自炊は滅多にしない独身男からすると、安価でそこそこの量を賄ってくれる社員食堂は非常にありがたい。昼食はもちろん、日によっては夕飯もここで済ませることがあるくらいには。
新聞を片手に辛くも甘くもないカレーを食べていると、正面の空席に人が座る気配があり、ちらりと視線だけを持ち上げて思い切り顔を顰める。
「やだな~、そんな顔。傷付く~」
けらけらと笑った宇佐美を無視して再びカレーを頬張った。同じ部署の同僚とはいえさほど仲良くもないのにわざわざ同じテーブルに着くというのは、どうせ碌でもない話をしに来たに決まっている。
「ボク、昨日トゥイッターとか色々見てたんですけど、お天気お姉さんのオタクって結構いるんですね~」
ほらやっぱり。やはり尾形と宇佐美にバレたのは痛かった。溜息を吐きたいのはやまやまだったけれど、如何せん口の中にまだカレーが残っていたので、それを呑み込むことで代用する。
「しかも結構きっついの多くないですか~?」
「知らん、見たことない」
「相手は女子大生ですからなあ~」
「……」
別に、彼女とどうにかなりたいという訳ではないのだから、鯉登がいくつであろうと月島には全く関係のないことだ。ただ、彼女の仕事を応援したいという気持ちと、それに応援されているというだけなのだから罪悪感など感じる必要は全くない。はずなのに、『女子大生』というところを強調されると胸の奥がチクリと痛んだ。
「見てよコレとか」
「どれ」
宇佐美がスマホに表示させた何らかを覗き込んだ尾形がにやりと口元を歪める。完全に面白がっている顔だ。
「『ブラ紐見えてる』だって、キモ」
「やめてくださいよ月島さん、こういうのになり下がるのは」
「なるか」
今度こそ溜息を吐いて、空になった更にスプーンを置く。もうぬるくなってしまった水で喉を潤わせてから背凭れに掛けていたスーツの上着を手に取った。
「行かないんですかァ?」
「どこへ」
「そりゃ撮影現場ですよ」
「行かないって言っただろ」
「もったいない」
尾形の低い声に動きを止める。先日、鯉登のことがバレた時にも、尾形は「もったいない」と言っていた。そう遠くない収録現場なのに行かないのがもったいないと言いたいのか、他にもっと意味があるのか。問い詰めようかとも思うけれど、何となくそれも憚られる。じっとりと月島を見る尾形の目が何かを探っているようで居心地が悪かった。
「……俺の勝手だ、くだらん詮索はするな」
「つまんな~い」
本音を漏らした宇佐美にこめかみを押さえて立ち上がる。背凭れにかけていたスーツのジャケットにはうっすらと皺ができていた。
宇佐美に言われて気になったわけではないけれど、そういえば自分以外の彼女のファンというものを意識したことがない。
事務所に所属していない、天気予報以外の仕事をしていない大学生という立場ではあれど、毎日テレビのニュース番組で天気予報を読んでいればファンがいても当然だ。言ってしまえば月島もそうであるのだけれど、何故だか今日の今日までその意識が全くなかった。
帰りの電車でSNSを開き、何となく鯉登の名前をサーチする。以前もやったことがあったけれど、フルネームでは大した投稿は見られなかった。とすると、宇佐美たちが見ていたものとは検索ワードが違うのかも知れない。『音』だけだと他のワードも大量にヒットしてしまうし、『鯉登』だけだと経済系のニュース記事ばかりに埋もれる。
――音ちゃん、とか?
決して声に出したわけでもないのに、妙な気恥ずかしさにぎゅうと目をつぶった。一度深呼吸をして、そのワードを検索窓に入力する。
「………」
なるほど、宇佐美が見ていたのはどうやらこれだったらしい。ずらりと並んだ彼女のファンらしき人々の投稿に腹の奥が冷える気がした。『今日も音ちゃん可愛かった』『音ちゃんのどアップ助かる』といった当たり障りのないものはまだいい。
『音ちゃんのスカートが風で煽られてたの最高もっとやれ』
最早セクハラではないかと思うような投稿に思わずスマホを握った手に力が篭った。
今朝は確かに風が強く、膝丈のスカートが煽られるシーンがあって、けれど彼女は何ということもなくごく自然にスカートを押さえて冷静に天気予報を続けていた。月島はそんな卒ない仕草に感心しただけで、もっと、などという下賤な感情は全く抱かなかったのだけれど、そうでもない輩はいるらしい。
『肩から見えてたのブラ紐? 音ちゃんおっぱい大きいから大変だね』
宇佐美が読み上げていた投稿も見付けた。途中で読むのを切り上げたのは彼なりの気遣い――ではなかっただろうけれど、あの場で読まれなくてよかったなと少しだけ感謝する。
何だか聖域を荒らされてしまったような気分だ。勝手に聖域扱いしていたのは月島であって、投稿している彼らに非はないのだけれど。むしろ、尾形たちから見たら月島も同じ穴の狢なのかもしれない。こんな風になるなという尾形の言葉を噛み締めながら、溜息と共に電車を降りた。
今朝も画面の中の鯉登は溌溂としている。昨日見てしまった不愉快な投稿を引きずっているのは当然月島だけで、彼女には一切の影響があるはずがなかった。
『西日本では雲が多く、九州から雨の範囲が広がります』
ショートカットの耳元にぶら下がったピアスが揺れる。派手ではないけれど地味でもない、丁度いいアクセサリーは女性視聴者からも好評そうだった。
『東京は晴れますが、東北ではにわか雨がありそうです。ご注意ください』
白のブラウスは全体的にふわふわしていて、やや色黒の鯉登によく映えている。残念ながら月島はファッション全体に疎いのでブラウスというのが正しいのかどうかすら分からないけれど、首元から緩く大きく結ばれたリボンは胸元にかかり、裾の広いデニムパンツとの相性がよかった。
『以上、お天気でした。気を付けて行ってらっしゃい』
「行ってきます」
いつもの笑顔に勝手にほっとして手を振る鯉登に答えて立ち上がる。
どんな感想を抱く輩がいた所で、月島が彼女にしてやれることは何もない。ただこうして一方的に応援されて日々を過ごすだけだ。唯一やれることとすれば、尾形の言う通り、あんな投稿をする連中のようにはならないことくらい。彼女が見て不快になるような内容の投稿もさることながら、やはり撮影の見学などということは絶対にやめておこう。鯉登の迷惑になることは決してしないと固く誓ってアパートを出た。