ズルい男 はしゃがないはずがなかった。キスから始まった名前のない関係を、レーズンバター味の賄賂を使いつつ、恋人という形になんとか収めたのだから。
ようやくお付き合いするに至った、大好きな先輩。友達の寮の先輩が片思い相手になって、そしてついに恋人になって──このまま順風満帆に進むのだと、監督生は信じていた。
*
「改めてお誕生日おめでとうございます。以上でインタビューは終了です」
「はーい、こちらこそありがとねー」
先輩相手であるからして、一応、一礼。監督生は頭を上げるとすぐに、談話室の隅っこへいそいそと向かう。ようやく終わったという安堵感に小さくため息を吐き出すと、それを耳聡く聞きつけた男がいつの間にかそばに立っているのに気付く。
「ニヤニヤしながら寄ってくるの怖い、エース」
「いやー、今日一番の“大仕事”を終えてみてどうですか、監督生選手」
「何そのノリ。別に、今日もいつもどおりインタビュアーとしての仕事をしたまでですけど?」
「ふんふんなるほど、監督生選手は元カレへのインタビュー如きでは動じない、と」
「エース!!」
不穏なワードを耳にした途端、小声で叫ぶという器用な技を見せた監督生を、エースはへらりと笑って往なす。「まあまあ落ち着いて」と冷え切ったフリットを監督生の口に突っ込めば、不服な表情で咀嚼に努める姿がハリネズミ──ハーツラビュルで飼育している、一等食い意地の張ったピンクの毛並みのやんちゃ坊主──にそっくりで、口の端が吊り上がりそうになる。
監督生がごくりと飲み込んだのを見計らって、エースは話を続けた。
「でも本当にすげーって思うよ、監督生とケイト先輩。別れたあとも全然気まずくなさそうだもん。ほら、普通は円満に別れたって多少はギクシャクするもんじゃん?」
「ふうん、エースはギクシャクしたんだね」
「は〜? 別にオレは……ってオレの話はいいんだよ今は! 話逸らそうとすんなっ」
ぺちりと食らったデコピンの衝撃で眉間にシワを寄せつつ、監督生はエースをじとりと見つめる。
「んー、ギクシャクするほうが疲れる、みたいなとこない? ねえ経験者のエースくん」
「おい、おちょくんなよ。……それはまあ、わかるけど」
「やっぱり? エースなら分かってくれると思った!」
ほら、分かったならこれ以上掘り下げてくれるなよ、という気持ちを目一杯込めて、エースの口目掛けてフリットを突っ込む。察しのいい彼が不服そうな顔で咀嚼に勤しむのを視認して、「んじゃ、今日はもう帰るから、グリムのお泊りよろしくね。おやすみ!」と言い残し、監督生は談話室を去った。冷えて固くなったフリットをようやく飲み込んだエースの「まだ夕方だろ、もうちょいこっち居ろよ!」という声は、ドアの向こう側へは届かなかった。
「はあー……」
監督生が談話室を足早に去って辿り着いた先は、談話室近くのお手洗いだった。
「喧嘩別れした元カレにインタビューとか地獄……」
監督生は非常に疲れていた。理由は明快──なんてったってケイトは、円満に別れた訳でも、別れた後も気まずくない訳でもない“元カレ”なので。
実のところ、泣きながら喧嘩別れをして、今だってケイトとは死ぬほどギクシャクしていて──そして何とも最悪なことに、監督生の未練はタラタラ。
「はは、エース、気まずくなさそうだって……あーおもしろ。いや全然おもしろくないけど」
とてもじゃないがお喋り相手にはならない洗面ボウルに向かって独り言を吐いてしまう程度には、監督生の心は摩耗していた。
「ていうか、今度一緒にカフェ行こーって何? 社交辞令すぎるでしょ、そういうの本当にいらないのに」
ブツブツと呟き続ける来訪者に痺れを切らしたのか、入口のドアノブがゴホンゴホンと咳払いをする。辛気臭いことを一方的に聞かせ続けるのも気の毒だと、監督生はしぶしぶドアノブを回して廊下に戻ろうとした。
「あっ」
「えっ」
戻ろうとしたのだが、一旦お手洗いに引き返すことにした。
監督生がドアを閉めてまずしたことと言えば──
「騙したな〜?」
またしても小声で叫びながら、ドアノブを思いっきり睨みつけることだ。
なぜ、どうして、よりによって今、本日の主役であるはずのケイトが一人きりで廊下に居るのか。
睨みつけられたドアノブは、心配そうに監督生を見つめる。
「なあ監督生、いつまでそうやってケイトに意地張ってんだ」
「別に、意地張ってるわけじゃ……」
「まだ好きなんだろう、素直にそう言っちまいなよ。“あの日”みたいにワンワン泣くお前さんは、もう見たくねえや」
*
気持ちを伝える前にキスしてしまって、そのまま離れていきそうになったのをなんとか繋ぎ止めて、恋人という関係に収まった──元々、自分主導の恋だったのだ、と監督生は振り返る。
好きな人に好きになってもらえる喜びを知り、監督生の日常に彩りが加わった。親分のグリム、オンボロ寮のゴーストたち、同じクラスのマブたち、そして大好きな彼氏。ようやくモノにした彼氏という存在は監督生に喜びと楽しみ、加えて怒りと悲しみすらもふんだんに授けた。
そうして訪れた“あの日”──防音魔法が完璧に施されたケイトの私室で、監督生とケイトは大喧嘩をし、別れるに至った。
『なんで付き合ってることを皆に言いたがらないんですか?』
『自分と付き合うのって恥ずかしいことなの?』
『マジカメにも載せたくないくらい?』
付き合ってることは親しい人だけに打ち明けよう、デートのことはマジカメには載せないでおくね──君のことが大切だからという理由では、監督生はもう納得できなくなっていた。ようやく付き合えたのだからと溜め込んでいた疑問と不安が、不満になって一気に溢れ出てしまった。
『ケイト先輩が大好きだって、大切だって、隠さなきゃだめなのはもう嫌です……! それなら、もっと大っぴらに大事にしてくれて、どこでも一緒にいてくれる新しい恋人と付き合う!』
ドアが乱暴に閉まる音は防音魔法に吸い込まれ、バタバタと駆ける足音は寮自慢の分厚い絨毯──見回りに来るリドル寮長のハイヒールの足音ですら吸収してしまうことから、寮生にはあまりよく思われていない──が吸い取ってしまったゆえに、寮生の誰もがこの大喧嘩の存在を知らない。まるでエレメンタリー生のように喧嘩別れをしたのを知られたくないあまり、監督生とケイトが円満破局のフリをするのを、カレッジ中の誰もが信じた。
──ただし、とあるドアノブを除いては。
ハーツラビュル寮に存在するドアノブのうちいくつかは、顔と心を持ち、言葉を喋る。ケイトの部屋を飛び出した監督生が駆け込んだのは、談話室近くのお手洗いだった。
突如大泣きしながら駆け込んできたオンボロ寮の監督生に、出入口のドアノブは大層面食らった。
『おいおい、どうしちまったんだ。ケイトを呼んだほうがいいのかい』
まあ、ただのドアノブの俺じゃあそれは出来ないんだが、と続ける前に『ケイト先輩は呼ばないで』と弱々しい声が届いた。
『おや、本当にどうした?』
『……ケイト先輩と喧嘩したので』
『ふむ、なるほど』
『大好きなのに、不安で、嫌で、酷いこと言っちゃった』
『そうか、人生そういうこともあるってもんよ』
『そうですかね……』
そのまま一晩明かした監督生のため、寮の外扉が解錠され、廊下に誰もいないタイミングを見計らって、ドアノブは監督生を外に出した。
そのときはドアノブとて、ただの痴話喧嘩だと踏んでいたのだが。
*
「本当に別れちまってたなんてなあ」
唯一、監督生とケイトの現状を知るドアノブは遠い目をしている。
「お願いします、ケイト先輩が談話室に戻ったら教えて下さい、本当に本当にお願い……!」
「そんな必死になるもんか?」
「だって、子どもみたいに泣いたの恥ずかしいし、酷いこと言っちゃったし、それに……」
監督生は縋るように、ドアノブを握りしめた。あまりの懸命さに、ドアノブは目を瞬かせる。
「それに、なんだよ」
「それに……次二人っきりで向かい合ったら、全部無かったことにして、やっぱり大好きって抱き着いちゃいそうだもん!!!」
「……」
「……あれっ?」
いつの間にかドアはひとりでに開いていて、監督生の目の前には、お願いを聞いてもらっていたはずのドアノブは居ない。その代わりと言ってはなんだが、件の元カレが居心地悪そうに立っている。
「あー、とりあえず、お手洗いから出たほうが」
「あ、そうですね、はい」
気まずそうな表情を隠さず、床に座り込んでいることを指摘されてようやく、監督生は廊下に一歩踏み出す覚悟が決まった。横目でちらりと見たドアノブは、開きっぱなしのドアで狸寝入りを決め込んでいた。
「あのさ」
「はい」
「あんまり食べてないのに、もう帰るの? 体調とか悪い?」
「いえ、体調は特に、悪くないです」
「そっか」
なんとなく、二人して談話室へと歩みを進める。向き合うよりかは、隣に居てくれたほうが気が楽だと思ってしまう程には、抱きしめあっていた日々は遠い。「大好きって抱きついちゃいそう」にならないために、絶対にあのエメラルドの瞳を見つめたりなんかしてはいけない──監督生は何度も自分に言い聞かせた。
談話室の扉が見えてきて、久しい二人きりの時間が終わりに近づく。監督生の右横にあったはずの足音が消えたのと、右手が掴まれたのはほぼ同時だった。
「あのさ」
「はい」
「…………新しい恋人、どうなの」
どうなの、とは?
監督生の脳内がハテナマークでいっぱいになってようやく、思い至る。
──『もっと大っぴらに大事にしてくれて、どこでも一緒にいてくれる新しい恋人と付き合う!』
確かに、言った。今まで我慢していたことが噴き出してしまって、思ってもいないことまでぽろりと口から溢してしまったのだった。
「ええ、と」
本当はね、新しい恋人なんて欲しくなかったんです。今でも先輩のことだけが好きなんです。
素直にそう言ってしまえば、自分たちの関係はどうなるのだろう。好きな人と付き合えただけで十分だったはずなのに、恋する気持ちは膨れ上がるばかりで、不安を零してしまいそうになる自分が嫌になって、そして今に至る。本当は今も大好きだと、目から、口から、飛び出てしまいそうで、握られた右手の先のケイトと顔を合わせることが出来ない。
二の句が継げない監督生に業を煮やしたのか、ケイトは不機嫌そうに問いかける。
「エースちゃん?」
「……はい?」
「入学から仲良しだもんね。友達にしては距離近いなーってずっと思ってたよ」
「??」
「さっきだって、デコピンとか、あーんとか、彼氏かよって。本当にそうなんだ?」
「え、彼氏って、エースが? 違いますよ!」
「ふうん、じゃあジャミルくん?」
「はい??」
「さっきジャミルくんのインタビューも受けたけど、最近一緒にいる機会多いみたいじゃん? 世間話の度に『監督生が』って口走って、気まずそうな顔すんの。なんかやましいことでもあんの?」
いや別に元カレに義理立てとか要らないんだけどね、と最後に付け足すと、監督生の右手首を掴むケイトの指先がぎゅうと強まる。
掴まれる手首がほんの少し痛くて、熱い。ケイトの指から僅かに移される熱に、監督生の頭はぐつぐつと煮立たされるような心地になる。
だって、新しい恋人について聞かれるだけで、こんなに不快そうな、不機嫌そうな声色をぶつけられるっていうのは。
監督生は手首を捻ってケイトの緩やかな拘束から抜け出し、そのまま解かれた手で彼の指先をぎゅうと握った。手首で感じたとおり、じわりと熱が伝わってくるほどに、熱い。
顔を見れば溢れ出して止められないと理解しながら、監督生は浮かされた熱のままケイトの方を振り向く。口から飛び出るまま、心のままに伝えようとして──すると、ようやく向かい合ったケイトが遮った。
「ごめん、まだ好き。だからさ、新しい恋人なんか作んないでよ……」
弱弱しい声と、嫉妬に揺れる緑色を目の前にして──監督生はついに自分を留めておけなくなった。
「ああもう、大好き!」
今日一日恐れていた「大好きって抱き着いちゃいそう」を監督生はついに実行に移し、弱々しく端を垂らしていたケイトの唇にかぶり付く行為まで加えてしまった。
見開かれるエメラルドを、文字通り目と鼻の先で眺める。「新しい恋人なんていません」と耳元で囁いてから、監督生は久しいその距離に笑みを深めた。
「ねえ、また談話室でキスしてくれますか?」
水しぶきにまみれたいつかと同じ台詞を唇に乗せれば、監督生の予想とは異なる答えが返される。
「……談話室は恥ずいから無理」
ばつが悪そうに目を逸らしたケイトに、監督生は口をへの字に曲げた。
「ふーん。じゃあ、やっぱり新しい恋人を作った方がイイ感じ?」
「おい違うって!」
抱き着いていた腕を監督生がぱっと離せば、焦ったように腰が引き寄せられる。
「みんなに内緒にしなきゃダメですか?」
「大事にしたいんだって」
「それは前も聞きました」
「いや、だから、オレはただ……」
「ただ?」
抱き寄せたままの指が悩まし気に腰を滑るのを、監督生は小さく息を吐いて耐えた。
「こういう可愛いとこが、周りに見られるのがちょっと」
「ちょっと?」
「嫌だよ。オレのことが好きなら、オレだけに見せて」
不愉快の声色で、耳だけほんの少し赤くして──受け止めた監督生はたまらず、再びケイトの首に腕を回す。
「お願い、ここでちゅーして? もっかいしたい、ダメ?」
だって、自分ばかりがぐつぐつと煮立たせていた感情を、ケイトも同じようにくすぶらせていただなんて!
好きなのに、不安で不満で、でもやっぱり、どうしてもこの人がいい。
「コラ、ここじゃダメだって! オレの話聞いてた?」
「ええ~」
さっきしたばっかりだろ、と頬を緩くつねられて、監督生はようやく体を擦りつけるのを止めた。代わりに、ケイトが談話室に戻ってしまうのを少しでも引き留めようと、服の袖をちょこんと握ってみる。
「……ここはダメだけど」
すると、監督生がつまんだ裾から出ている手が、今度は監督生の手首を捕まえてシャツの裾に入り込んでくる。
あれ、と考えている間に、一歩近づいたケイトの顔が監督生の耳元に寄せられる。
「オレの部屋なら何度でもどうぞ?」
シャツの裾からいたずらな手がようやく出したと思えば、そのまま鍵を握らせて、ケイトはそのまま談話室へ戻っていった。
握らされた形のまま、監督生はその手を胸にやり、濡れた息を吐く。人目を忍んだキスと触れ合いで、監督生はすっかり体を火照らせていた。
なんてったって“元カレ”なので。少し前までは毎日のように、すれ違いざまポケットに入れられていた私室の鍵を久しぶりに見て、期待しないはずがなかった。
さて、早速ケイトの私室に赴いて今夜の準備に取り掛かりたいところだが、監督生が足を向けたのは談話室近くのお手洗いだった。廊下から聞こえてくる会話に、ノブを赤くさせたり青くさせてりしていただろう彼のもとへ向かう監督生の足取りは、まるで夏の水しぶきのように軽やかだった。