Let's bake Stollen - vol.11. 前準備
敵性生命体の巣。そんなところから試料を採取し帰還した次元戦闘機は当然のように重度の汚染を受けていた。戦闘機は必要なデータと資源を回収したのち速やかに廃棄され、戦闘機のコックピットから引き摺り出されたパイロットはそのまま医務室に担ぎ込まれた。格納庫は除染作業に奔走する作業員でごった返している。
「善逸さん、善逸さん!」
喧騒からたった一枚の扉を挟んだ医務室にパイロットの名を呼ぶ正一の声が響く。そばに控える同僚は善逸の状態を確認し、キビキビと必要な処置を進めている。彼女の手の早さに焦りながら、正一は善逸の頭を掴むと琥珀色の虚ろな瞳を正面から覗きこみ、その場の何よりも大きな音で彼の名を叫んだ。
「かえってきてください! 善逸さん!!」
敵性生命体の汚染――侵食現象はそれに直接曝される戦闘機に強く作用するが、搭乗しているパイロットにも多少なりとも影響は及ぶ。特に彼はサイバーコネクト技術によって物理的に機体に接続されているため、かねてより侵食現象に晒されていた。それでも出撃前は薬物投与と定期的な除染措置で侵食率を低レベルに抑えていたのだが、作戦から帰還した彼の体は侵食の影響による変質が随所に見られ、侵食率も高い数値を示している。
「残念ですが、左腕は切除します」
同僚は顔を顰めてレーザーメスを手に取った。否やと言うことはできない。侵食現象に明るくない正一の目から見ても、善逸の左腕は人のそれとはかけ離れた形に変質し、蠢いている。このままなんの処置も行われなければ、侵食が全身に広がりその身は敵性生命体と成り果ててしまう。
「善逸さん! 俺を見てください、ぜんいつさん!」
――叫びすぎて喉が痛い。しかし正一はどうあっても彼を呼び戻さなければならない。波動エネルギーの照射による除染は精神にまで効果を及ぼしてはくれないのだ。
「善逸さん!」
自我崩壊を起こしかけている今、ほんとうなら即時終了措置がとられる。除染など選択肢には上がらない。正一がこうして彼に呼びかけることを許されているのは、過去に彼が呼びかけに応じて戻ってきた実績があるからだ。
「正一さん、反応がよくありません!」
左腕の処置を終えた同僚が告げる。バイタルを示す画面の一角、精神反応を示すラインは僅かに震えているもののフラットに近い。
正一は必死になって記憶を探る。かつて彼が戻ってきたときはどう呼びかけていたのだったか。映像記録を何度も見たはずなのに、混乱と焦りに塗れた精神状態ではよく思い出すことができない。こんなことなら記録を体に叩き込んでおくのだったと唇を噛む。今回の試験飛行は安全だからと、桑島の研究所からは善逸と正一、看護士の彼女、加えて数名の整備士のみがこの艦に搭乗していた。どこのどいつだ、接敵行為のない計画だと言ったのは。敵性生命体の巣に突っ込ませるなんてわかっていたら宇髄や桑島が同行していたはずだ。
彼らがいれば。一瞬ないものねだりをしそうになって、正一は己を叱咤する。
ここには俺とアオイさんしかいないんだ。彼女は善逸の体を処置して生かすのに全力を傾けている。そもそも俺は彼の精神を生かすためにここにいるんじゃないか。
「かえってこないと、シュトレンは俺が食べちゃいますからね!?」
しかし結局出てきたのはそんな言葉で、正一は絶望した。他に何かなかったのか? 彼が戻りたいと思うに足る何かは。こんな、食い気への訴えなんかでかえってきてくれのか?
しかし正一の不安を拭うように、彼の目の前で琥珀色の瞳がゆっくりと瞬き焦点を結んだ。
「だめ、」
掠れた声が彼の口から漏れる。
「……ぁれ、おれの、」
アオイは小さく息をつき、除染設備の鍵を手にした。精神反応を示すラインは画面の中で力強く脈打っている。
「……わかってます、ちゃんとカットして持っていきますから」
「……り……と」
「だから早く、除染室に行きましょう」
ストレッチャーのブレーキを解除し、正一はアオイとともに善逸を除染室へ運ぶ。二人がかりで善逸を除染用ベッドに移していくつかの措置を行い、除染室を出た。当面の間、善逸は徹底した除染措置を受けることになる。研究所に帰ってからも一週間は除染室から出られないだろう。措置のタイムスケジュールを指でたどる。日に一度、一口だけ許された自由な食事の時間が十四時間後に予定されていることを確かめて十三時間後にアラームを設定する。
「善逸さん、戻ってこられてよかったですね」
そっとかけられた声に、正一は端末に落としていた目線を上げた
「はい、本当に。……あの、よかったら次からはいっしょに声をかけてあげてください」
彼女はパチリと瞬いた。
「善逸さんは女の人が好きなんです。きっとあなたの声の方がよく届く」
「そうでしょうか? では次は私が。今回のあなたと同じようにして比較してみましょう」
次などない方がいいのですが。
そう言って口元を僅かに緩めたアオイに、正一もそれもそうだと笑った。笑って、すこしだけ泣いた。
***
太陽系のどこか。地球ではない星の片田舎に正一が配属される研究所はあった。地球連合軍に所属しているその研究所は主に戦闘機のテスト飛行とそれに基づいた改良を担っている。研究所のパンフレットを入手して、心理セラピストである己が配属される意味に身を震わせた。おそらくクライアントは戦闘機のパイロットだろう。パイロットの中にはサイバーコネクト技術によって機体と物理的に接続している者がいた。彼らは接続による自己拡張と非生物との電気交信によって精神の均衡を崩しやすい。まだ見ぬクライアントに思いを馳せ、正一は拳を握りしめる。敵性生命体と対峙するための戦闘機、それを支える研究所とそのパイロット。彼らのために手を尽くすことは、軍属となった正一の望むところである。
赴任初日。緊張を抑えながら所長室の扉を叩いた正一は、口髭の豊かな所長から歓迎のことばを受けた。
「よく来てくれた。儂が所長の桑島じゃ。君にはうちのパイロットの面倒を見てもらいたい。まあ、あやつはやかましいが気性は穏やかで図太い。セラピーが必要になる事態に陥らんよう皆で気をつけておったから精神状態も上々だ。じゃが近ごろの状況を鑑みるに、いつまでもこのままでいられるとは思えんのでな。君には物足りん職場かもしれんが、よろしく頼む」
「了解しました」
敬礼すると、所長は鷹揚に頷いた。
少しの間を置いて所長の隣に控えていた大男が口を開く。パーカー姿で顔に化粧を施した目つきの鋭い派手な男だ。
「俺は副所長の宇髄だ。お前が担当するパイロットは別室に待機させている。案内するからついてきな」
警備員だろうかと思っていたが、まさか副所長とは。驚きを表に出さないよう表情を制御し、正一は「よろしくお願いします」と敬礼する。この研究所は服装規定が緩いのかもしれない。あとで確認しておこう。郷に入っては郷に従うのが馴染むのにも都合がいい。軍服をきちんと身に纏う己が悪目立ちしないか少し心配しながら、大きな背の後に続いて所長室を出た。
すれ違う人はほとんどいない。小さな研究所だと言っていたが、何人くらいの人がここで働いているのだろう。少し先にある扉から、誰かが出て来るのが見え、正一は勤務時間が終わったら服を買いに行こうと決める。小走りに近づいてくる女性はどう見ても私服姿だった。彼女は宇髄の前で足を止め、にこにこと嬉しそうな様子で正一に「こんにちは」と挨拶をくれた。
「天元さま、そちら新人さんですかぁ?」
「おう、正一だ。善逸のセラピーを担当してもらう」
ポンと背中を押され、おっとりした様子の女性に名を告げ、よろしくお願いしますと頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いしますぅ。天元さまの妻の須磨です!」
「奥さまでしたか。ご夫婦でお勤めなんですね」
「えへへ、ほかにも雛鶴さんとまきをさんもいますよ。私たち四人、家族みんながここで働いているんです」
それでは、と手を振る須磨を見送って正一は廊下を進みはじめた宇髄について歩みを再開する。歩いて、階段を降り、また歩いて階段を降りる。
「エレベーターはあるが、急ぎじゃなきゃ階段を使え。ここじゃ節電が大事なもんでな」
宇髄の言葉に諾と答え、正一は頭の中に描いていた地図を見返した。広くはないが、深い。まだ見ぬ格納庫を含めれば結構な床面積だろう。――地上に戻るのは大変だろうな。そんなことを思っていると、宇髄がとある扉の前で足を止めた。雷のステッカーが貼ってあるそこは電力室だろうか。しかし無遠慮に開けられた先は微かな生活の気配がある誰かの部屋だった。ベッドとクローゼット、それから小さなテーブルがあるだけの部屋はやけに殺風景だ。ベッドには男が一人腰掛けていて、正一と目が合うとへらりと笑った。
「あいつがお前のクライアント。おう善逸、こいつがセラピストの正一な。話は聞いてんだろ」
「聞いてますよ。――はじめまして、正一くん。俺は我妻善逸。ここのテストパイロットだよ。よろしくね」
立ち上がり、歩み寄ってくれた彼に正一も数歩近寄る。
「はい、よろしくお願いします。我妻、飛行士」
階級がわからずそう口にしたが、クライアントは「善逸でいいよ。ここじゃ階級や役職はあまり重視されないんだ。俺は正一くんに世話になる身だし、できれば仲良くしたいから」と手を差し伸べた。ああ、握手か。そう思ってその手を握る。彼の指先がわずかに震えていることには気づかなかったふりをした。軽めに三度、握った手を振られ、それからそっと解放される。ふひゃひゃと満足げに笑う彼はきっと今日このときのために握手を練習したのだろう。マナー講座で紹介されるやり方をそのままなぞったような所作に緊張をにじませる様子はそのまま彼が正一のためにくだいた心を示していた。
クライアントだからというだけではなく、このテストパイロットのことをもっと知りたい。正一はそう思う。
「善逸、ここの案内は任せたからな」
「はぁい。じゃあ正一くん、行こっか」
ちょいちょいと手招きする善逸について部屋を出る。殺風景な部屋と親しげな宇髄と善逸の様子がうまく結びつかないが、正一はひとまずその疑問を頭の隅に置いておくことにした。
「この研究所はね、基本的には次元戦闘機のテストを請け負ってるとこだよ」
善逸が歩くと、束ねられた金色の髪がゆらゆら揺れる。うなじを見せるその髪型はサイバーコネクト端子を傷めないためだろう。透明なカバーで覆われたそれからそっと視線を外し、少しだけ足を早めて彼の隣に並ぶ。気づいた善逸が嬉しそうに表情を緩めるのを正一は見た。歩きながら、善逸は研究所について簡単に説明してくれた。
「開発チームがつくった装備をテスト機に載せて、テスト計画に従って飛ぶ。計画はこっちで作ったり、開発側から提示されたり、その時々でいろいろ。まあ、目ン玉飛び出るくらいの無茶振りもときどきくるけど、基本的には前線にはいかない。テスト機だしね」
善逸は大きな扉の前で立ち止まる。ひと目見るだけでその重量感がわかるほど無骨な扉を見上げる正一に善逸は言った。
「ここがうちのメインエリア、見学ツアーでも大人気の格納庫ね。整備場も兼ねているから、むき出しのエンジンや内部の配管が見られるよ。ヤバいのはもっと深い階層でやってるけど、それはまた今度ね」
扉の重厚さに反して、それは音もなく開いた。中に入った正一が最初に目に留めたのは橙色の機体だ。十メートル以上離れた位置にある戦闘機のラウンドキャノピーは大きく開き、外装の一部も取り外されている。
「あれはよく使うテスト機、機体名は〈惣菜屋〉。冗談みたいな名前でしょ? 今は来週のテスト飛行に向けた準備中。新型の波動砲を試すんだ」
「新型?」
「うん。サイバーコネクトで軌道を操作できるって話。俺はそういうのもできるから、サイバネ技術の試験は割とよく回ってくるんだ」
疲れるから好きじゃないんけど、報酬がいいから。そう言ってカラカラ笑う善逸に正一は桑島の評を思い出す。穏やかで図太く、精神状態は上々。
正しく、あるいは過小評価されていると思う。
サイバーコネクトは機体とパイロットを接続するのだ。その措置を受けたパイロットのほとんどは各人に対して慎重にチューニングされた機体に乗り、少しでも装備に違いがあると強烈な違和感を覚えるという。彼らにとって機体は自分の体の一部なのだ。サイバネ技術の試験などと善逸は気軽に言うが、それはつまり、試験のために自身の臓器や身体の部位が増減、あるいは取り替えることを求められるということを意味する。それを報酬がいいからと笑って受け入れられる善逸は、その一言で表現することが許されるかを悩むほどには、図太い。
コックピットで作業をしているエンジニアが手を振り何かを叫んでいる。正一にはエンジン音にかき消されてよく聞こえないが、善逸は聞き取れたらしい。あっ、と小さく声を上げて焦ったように正一を振り向いた。
「忘れてた。――ごめん正一くん、ちょっと行ってくる。そんなにかからないから、待ってて。ここは自由に見学してくれていいから。あ、でも何かに触るときは誰かに大丈夫か確認してね」
どん、と大きな音がした。気がつくと善逸はコックピットに取り付いていて、エンジニアが見せるタブレットを覗き込んでいる。足が速いと言うだけではその速さは説明できない。正一は彼の足のどちらか、あるいは両方が義足であろうと当たりをつけた。ここまで彼について歩いていたが義肢を使っているとは少しも感じなかった。しかし、サイバーコネクト措置を受けていれば義肢も自らの肉体のように動かせる。
格納庫は見応えがあった。床や天井、壁にまでレールが敷かれそこを走るクレーンや滑車には戦闘機の部品やビット、あるいは敵性生命体を戦力に転用するためのコントロールロッドなど様々なものが吊り下げられている。正一はひとつ一つをとっくりと眺めながら、ため息をついた。門外漢ながら精緻なつくりの戦闘機やその部品には機能美を感じる。有名な機体はプラモデルにもなっているから、こんど何か買ってみようか。そんなことを思いながら歩いていると、ふと壁や床の至るところに修繕跡があるのに気がついた。テスト機と言うからには整備も試行錯誤なのだろうか。壁に大きく掲げられた「安全第一」の文字が目に眩しい。――垂れ幕の隅が焦げていることも含めて。
この場にある戦闘機は二機。橙の機体〈惣菜屋〉とオーバーホール中の機体。それは外装も取り外されていて、戦闘機に詳しくない正一にはどのような機体かもよくわからない。しかし正一は見学客ではなくここに勤める身だ。いつか見られる日も来るだろうと楽しみにすることにして、彼はもう一度〈惣菜屋〉に目を向けた。エンジニアと話す善逸は表情豊かで、仲が良さそうだ。やはり善逸と会った部屋の殺風景さは研究所の雰囲気にそぐわない。
正一が見ているのに気づいた善逸が手を振る。それに振り返して、そばにあった椅子に腰掛ける。椅子をすすめてくれたのは、まきをという気風のいい女性で、宇髄の妻で整備士なのだと言っていた。二人目の妻の出現である。彼女が冗談を言っているわけでもないようで、正一は須磨が言っていた最後の一人、雛鶴という方も宇髄の妻なのではと内心恐々としている。
椅子に座ってエンジン音に耳を傾けていると、とんと肩を叩かれた。
「ごめんね正一くん、お待たせ。格納庫どうだった?」
「お帰りなさい、善逸さん。楽しかったです。見応えもありましたし、内部構造をこんなに近くで見るのは初めてでした」
「よかった。きっとこれから飽きるくらい見られるよ」
笑い合う彼らの頭上に正午の鐘の音が降る。
「あ、昼休憩だ。正一くん、お昼もってきてる?」
「いえ、どこかで買うか食堂でもあればと」
「食堂はあるよ。でも今日はさ、俺のおすすめの店に行かない?」
誘われれば否やはない。食事を共にするのは仲良くなるためにもちょうどいい。正一が頷くと、では早速と善逸は彼を肩に担ぎ上げた。
「えっ」
「舌噛んじゃうかもだから、口閉じててね!」
言った善逸が地を蹴る。壁際に駆け寄り、脚立を足掛かりに高く跳ねた。正一が慌ててしがみつく様子にフヒヒと含み笑いをこぼしながら、善逸は格納庫のそこかしこにある足場を跳び移り、あっという間に最上部の扉の前にたどり着く。
「見た!? すごくないこの義足? 階段登るの面倒だからよくやるんだよねえ」
跳ねる心臓を押さえながら、すごいのはそれを使いこなすアンタだと正一が言うよりも早く、善逸は再び駆け出した。
「昼休み終わっちゃうから、このまま行くよ!」
「えっ、ちょ、まっ……待ってください善逸さん!」
正一を背負った善逸がようやく足を止めたのは、小さな建物の前だった。
「はい、とうちゃーく!」
あたりには香ばしい匂いが漂っている。かがみ込んだ善逸の背から降り、ふらつきを堪えて顔を上げた正一は店の屋号を確かめた。――かまどベーカリー。
「……パン屋さんですか?」
「そう。俺の友だちがやってんの」
カララン、コロン。ドアベルの音が鳴り、中から人が出てくる。手にしたかごからのぞくのはフランスパンのきつね色だ。善逸は嬉しそうにその客を見送り、正一を伴って店に入った。
「いらっしゃいませ! ――あっ、善逸!」
朗らかな声の主は善逸を見るや笑みを咲かせた。白いコックコートを身につけた彼こそが善逸が言っていた友だちだろう。眼帯で片目を覆い額には大きなあざがあるが、そんなものは彼の印象に大した影響を与えない。声色と纏う空気の柔らかさに為人が現れていた。
「炭治郎、この子が新しく来たセラピストさんだよ! 俺を守ってくれるんだぜ!」
胸を張って正一を紹介してくれる善逸に面はゆい思いを覚えるが、まあ間違ってはいないと正一はパン屋に名乗り、頭を下げた。より正確には、彼の精神を守るのが役目なのだが。
「正一くんか。俺は竈門炭治郎。善逸とは幼なじみなんだ。よろしくな」
大きな手を差し出される。握るとポカポカとあたたかい。炭治郎はニコニコ微笑みながら大きく手を振った。
「善逸、頼まれてたものはバスケットに詰めておいたから、禰󠄀豆子から受け取るといい」
「準備がいいな、さすが親友」
善逸がカウンターにいる女性――禰󠄀豆子へ声をかけに行くのを見送っていると、不意に炭治郎が囁いた。
「善逸とは握手をしたか?」
「え、あ、はい。しましたよ」
返事を聞いてそうかそうかと満足げに頷く彼は、正一に「善逸をよろしく頼むよ」と眉尻を下げた。
「善逸は強いし、周りの人も支えてくれているけれど、善逸の味方は多ければ多いほどいいと思うんだ」
炭治郎の眼差しは正一に真っ直ぐ注がれていた。それを余すことなく受け止められたのはセラピストとして訓練を積んでいたからだと後になって正一は思い返す。片目であの圧なのだから、両目が揃っていたらどうなっていたことか。ともあれ彼が目を逸らさずに頷いたのを確かめ、炭治郎は視線を和らげた。
「正一くんお待たせ! 炭治郎もこれ、ありがとな」
バスケットを持った善逸が戻り、正一の背を押した。
「庭にテーブル席があるんだ。今日はいい天気だからそこで食べよう!」
弾んだ足取りの彼にぐいぐいと連れられながら、正一は炭治郎を振り返る。彼はにこやかに手を振り、仕事に戻っていった。
善逸は日当たりのいいテーブル席にバスケットを置き、その中から紙袋とポット、食器を取り出した。「俺が」と正一が手を出すのを押しとどめ、「先輩らしく歓迎させてよ」と笑う。そうまで言われては手を出すのもかえって失礼だろう。正一は礼を言ってベンチに座り善逸のサービングを眺めていた。
善逸は二つ取り出した皿のそれぞれに紙ナプキンを敷き、トングを掴む。
「さあ、どのパンにする?」
中が見えるように傾けられたバスケットの中にはとりどりのパンが詰められていた。
「全部おいしいけど、俺のおすすめはクロワッサンだよ。サクってしてて、その食感だけでおいしいから俺でも食べられるの」
善逸の言い回しを頭に留めおき、正一は「じゃあ、クロワッサンを」と口にする。善逸は嬉しそうにクロワッサンを皿に移し、ポットのコーヒーをカップに注いだ。己の皿には紙袋から出したクロワッサンを置き、ベンチに腰掛ける。善逸の皿にあるパンは正一のそれよりもずいぶんと色が濃い。試作品かとも思うが、かの青年がこのような席でそういうものを出すとも思えない。
「それじゃあ、正一くんの赴任をお祝いして、乾杯。コーヒーカップなのは許してね」
「ありがとうございます、善逸さん」
カツンとカップが軽くふれあい音を立てる。そのままひとくち口に含み、善逸はカップを置いた。
「忘れるとこだった」と呟いた彼はガラス壷から角砂糖をぽいぽいカップに放り込む。その数が五つを超えるのを目の当たりにし、正一は小さく息をついた。
過剰にも見える糖分摂取はサイバネ措置を受けた者の特徴のひとつだ。脳を酷使するため、彼らは常日頃から糖分をよく摂取する。もちろん戦闘機に接続されるときはブドウ糖の点滴が欠かせないし、日常生活においても緊急に摂取するためのタブレットの携帯が義務付けられている。
正一の視線に気づいた善逸は恥ずかしげにカップを揺らした。
「味覚が鈍くなっててさ、こんくらい入れないと味がわかんないんだよね。このパンもね、炭治郎がわざわざ俺用に味の濃いやつ焼いてくれてんの」
なるほどと正一は善逸の皿を見た。同じクロワッサンなのに色合いが違って見えたのは味付けのせいか。
「すてきなご友人ですね」
正一の素直な感想に、善逸は嬉しそうに笑った。
***
アラームが鳴り、ハッと目を覚ました正一は慌てて身づくろいし、艦内の食堂へ小走りで向かった。そこに約束のシュトレンを預けてあるのだ。短くもない航行の間に顔見知りになった食堂の給養員に声をかけ、シュトレンの入った箱と合わせてナイフと皿を出してもらう。
「テスパイさん、生還できてよかったな」
「はい、ありがとうございます」
労いに礼を返し、正一はナイフを手にシュトレンを切り分ける。今許されているのはほんのひとくち分だけだ。薄くしようかとも考えたがそれでもひとくちには多い。仕方なく薄く切った一切れをさらに三分の一だけ切り取った。
シュトレンを皿に乗せ、残りは再び箱にしまう。給養員へ箱を預け、ナイフを洗ってホルダーに返却する。そうして時計を見ると、予定時間が差し迫っていた。
正一は急いで除染室を目指す。そこでは善逸がシュトレンを待ち侘びているはずだ。
出航前、善逸が持ち込んだシュトレンに首を傾げたのは正一だけだった。クリスマスでもない時期に見るのは珍しいと思ったのだが、ここではそれは当てはまらないらしい。
聞くと、長期試験のたびに炭治郎が焼いてくれるんだと善逸は言った。
「お前のパンを長いこと食べられないのは嫌だなあって言ったらさ、長持ちするからって焼いてくれるようになったんだよね。ちゃんと感想をよこせって口すっぱく言われんの。炭治郎の作ったものがおいしくないわけないからいつもおいしいって伝えてんだけど、あいついっつもニコニコして聞くんだよね」
「ははあ、なるほど」
正一は頷いてそれ以上を聞くことはしなかった。感想を聞かせろとは、つまりちゃんと帰ってこいということだ。口すっぱく言うらしい炭治郎の内心を慮るには付き合いが足りないが、少なくとも善逸を大切にしてくれるのはよくわかった。
シュトレンが彼を引き戻すよすがになるほどには、善逸も炭治郎が大切だろうことも、今ならわかる。
「善逸さん」
正一は防護服を装備し、除染室へ入る。波動エネルギーを照射されている彼はうすらと目を開け正一を見た。
「口、開けてください」
「……ぁ」
小さく開いた口にシュトレンを押し込む。善逸は幸せそうに目を細め、ゆっくりゆっくり咀嚼した。