兎の登り坂起きる時間が近くなり半覚醒した俺の耳はとんとんと頭近くで蠢く小さな足音を拾う。少し跳ねては立ち止まりまた少し跳ねて俺に近づく。起きなくてはなと思っていると、俺の胸は押されるような少しの圧迫感を覚えた。
「おはよう、黒野」
俺の胸に登って見下ろしている黒兎に挨拶すると、黒兎の黒野は鼻をひくひく動かした。
黒野は半年前ほどに保護した黒兎だ。雨の日にカラスに虐められているところを助けて、そのまま成り行きで面倒を見ることになった。
黒野に起こされた俺はお望み通り餌皿にウサギ用の餌を入れる。
「ほら、餌だぞ」
黒野は普通の兎よりやや大きめの部類に入るが、大人しく物覚えの良い手のかからない兎だ。あまり俺に構うことを催促しないし、最初こそ滅茶苦茶に暴れられたが今では抱き上げても大人しくしてくれる。
黒野が文句言わずに餌を食べているのをしばらく眺めてから、自分の分の朝食を準備する。トーストとコーヒーを持ってソファーに座り新聞を広げると、餌を食べ終えた黒野が急いでソファーによじ登り俺の膝の上に陣取る。
「お前さんは本当にこれが好きだな。どれ、何面が読みたいか言ってみな」
揶揄うと黒野はじとっとした目で俺を見上げている。どうやら馬鹿なこと言ってないで早く捲れという催促らしい。
「悪かったよ」
あまりにも人間臭いその表情に思わず苦笑して謝ると、黒野は小さな瞳を俺から新聞に戻した。
黒野は不思議な兎だ。本や新聞が大好きらしく俺がそれらを読もうとすると、急いで寄ってきて俺の膝の上に乗って来る。最初はページを捲る時の音や紙の動きに反応しているのかと思い、新聞を割いて作った玩具で音を鳴らしてみたが何も興味を示さなかったのでそうでは無いようだ。さすがに内容を理解しているのかまでは分からないが、黒野は俺と一緒にじっくりと新聞を見つめている。
新聞を読み終わるとほぼ同時に洗濯機が鳴ったので俺は黒野を膝から下ろして洗濯物をとりに向かった。
洗濯物を干し終えた俺の周りをくるくると跳ね回って出かける時間だと教えてくれる。
「おや、もうそんな時間かい」
スマートフォンを確認するとプロデューサーから迎えの電話が来ていた。黒野をキャリーバッグに入れて下に向かう。
「おはようございます、雨彦。おや、今日は黒野さんも来たんですね」
先に楽屋に来ていた古論は今日もどこかの海を潜ってきた後らしくどこか磯の香りをさせている。黒野を世話し始めてからときおりこうして仕事に連れて行くのだが、古論はよく面倒を見てくれる。黒野も古論や北村、プロデューサーには信頼しているようで、今も古論に挨拶するように耳を動かした。
それからやや遅れて北村がやって来た。時間ギリギリになるとは珍しいなと思っていると、北村に左手には見慣れないものがあり、それはモゾモゾと動いたと思いきや激しく上下に揺れたりする。
「おはよう。時間ギリギリになっちゃったよ」
「おはようございます、想楽。心なしか少し疲れてるみたいですけど大丈夫ですか」
確かに北村は楽屋に着いたばかりというのに少し疲労しているようだ。今日は日曜日なので大学は無いはずなのだが。
「うん、ちょっとね。雨彦さん、黒野くん連れてきてるね。良かった」
そう言うからには、黒野に何か特別な用があると言うのだろうか。北村は先程から独りでに動く見慣れない荷物をテーブルに置いたので俺と古論はそれを覗くと、中に赤と黄色の毛をもつ珍しい兎が所狭そうに動き回っている。
「想楽、これは」
「うん。ちょうど一週間前にうちで飼い始めた子なんだよ。って言っても、譲り受けた感じなんだけど」
どうやら北村が言うには、元は北村の母親の知人である老夫婦の元で飼われていた兎だと言う。その老夫婦のご主人が入院することになり残された1人では面倒を見るのが難しくなってしまったという。それを不憫に思った母親が譲り受けたというわけだ。
俺は黒野しか知らないので他の兎事情はよく分からないが、老婦人1人で見きれないほどなのかと聞けば、この赤毛の兎はとても元気が良いらしく北村も家に来た時は吃驚したという。
「今日の朝も僕が連れて行こうとしたら、追いかけっこが始まったって勘違いしちゃって、もう大変だったよ」
だからそんなにも疲れていたのかと俺と古論は納得した。こうしている間にも彼はずっと動いている。
「名前はなんと言うのですか?」
「紅井って名前なんだ。黒野くんみたいで笑っちゃったよ」
「紅と黒でペア感がありますね」
「でしょ?だから、仲良くなれないかなって連れてきてみたんだ」
そう言ってキャリーバッグを開けようとした北村に俺は待ったをかけた。手を止めて不思議そうに俺を見る。
「なあに?」
「兎は縄張り意識が強い動物だと何かで見た。ましてや雄同士だ。いきなり会わせて喧嘩にでもなったら大変じゃないか」
今のところ黒野はソファーで大人しくしているがパニックになったり、興奮した相手に触発されて敵対心が焚き付けられては双方にとって良く無いだろう。
「ああ、そっか。お互い喧嘩になったら可哀想だね」
北村もすぐに理解してくれ、会わせるより知らないところに来て興奮状態の紅井を落ち着けてやることを優先した方が良いとして、黒野をキャリーバッグに入れて紅井が来れない様な高いメイク台の上に移動させてから紅井を出した。
紅井は納得の元気の良さだった。長毛の赤と黄色の毛がすばしっこく移動する様は炎のようだ。俺と古論の足元や部屋の端から端にを高速で移動して観察してまわっている。
「彼はマグロやトビウオのようですね。気をつけないと踏んでしまいそうです」
「そうなんだよね。いつの間にか足の下に滑り込んでたりするし」
「でも存外人懐こいんだな」
あまりに積極的に人に近付かない黒野とは対極的に紅井は臆する事なく初めて会う俺や古論に近付いて来る。
「それはきっと前の飼い主2人に凄く可愛がられてたからだね」
ご老人2人に可愛がられていたなら、さぞやベタベタに甘やかされていたのだろう。黒野より小柄だが黒野よりちょっと肉付きが良いのが愛されていたことを物語っている。
忙しなく動き回っていた紅井だったが、やがて黒野のいるメイク台の下で上を向いたまま動かなくなってしまった。
「自分以外の兎がいるって気付いたみたいだね」
「落ち着いたみたいだし、キャリー越しに見せてみるか」
俺がキャリーバッグを覗くと黒野は相変わらず大人しくしている。紅井が気付いて黒野は気付かないということはないだろうから、紅井がいることに気付いているがそれでも騒ぐことなく大人しくできているのだろう。
「お前さん以外の兎に会ってみるかい」
そう聞いてみると、背後で北村が小さく笑ったのが聞こえた。なんだ、と言う代わりに視線を向けると北村と古論はニコニコしている。
「雨彦は黒野さんを大切にしてるんですね」
「家でもそんな感じで黒野くんに話し相手になってもらってるのよく分かったよ」
どうやら微笑ましいと思われているようだ。むず痒くなるような居心地の悪い視線を無視して、俺はキャリーバッグを紅井から少し離れたところに置いてみた。すると、やはり素早く紅井が飛んできた。
「観察してるのかな?」
「どうでしょうね。敵意はお互いなさそうですが…」
確かに古論が見ている通り紅井はウロウロとバッグの周りを回っては、中の黒野を覗き込んで何処となく会いたそうにも見える。黒野も珍しく紅井に興味があるのか目で追っている。
「もう少しこのままで様子を見るか」
打ち合わせの開始時間が近いが、このまま2羽を自由にさせて目を離した隙に喧嘩でもしていたら大変だ。本当は紅井もキャリーバッグの中に入ってもらうべきなのだが、こちらは中で暴れてキャリーバッグごと転がりかねないので仕方なく自由にするしかない。黒野には悪いがこのまましばらくキャリーバッグにいてもらおう。
「黒野、すまないがもう少しそこで大人しくしていてくれ」
中の黒野に話しかけたつもりだったのだが、また後ろで北村と古論が笑ったのが分かった。
「黒野さん、紅井さん、ただいま戻りました」
俺たちが楽屋に戻ると出た時と変わらず紅井は黒野の前にいる。
「お前さん、そこから動かなかったのか?」
「よほど黒野くんを気に入ったのかな」
これなら直接会わせてみても良いのではないかと他の2人も思ったようで、俺はキャリーバッグから黒野を出してやる。紅井はよほど嬉しかったのか目の前に放された黒野にすぐに自分の鼻を押しつけて挨拶していた。
「紅井さんは情熱的ですね」
「凄いね、まさか本当に仲良くなれるなんて」
黒野も嫌ではないどころか紅井を気に入っているらしく、自分からも紅井に挨拶をし返しているようだ。喧嘩する素振りもないことに俺たちは一安心した。
紅井と黒野は予想以上に相性が良かった、いや、良過ぎたらしい。それを知ったのはたまたまソロでの仕事が続いたある日のことだった。その日はオフで俺は例の如く黒野を膝の上に乗せて新聞を読んでいた。
すると珍しく電話が鳴ったのでプロデューサーだろうと思い何の気も無しに出てみると、意外にも北村からだった。
「雨彦さん、お休みの日にごめんね」
「どうした。電話なんて珍しいじゃないか」
そう不思議がる俺に北村は苦笑すると、あのさー、と珍しく真剣みを帯びた低い声を出して続けた。
「今から雨彦さんの家行っても良い?」
「どうした?」
「うん、紅井くんが元気が無いんだ」
「元気が無いのに連れてきて良いのか?」
「クリスさんに相談してみたら会わせてみるべきだって言われて。クリスさん曰く、紅井さんは黒野さんと会えない日が続いて落ち込んでるんじゃないかって」
「古論は生物学者もいけるんじゃないか?」
電話の向こうで、クリスさんは勉強熱心だからねーと笑う声がした。その古論の説に俺は乗る事にし、北村に紅井を連れてきてもらうことにした。1時間後、北村と仕事先で合流した古論の2人が俺の家にやって来た。
「お邪魔しまーす」
靴を脱いであがる北村の手にはちゃんと紅井が入ったキャリーバッグがある。しかし、肝心の紅井はすっかり丸まっており、毛艶もなんだか悪そうだ。
「確かにこいつは心配になるな」
「でしょー?家でも隅の方でこうやって落ち込んでるんだよね」
家で北村と古論の声がするのを不思議がった黒野はソファーから降りてきて、声の通り2人が家に来たことを確認しに来た。
「おや、黒野さん、こんにちは。黒野さんは元気そうですね」
「ああ」
俺と古論の気が黒野に向いた時、北村が驚いた声を微かに上げた。視線を北村に戻すとピクリともしなかった紅井が早く出してくれと言わんばかりに中で暴れているではないか。
「今、出してあげるから」
急かされるように北村が床にキャリーバッグを下ろして、バッグの口を広げるとロケットのような瞬発力で紅井が飛び出した。
「頭突きされるのかと思ったよ」
恐らくすんでのところで避けられた北村が呆気に取られるのも無理はない。俺も何かあったときに黒野から引き離せるように紅井を見ているつもりだったが、飛び出たのを最後に俺は目で追えることが出来なかった。
「紅井さん、やっぱり寂しかったのですね。一目散に黒野さんのところに行きましたよ」
古論が見守る先には黒野の顔の下に頭を入れて甘えている紅井がいた。黒野も紅井が心配だったのか紅井の顔を慰めるように舐めてやっているようだ。
「こんなに黒野くんと会いたかったんだね」
「本当に仲が良いようですね。兎は雄同士が仲良くなれることはまず無いらしいです。だから、黒野さんと紅井さんはとても希少な例です」
いつの間にか黒野の兎用ベッドに2羽でぎっちりと入って、お互いの顔を舐めたり鼻をこすりつけあったりしている。その様子が俺にはどうも仲が良いだけでは無いように見えるのだが、人間として邪推のしすぎだろうか。
そう思うのは北村も同じようで、少し困っているようだ。
「クリスさん、兎にも同性が好きとかってあるの?」
「聞いたことはありませんけど、イルカでも雄同士のカップルはいますから特段驚くべきではないでしょう」
そういう古論は学者の顔をしているので妙な説得力があり、俺も北村も思わずつられて冷静になり仲睦まじい2羽を気遣い、邪魔な人間たちは外食しに行こうという空気になっていた。
「紅井くん、僕達、外でご飯食べてくるね。その間、仲良くしていてね」
そう声をかけてくれた想楽さんは他の2人を連れて靴を履いて外へ出て行った。ドアが閉まって3人の気配が遠ざかるのがわかった。これでこの部屋には俺と玄武だけだ。
「玄武、想楽さん達出かけちまったぞ」
「食事に行っただけだ。そんな遅くならないはずだ。それとも…」
玄武は俺にずいっと顔を近づけてきた。
「俺と2人きりは嫌か?」
「そんな訳ねえだろ!玄武と2人きりの時間が過ごせるなんて嬉しいぜ」
俺が堪らず玄武の頬にキスをすると玄武は嬉しそうに笑った。笑った玄武は可愛くて大好きだ。
玄武は想楽さんと同じ「ユニット」にいる雨彦さんに飼われているオスの黒い兎だ。黒いツヤツヤした毛に灰色の瞳を持っていて、とても男前だ。右目の上には雨彦さんに拾われる前におった傷があって玄武はそれを気にしているようだが、それも俺から見たら格好良く思える。
「玄武」
名前を呼んで顔を擦り付けると玄武は嫌な顔ひとつせずに俺にぴったりと寄り添ってくれる。クリスさん曰くオス同士でこんなにも仲良くなれるのは稀らしいが、それならきっと俺と玄武はきっと運命ってやつで結ばれているはずだ。最初会った時から同じオスとして格好良いと思っていたし、それは玄武も同じように俺を格好良いオスだと思っていてくれた。
「なあ、俺たちって番にはなれねえって本当なのか?」
これだけ気が合うのに俺と玄武はオス同士だからって理由だけで番になることはできないらしい。最近そのことを知って俺は凄くショックだった。こんなに一緒にいたいと思っているのに、オス同士という理由にそれが叶わないだなんて、とても悔しい。
「ああ、なれねえな」
「そんなにアッサリ否定すんなよ!」
俺は番になれないことを一緒に悲しんでくれることを期待していた訳では無いが、もう少し残念だと思ってくれることくらいは期待していた。しかし、そもそもアッサリ否定するということは番になりたいという思いは俺の一方的な願望だったのだろうか。
「俺たちはオス同士なんだから仕方ねえだろ」
「でもよぉ…」
「番になれないなら相棒になれば良いのさ」
アイボウ?俺は耳慣れない言葉に首を傾げる。
玄武は頭が良い。俺の知らない言葉やモノをたくさん知っている。だから、今言った「アイボウ」も俺が知らない番に代わるような特別な関係を表す言葉なのだろうか。
「相棒は強い絆で結びついた仲のことだ」
「それって番じゃねえのか?」
「オス同士だろうとメス同士だろうとオスメスだろうと相棒になるには性別は関係しない。もっと言えば人と俺たち兎でも相棒関係になれる」
相棒になるに性別も種も関係ないと言う玄武の言葉に俺は番よりも心惹かれるものがあった。何より玄武が俺との間には強い絆があるとと言ってくれたのが嬉しかった。
「どうだ?」
「おう!俺、玄武の相棒になるぜ!」
すぐに返事をした俺に玄武は優しく目を細めた。きっと相棒になると俺が言ったことが玄武も嬉しいのだろう。玄武が嬉しいと俺ももっと幸せな気持ちになる。
「じゃあ、これからもよろしくな。相棒」
俺と玄武は顔を寄せ合ってお互いの温もりを感じては笑い合った。
「本当に仲が良いんだね。くっついて寝てるよ」
帰ってきてもなおベッドの中で体を寄せ合って眠っている2羽に微笑みながら北村はスマートフォンで写真を何枚か撮っている。
「このまま起こすのも可哀想だし、今日は紅井くんを預かってくれると嬉しいな」
「ああ、構わないさ。今無理やり引き離せば黒野に蹴られかねない」
話を聞いていたのかその大きな耳が聞き逃さなかったのか、黒野が目を覚ましてモソモソと北村に近付く。
「黒野くん、今日は紅井くんを泊まらせてくれるかな?」
律儀に黒野に許可を得る北村に対し、黒野は北村の足元をくるくると回りまたベッドに戻っていった。
「どうでした?」
「分かったって」
了承を得た北村は紅井のキャリーバッグを置いて、古論と共に帰っていった。人間よりも兎の方が多くなった俺の家は俺の家であるはずなのに、俺の方が居候の身に思えて一人で笑ってしまった。