コイとユーレイ①「どうして告白しないのだ」
背中から聞こえたその声に苦い顔をして無視をする。大学の構内は人も多く、顔見知りも多い。そんな所でケンカする訳には行かなかったから相手にしないと決めて足早に中庭を抜けた。
「必ず上手く行くのだから言ってしまえばいい」
堅苦しいしゃべり方はどんなに早足で歩こうと背後にベッタリと付いて来て、彼のアドバイス通りに動かない俺を責め立てる。それでも無視を決め込んでいると、校舎に入る手前、丁度昼の高い太陽から逃げられてほっとしたその瞬間。
「やっせんぼ」
吐き捨てるように呟かれたそれに思わずカッとなった。勢いよく振り向いて、俺の目が彼を捉えたことに気付いたその人が少しだけ目を大きく開いてから不敵に笑う。
「あのな、」
「鯉登ー、何してんのー?」
怒鳴りつけてやろうと思った横からのんびりと名を呼ぶ声がしてはっとした。正面に見据えた彼は入った邪魔にチッと小さく舌打ちをして声の主に視線を移し、その先にいた杉元を確認してからまた舌打ちをする。
「いや、何も」
「ふーん? 次の講義一緒だよな? 行こうぜ」
「……うん」
歩き出した杉元の背中を見送った彼は眩しそうに目を細めて、それからついとその視線を俺に移した。何か言いたいことを我慢するように唇がきゅと閉ざされる。先刻まで好き勝手に言っていたくせに、何を今更殊勝な態度をとっているのかと腹の底がもやっとするけれど、俺を見るその目がどこか悲しげだったから文句は喉の奥に痞えたまま音にはならなかった。
「行くぞー」
「うん」
俺がついて来ていないことに気付いた杉元が振り向いて手を振る。頷いてから今度はちゃんと歩き出し、やはり彼はその後ろを付いて来た。
「……無理なんじゃ、どげんしてん」
内緒話をするように声を潜めた俺に、彼が小さく「ないで?」と返す。何でもなにも。無理だから無理だと言っているのに。彼は分かっていないのだ。
「恋人がおって」
「そんなもの、いずれ離れる」
「何で分かる?」
「あんわろにはおいしかおらん」
「だから、そんなの分からないだろう」
「なんか言った?」
いつの間にか杉元に追いついていたことにはっと顔を上げる。いや、と慌ててごまかして、背後に視線を投げた。知らん顔の彼は明後日の方を見ていたけれど、やがてその目が何かを見つけて見開かれる。思わずその視線の先を辿って、それを確認してすぐ後悔した。
「お、グンソーじゃん」
杉元も気付いたらしい。グンソーというあだ名の男は上背がない割には随分とがっちりとした体格をしていて、それはスーツを着ていても遠目からでも分かるくらいだった。
「お前、グンソー見付けるプロだよね」
「……別に」
グンソーは、研究室に出入りしているサラリーマンだ。研究に使う薬品や器具を下ろしているらしい。俺は彼の出入りする研究室とはまるで無縁であったから、又聞きで聞きかじった情報でしかないけれど。
ただ一度だけ、彼と話をしたことがあった。落し物を拾ってあげて、振り向いた彼は優しげに細めた目元で笑い、まっすぐで柔らかな声で礼を告げてくれた。
一目惚れだった。それまで男にも女にもそれなりにモテた割に興味を持たずにここまで来た俺が、その場で何もいえなくなるくらいに、心臓が大きく飛び跳ねて、今にも口から飛び出すか、皮膚を突き破ってしまうかと思うくらいに耳の脇でばくんばくんと音を立てて「このひとだ」と喚き散らかす。そんなことは初めてで、頬と言わず耳と言わず全身が熱を持って立ち尽くした。
去って行く後ろ姿に、名前すら聞けなかったと後悔したその直後だ、彼に会ったのは。いつの間にか音もなく俺のすぐ傍に立っていて、グンソーの背中をただ寂しそうに見詰めていた。不思議とその存在に驚きはしなかった。
研究室に荷物を引き渡して教授と談笑しているグンソーをまたあの眼で見詰めている。
「……つきしま」
消え入りそうな呟きにずきりと胸が痛んだ。未だグンソーから目を離さない彼の横顔があまりにきれいで悲しくて、痛むこめかみを持て余しながら踵を返す。
俺と同じ顔を持つそのひとは、歴史の教科書か映画でしか見たことがないような軍服を身にまとい、ただひたすらにツキシマを探していた。グンソーが彼の探していたツキシマであると知ったとて、俺が彼の連絡先を知っているわけではなく。また校内でグンソーを見かけることが出来たのは彼が俺の元に現れてから二ヶ月と少しした頃だった。
「鯉登、遅れる」
「うん」
杉元に促されて教室へと急ぐ。彼は俺から離れることができないらしく、強制的にその場から引き剥がされて俺の背中を付いて来た。どう考えても彼は既にこの世のものではないのだろうから、だとすると『取り憑かれている』というやつなのだろう。と、以前彼に訊いてみたけれど、その辺は彼自身も曖昧らしく、「多分」としか言われずに結局宙に浮いたまま今に至っていた。
ツキシマは、生前の彼の恋人だったのだそうだ。だから、同じ容姿を持つ俺がグンソーに惹かれるのは当然なのだと鼻息荒く彼は言う。更にはグンソーも、必ず俺を好きになると言って憚らない。その根拠のない自信は一体なんなのかと聞いてみても、「お前は私で、私はお前だから」という謎の言葉しか返っては来なかった。
「お前はツキシマと上手くいったのかも知れないけど、俺は無理だ」
「何故そう思う?」
「だから、グンソーは彼女がいるんだと言っただろ。ゼミのやつが見掛けて、聞いたんだって」
「それは今だけかも知れん」
「にしたって。彼女がいるってことは恋愛対象は女ってことだろ。俺は対象外だよ」
「そうとは言い切れないだろう」
「なんで」
「だって、ツキシマだから」
「…………」
生前の彼らがどれほどの縁で結ばれて、そこから絆を紡いだのかは知らないけれど。それをそのまま俺に求められても困るのだ。うんざりした顔でベッドに転がると、遠慮なくその隣に乗り上げてくる。触れられはしないし、質量もないけれど大の男にベッドへ乗り上げられるのはいい気はしなかった。
「なあ、きっと大丈夫や。じゃっで好いちょっちゆたやよか」
「グンソーはおいんこっなんて知らんじゃ」
しばらく帰っていない故郷の言葉はひどく優しく思えて、胸の奥深くの柔らかさをちくりちくりと刺して来る。彼は一体、俺の何なんだろう。生まれ変わり、なら今こうして幽霊にはなっていないだろうし、だとしたら先祖か何かだろうか。次の休みにでも久々に兄に電話してみようかと考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
「おまえ……名前、なんだっけ」
兄に聞くにも父に聞くにも、彼の名前を知らなくては調べようがない。うつらうつらし始めた俺の隣で身じろぐ気配がした。
「鯉登音之進やっど」
「なんだ、俺と全く同じなのか」
それを最後に、意識が遠のく。沈み込むような眠りに誘われた心地良さに全てを手放して、最後に何となく思い出したあの日のグンソーの笑顔に幸せな気分を噛み締めた。