔があった。金色の睫毛の一本一本が見えるほどに。立ちあがろうともがくうちに上がった吐息がイサミの頬にかかる。
「ごめん、すぐに退くから……」
「大丈夫、焦らなくていい」
イサミはスミスの下敷きになりながら、なんとかスミスが体を起こせるよう下から支えてやる。相撲の稽古やいつものトレーニングでもこうやって近付くことはいくらでもあるのに。なんだか今日は妙に意識してしまう。
「sorryイサミ!」
「いや、今のは俺も悪かった」
ようやくスミスが自力で起き上がれたので、リフトの係員に詫びて二人してコースに出た。雑念を払い、滑ることに集中する。
「スミスはバランスはいいからあとはもっと膝を柔らかく使って。視線を行く方向に向けるといい」
「こう、かな?」
「そうだ!もっと重心を落として…。ルルも言ってたろ、相撲と一緒だって!」
「なるほど!」
意識して重心を低くするように滑ってみるとそれだけで随分滑りが安定した。視線を送ることで上半身も自然に回っている。 元々運動神経が悪い男ではないのだ、イサミのアドバイスを受けながら何回かリフトに乗る間にはスミスもすっかり元の勘を取り戻していた。
「もう転ばなくなったな」
「イサミの教え方が上手いからだよ!」
何回二人でリフトを回しただろう。ゲレンデではルルがもうかなりのスピードで滑っている。リフトの眼下に見えるその光景に気付くと、側に付いているヒビキが大きくこちらに手を振った。
「ルルの上達具合はすごいな」
「ああ…」
スミスも驚いていた。雪を見たことすらなかったのに、こんなにあっという間に滑れるようになるなんて。
「もしかしたら、ルルはハワイでサーフボードに乗ったことがあったのかも。結構小さい子でもやってるんだ」
「そうか。動きは似てるもんな」
「ルルの中にはちゃんとハワイで過ごした時間も生きてるんだな……」
「……」
「あ、雪だ」
少し暗くなり始めた曇り空からチラチラと白い雪が落ちてきた。今夜は冷えそうだ。きっと雪もたくさん積もるだろう。
「そろそろ上がるか」
「そうだね。ルルももう疲れただろうし」
次を最後の一本にしよう、と二人はゲレンデに降り立った。
「最後の一本完璧に滑ってみせる!」
「はは、そうだな。頑張れよ」
「ああ!イサミ。もし、一度も転ばずに下まで降りられたら俺に何かご褒美をくれるかい?」
「え?ご褒美?」
何が欲しいんだよ?それを聞く前にスミスはスキーを逆ハの字に開き豪快に滑り出し、そして早速転んだ。
「あーーーー!!!くそっ!」
「はは……まだまだだな」
ご褒美と言われても、俺がスミスに何をしてあげられるんだろう?何も思い浮かばなかったイサミは少しだけほっとして、ゲレンデを降り始めた。
夕方近いゲレンデにはもうほとんど人は居なかった。スミスの様子を視界に入れながら、イサミは最後くらいは思いっきり、と大きく弧を描いてターンする。基礎に忠実な美しいエッジングがゲレンデにシュプールを描く。ヒビキには「面白みのない滑り」と不評だが、ピタリ!と決まった時は気持ちいい、イサミ流の滑りだった。その美しいフォームにスミスの目も釘付けになってしまう。
「スキーはそれほど、なんて大嘘じゃないか!」
「え?」
「なんでもなーい!!!」
最初に集まった子供ゲレンデに着くと、スノボ組の三人は雪合戦に興じていた。ルルも疲れたことだろう、などと思っていたのが甘かった。まだまだ体力は有り余っているらしい。
「イッサミーーーー!遅いよ!入って入って!」
「子供は元気だなぁ。よし!俺達も行こう!」
スミスがそう言いながら戦いに身を投じてゆく。
ちらちらと小雪が降る中、大人も子供も夢中になって雪合戦に興じた。子供に返ったように雪玉をぶつけたりぶつけられたりしているうちに、イサミはいつしか悩んでいたことも忘れていた。
こうして仲間も交えて笑い合える。この関係になんて名前があるのかは分からない。けれど今はただこの時間を幸せだと思えた。