恋は射っても射られるな 静まった空気を引き裂くような鋭利さで雨彦の射った矢は一切ふらつくことなく真っ直ぐに的の中央、中白に突き立った。雨彦の放つプレッシャーから解放されるとどっと歓声が沸き、体育教師は静かにしろと何度も諌めた。
「葛之葉、見せてくれてありがとな」
騒いでいる間にクラスの列に戻ることもできず手持ち無沙汰にしていた雨彦は調子に乗ってふざけたりすることなく表情一つ変えずに列に戻った。クラスメイトに凄い凄いと囃し立てられるのを流す横顔はいつも通りだが、内心は上手くできて良かったと胸を撫で下ろしていた。
今日は隣のクラスと合同での体育で、しかも、男女混合なのだ。運良く雨彦は玄武と同じ弓道のグループになれた。だが、どこで聞きつけたのか弓道ができると知っていた体育教師が授業開始早々に雨彦に対し、みんなの前でお手本を見せろと言われた。この時ばかりはもう一つのゴルフのグループが良かったと思ったが、くじ引きなのでどうしようもないことだ。やるからには彼女の玄武に格好良いところを見せたいと、教師からの申し出を了承し久しぶりに弓を手に取った。
体育の授業といっても種目が変われどもやることは同じだ。教師は最低限の説明のみで一部の生徒にしか詳しく教えることをせず、結局は各々が自由に競技に打ち込んだり、打ち込まなかったりする。この時間も結局今までの体育となんら変わりなく、各々好き好きにしている。だからこそ玄武の傍へ行きたい雨彦を阻むように、男子達が教えろ教えろとじゃれてついてきた。それを無碍にも出来ず一人一人を見てやることにした。
玄武の近くに行けた頃には、彼女はほとんど出来ている状態で内心ガッカリしてしまう。自分が手取り足取り教えてやりたかったというのに、玄武は高い精度でたびたび中白を射っている。落胆する雨彦だったが、おせっかいな女子が雨彦に気付いて声を上げる。
「玄武、葛之葉来たよ」
すると構えをとき、雨彦に微笑んでみせた。そうなると引き下がるなんてできず、近くに行かざるを得ない。周囲の優しい視線に居心地の悪さを感じつつ、玄武の隣に行く。玄武も同じように居心地が悪いのか髪や弓に触れて気を紛らわせている。
「雨彦、さっきの格好良かった。弓道習ってたのか?」
「昔、ちょっと…」
家の修行で弓道も教え込まれたが、まさか彼女に格好良いと褒めてもらえるきっかけになるとは思わなかった。内心嫌々だったが、しっかり身につくまで取り組んだ幼い自分を褒めてあげたい。
「でも、黒野も上手いと思う」
「俺のは本で読んだ知識の受け売りだ」
それでも読んだだけの「知識」を体で「再現する」ことは、誰でもすんなりと出来ることではない。やはり玄武は身体能力も高い方なのだろう。
「せっかくなんだし教えてあげなよ」
またも余計な茶々が入り二人は互いに断ることもできず、気恥ずかしい空気の中で教えることになった。何からすれば良いのか分からない雨彦はとりあえずの提案をする。
「えっ。そう…だな。一回やるから見てもらえるか?」
「ああ、そっちの方が話が早そうだ」
玄武は一息ついて気を沈めると前を見据えると弓を引く。つい数秒まではにかむ可愛らしい彼女だったというのに、真っ直ぐに前を見据える姿は氷でできた花のように冷たいが見惚れるような美しさだ。
現に雨彦だけでなく周囲の女子達はうっとりとして玄武に目が釘付けだ。そっと手が離れると冷気すら纏っているような矢が放たれ、少し放物線を描きながらも素早く突き刺さる。構えを解いた玄武はすでに可愛い彼女に戻っていた。
「…ど、どうだ?」
本で読んだ知識を最大限にその身体で再現しているのが分かるほど、玄武の動きはほとんど荒がない。弓道を専門としていない体育教師や弓道部ではない生徒が指摘できる箇所はあまりないだろう。雨彦は「経験者」としての目線で指摘を挙げていく。
最初はただ軽く手に触れたりするだけの軽い教え方だったが、直せばしっかりと効果が出るのが面白くなり雨彦はいつの間にか熱が入って、ついには後ろに立ち二人羽織のように玄武の手の上に自分の手を重ねて体の動きを教えていた。
そうなると玄武の集中力はすっかり途切れて、意識は全てすぐ後ろの雨彦に向かってしまう。
時折体が重なり雨彦の細くも男らしい筋肉をまとった堅さのある体を感じてしまい玄武は息を飲む。しかし、指導に夢中になった雨彦はたじろいだ意味に気付くことができない。
「黒野、ちゃんと前見ろ」
言い聞かせるようにあえて小さな声で耳元で話されてると今度は身悶えしそうになる。熱心に教えてくれているのに、体を離してくれだなんて言うことはやましい気持ちがあることを認めてしまうし、雨彦に引かれてしまうだろうと悩む玄武に雨彦は一向に気付かない。伝えることができないのであればと、そっと雨彦の体から自分の体を離した玄武だったが、雨彦の目には形が崩れたように映ってしまった。
「姿勢が悪い。俺の体にもっとくっついて」
離そうとしたのに、雨彦の手によって再び体を密着させられてしまい、ついに叫びそうになる。が、喉元まで出かかった嬌声をぐっと堪える。これは早く射って雨彦を満足させるしかない。そう心に決めて前を向く。
「そう、前の的の中心だけ見て…弦に指をかけて…呼吸を整えて…」
耳元で囁かれながら手の動きを操られると、なんらやましい行為ではないというのに、強烈に恥ずかしい行為をさせられている気分になる。それと同時に雨彦に体を明け渡すこの状況に甘やかに酔ってしまいそうだ。
ピッタリと寄り添い雨彦は自ら射るときと同じように的の中心を見据える。鼻先が玄武の髪をかすめたその時だった。
楚々として香る花のような石鹸のような玄武の香りがぶわりと雨彦の体内を巡り、急速に密着した彼女の柔らかな体と少しだけ低い体温を意識した。
彼女と密着している….!
凪のように静まっていた心が瞬く間に大氾濫する。
黒野のお尻が当たってる!手も握ってる!艶々の黒髪から良いにおいがする!耳が真っ赤で可愛い!
雨彦の中の男子高校生の抱える猛る本能と興奮が渦巻き暴れて、手が付けられない。
玄武の限界値を迎えて行き場を無くした羞恥心と雨彦への恋心と、雨彦の青臭いリビドーと「カノジョ」への直情的な想いが矢に待って、まさに暴発のように矢が放たれる。
玄武と雨彦の全ての想いが乗り移った矢は、今までの二人が射ったとは思えない程に大きくブレて、それでも不条理に速く、的から大きく離れた壁に深々と突き刺さった。
ようやく射ることができた二人は、はっはっと高揚した頬で荒く呼吸をし残心どころではない。どこか官能さすら匂わせる空気に終始食い入るように見つめていたクラスメイト達は生唾を飲んだ。
「に、二人羽織で教えるなんてコーチ気取りで慣れないことするから上手く行かなかったな…」
「あんなに外れたの初めてだ」
色付いてしまった空気を誤魔化すように二人は笑うが、雨彦は早口で口数も多く、玄武は俯きがちに髪を弄るので返ってその空気を強くしていることに気付けない。
体育教師の集合の呼びかけに、これ幸いと、この収集が付かなくなった空気から全員逃げ出すように駆け出し、二人は取り残されてしまった。
「教えてくれてありがとう」
「あ、あぁ…」
ぎこちなく、それでも嬉しそうに笑顔を向ける玄武にまた香りや柔らかさを思い出していた雨彦は誤魔化すように何度も頷いた。
その日の放課後、いつも通り並び立って歩く二人だったが、会話はいつもよりぎこちなかった。それでも二人の手はしっかりと指を絡めて握りあっていた。