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    エヌ原

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    SideMの朱玄のオタク 旗レジェアルテと猪狩礼生くんも好きです 字と絵とまんがをやる

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    エヌ原

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    スチパン朱玄の1話目。にゃんす出てきます

    #朱玄
    zhuXuan

    幻燈 黒野が長い脚で蹴り立てた扉は、蝶番を吹っ飛ばして倒れ、その衝撃で埃が朦々と舞い上がった。焦げたような粘膜を焼く臭いに紅井は顔を顰める。
     埃の嵐が収まり懐中燈が照らしだしたのは、とても玄関とは思えない光景だった。趣味の統一されない高級そうな家具が所狭しと肩を並べ、合間合間に蚤の市で見るようなガラクタやグシャグシャに丸められた油紙がねじ込まれている。天井からぶら下がるのは照明器具や鳥の剥製、双翼機の模型だ。全てが過剰で空間に隙間がない。ただ一筋だけ、奥へと誘いこむ通路が獣道のように空いていた。
     紅井は黒野の背後から回り込んで部屋に足を踏み入れる。獣道から一歩はずれて、油分と埃で黒ずんだビロード張りのソファと低い机の合間に脚をひねり入れると、少し離れたところでなにかが崩落する音が響く。続いて朱雀、と咎めるように名を呼ばれ、紅井は大人しく身を引く。コートと手袋は見事に汚れ、足元には靴底の跡がクッキリと残っていた。少なくとも数週間、獣道以外は使われていない。
    「玄武、行くか」
     全身の汚れを払いながら尋ねると、黒野は応えず用心深く部屋を見回した。掲げられた小さな燈が揺れ、壁に落ちる影が揺れた。紅井が落とした何か舞いあがらせた塵が、煌めきながらゆっくり落ちようとしている。
    「入るっきゃねえな。疾うにトンズラしてるんだろうが!」
     吐き捨てるような口調が黒野なりの昂奮の現れであることを紅井は最近覚えた。この若い警部の青臭さは怒りや苛立ちとしてしか発露しない。
    「煙くてしょうがねえよ、お前、鼻は大丈夫か?」
    「俺がダメなのは猫だけだ」
     燈火で眼帯に嵌め込まれたレンズがギラリと光る。へいへい、と紅井は歩を進めることにした。何か仕掛けられていたとして、自分が死ぬほうが損失が少ない。



     今朝の定例会議で、黒野はいつも通りに先頭の席で踏ん反り返り、眼帯のない片目を眇めて同格の警部である捜査課長らを睥睨していた。彼の頭は手帳要らずと噂される通りの出来で、会議の最中は一切の記録をとらず質問すらしない。ひたすら昨日の捜査の成果を聞き、己の報告は行動範囲と明白な新事実だけに留める。根は図太いはずの紅井すら肩身が狭く感じるが、黒野と行動を共にするようになってから九ヶ月、態度が改まる気配はひとすじもない。
     会議は警視庁本庁の抱え込む問題の共有を目的としている。帝都にいれば必ず見聞きする小競り合いの報告が続く。国内外で人の行き来が増えたことで事件は急増し、本庁は常に人員不足だ。街場で自警団まがいの集団を率いていただけの紅井が、曲がりなりにも巡査の肩書きでこの場にいるのはそれが理由だ。
     議題はようやく巷を騒がせる盗賊団に移り、紅井は姿勢を正した。紅井と黒野はこの盗賊どもを追う特務班の所属だ。義賊を名乗る彼らは金持ちの屋敷から金品、とくに美術品を盗み出して闇市場で売りさばき、上がりを貧民にばらまいている。首班は鼠小僧ならぬ怪盗猫柳を名乗る男で、事件後には新聞社にふざけた文面の犯行声明が送りつけられるのが常だ。
    この盗賊を当初警視庁は他のコソ泥と同格に見ていたが、三ヶ月前に海軍大臣別邸、大蔵大臣本邸、大銀行の頭取の貸し金庫、警視庁の高官宅と四件の大規模な盗みを働かれてさすがに目の色を変えた。流言の類では国家予算規模の損害が出たという。
     紅井は支給の手帳に大まかな字で報告を書き留める。
     曰く、港付近の市場で一味と思しき長髪長躯の麗人が目撃されている。同じ頃に帝国劇場前にて着飾った不審な男が子供相手に手品を見せていた。蚤の市で犯行に使われた印度麻の縄が売られているのが確認できた。
     推理の苦手な紅井からしてもろくな情報が上がらない。麗人とやらは報告数の割にすべて噂止まり、着飾った男とてこの不況で大道芸人ばかりの公園に何人いることか。縄に至っては購入者をいちいちあたるわけにもいかない。
     早々に飽きた紅井は腹に手をやって愛猫がいないことに気づく。会議が始まった頃は股座で寝転がっていたが横目で見る範囲に姿はない。蟻一匹通さない警備のはずが猫を好き勝手にうろつかせるのだから、本庁は本当に人が足りない。何か食べ物でもないかとポケットに手をやるとガサリと音がしてクシャクシャになった〈ぎぞく ひゃくとおばん〉のチラシが出てくる。不定期に変わる電信の宛先と下手な猫の絵が描かれたガリ版刷りのものだ。散々にバラ撒かれた証拠品は今や回収すらされなくなった。
     右隣の黒野は相変わらず不機嫌そうな顔で黒板を睨んだまま、報告を求められて「成果なし」と口にし、進行役は虎の尾を踏むまいとしてか追加の言及を求めなかった。

     何の成果もない極めて退屈な会議が終わり、刑事たちは各自の机に戻る。形ばかりの点呼を終えて休憩だと上着を脱ごうとした紅井を黒野が腕を掴んで止めた。
    「なんだよ」
     問いかけに答えず黒野は背を向けてツカツカと部屋を出ていく。すぐさま後ろから同僚たちの潜めた笑い声が聞こえる。
     所轄での働きが認められ本庁に配属となり、すぐ黒野と二人組になれと命じられ、そのあと御愁傷様と続けられた。あの一匹狼は誰の話も聞かねえ、人使いは荒いし平気で危険を冒す。昇進が早いのは相当ヤバいことやってるらしいが、あの性格じゃあ上に潰されるだけだ。前の相手? 乱闘に突っ込まされて鎖骨折ったぜ。お前も精々気をつけろよ。
     というわけで紅井は初顔合わせの前に実家に手紙を書いた。前略お袋様、オレは死ぬかもしれねえ。
     実際のところ心配はまったく不要だった。黒野は確かにやたらと指示だけ出して独りで動きたがるが、それに対する紅井の直球の意見を蔑ろにするところはない。訊けば噛み砕いた注釈を加え、細々した現場でのコツもそれとなく見せてくれる。捜査のところどころで無駄足も踏むが、その分は聞き込み量と推測で補って余りある。黒野は癖が強いだけで、間違いなく情熱的で有能な刑事なのだ。無策だが動けと言われればいくらでも動ける自分とは相性もいい、と紅井は思っている。
     コートに袖を通し、薄っぺらい財布とライター、煙草、身分証を確かめて部屋を出る。廊下で併走してきたにゃこを拾い、どうにか相棒に追いつく。黒野は丁度門前で車を拾っているところだった。
    「どこ行くんだ」
    「いいから乗れ。それから車内ではにゃこを死んでも俺に近づけるな。というか置いていけ」
    「まだ朝飯食わせてねえんだよ」
    「それなら目的地で放せ。どうせ寮に戻ってくるだろう」
     車を拾うような距離で無茶を言うが、確かににゃこはどこからでも平気で戻ってくる。紅井は一度オレ以外に足にしている奴がいるのかと問い詰めたことがあるが、愛猫は素知らぬ顔をしていた。
     車に乗り込みにゃこを黒野の反対側、扉と己の体で挟むように抱え込む。黒野は運転手にここから十分ほど離れた交差点の名を告げた。背を預けた座席が震えて車が走り出す。午前中の帝都は交通量が少なく、排気も減るので空が綺麗だ。手の内に乾き餌を零してにゃこに与える。運転手がちらりと見咎めてくるが無視した。
     黒野は黙って車窓の外を眺めている。紅井の側からは眼帯に隠されて表情は分からない。その上に刻まれた古傷のことを、紅井はまだ訊けないでいる。

     目抜通りの交差点で二人が降車すると、にゃこは紅井の腕を振りほどき敷石の上を駆けて消えた。黒野は黙ってそれを見送り、反対側へと歩き出す。
    「ここらへん、お前んちの近くだろ」
    「今日の目当ては違う、アジトだ」
    「誰の」
    「奴らのに決まってんだろう」
     黒野がサラリと口にした言葉に紅井は二の句が告げない。今朝の会議の報告は嘘か。つい咎めるような視線を投げてしまう。
    「あの席の有象無象に聞かせる意味はねえ」
    「いや、なんだ、報告義務とか」
    「そこの百貨店の従業員が額縁の掃除に使う道具を求めた背の低い男を覚えていた。その後従業員が昼食に出た際に、リストランテの裏の屋敷に入る男を目撃した。よってこれから強行捜査に出る」
    「マジかよ!? なんでオレに」
    「嘘八百だ」
     再度絶句する紅井に黒野は片頰を歪めて、さらに足を速めた。

     アジトらしき建物はリストランテのさらに奥、脇道に逸れて小料理屋や居酒屋を通り過ぎた路地にあった。外観は最近流行りの洋風建築、2階建てで路面にバルコニーがはりだしている。玄関周りはしばらく手入れされた痕跡がなく、白壁に雨垂れが煤の後を残している。窓硝子はすべてステンドグラス仕立てで割って入れるようなものではない。
    「マジでここなのかよ」
    「昨日運搬業者から話を聞いた。大量の家具の移動を依頼されたらしい。中には美術品もある」
     紅井は「話を聞いた」方法にはあえて触れずに、咥えていた紙巻き煙草を落として屋敷を見上げた。飾り柱を伝ってバルコニーまで登れないこともないが、ハズレだった場合のリスクが大きい。
    「どうすんだ」
    「チマチマしたやり方は好きじゃねえ、正面から行く」
     そう呟いた黒野が火のついた葉巻を投げ捨てて玄関前に立ち、おもむろに扉を蹴りぬいたところで話は冒頭に戻る。



     屋敷はいわゆる鰻の寝床で、玄関のホールとも呼べない小さな空間から廊下へ、獣道はまっすぐ奥に続いていた。罠がないかと細々した確認をしながら進む。左右にある小部屋に通づるだろう扉は、すべて家具や古ぼけたポスターで塞がれている。紅井が中を調べるかと聞くと黒野は首を横に振った。
    「ここまで仕立てといて寄り道はねえ、奥だ」

     行き着いた部屋はこれまでと同じように家具とガラクタで埋まっていた。全ての窓は雨戸ごと閉じられ、燈りは黒野の持つ懐中燈だけだ。天井からはたくさんのモビールとシャンデリア、右手には古ぼけた長椅子、その上にはアラベスク織りのカーテンが無造作に投げかけられている。左手には雑然とした部屋の中では整って見える書類棚があった。そして真正面には一組の机と椅子があり、部屋の突き当たりの化粧箪笥の上に、蓄音機がこれ見よがしに置かれている。
     紅井がキョロキョロと周囲を見回す間に黒野は書類棚に近寄り、用心深く抽出しを開けて小さく舌打ちをした。紅井が横から覗き込む。黒野の手にあったのは義賊の“活躍”を伝える新聞記事の切り抜きだった。
    「コレクションかよ」
    「自慢話だな」
     黒野が書類棚を探る間に紅井は蓄音機の置かれた化粧箪笥に近づく。磨き抜かれた艶が埃の層の下からうっすらと見える。これもそれなりに高級品なのだろう。抽出しの取っ手にかけた指先に細い糸のようなものを感じたのと、「触るなバカ野郎!」と叫ぶ声が聞こえたのが同時だった。
     瞬間、何かが破裂し、視界が煙で埋め尽くされた。熱くはない。だが猛烈に煙たい。
    「玄武!」
     思わず相棒の名前を呼ぶ。怪我は。俺のせいで。呼吸するたびに喉奥に何かが張り付いて息苦しい。視界を確保しようと無闇に腕を振り回す。煙が切れたところで手首を掴まれた。いつもの革手袋の感触に紅井はほっと息を吐く。
    「落ち着け、爆発でも毒でもねえ」
    「あぁ?」
    「キネマの特効で使うやつだ。風船にでも詰めてあったんだろう」
     見上げるとシャンデリアから無残に破けた風船だったものがぶら下がっていた。紅井の引っ掛けた糸はあれに繋がっていたのだろう。
     噎せながら撫でつけた髪を払うと、白い細かい粉が際限なく落ちる。黒野は不愉快そうに眉根を寄せた。
     部屋中に舞い散った粉は自重でゆっくり落下していく。さっきもこんな風景を見たと紅井は漠然と思う。
    「一歩間違えりゃ粉塵爆発だぜ、いい趣味してやがる」
    「クッソ、粉まみれだ! 悪ぃ……」
    「こりゃあ帰りは歩きだな」
     黒野は肩を払うと、蓄音機に設置されたレコードを取り上げた。
    「おい」
    「こっちは聞かせるためだ、何もねえ」
     ラベルを改め何も印刷されていないことを確認すると、ご丁寧に用意された毛バタキであらかたの粉を落とし、レコードをテーブルに置き直して電源を入れる。ブツブツと濁った破裂音がした後に、浮かれた行進曲が流れはじめた。場に似合わぬ陽気さに黒野は眉を顰めるがそれも声が流れるまでだった。
    《ヤァヤァ警察諸君、ワガハイこそは名をば天下に轟かす大怪盗団の首領猫柳!》
     少年と言ってもいいだろう透き通る声音は録音の質が悪いのかざらつき、時折例の破裂音に遮られる。
    《今回もご多用中にこんな裏手の小屋敷までご足労痛み入る、だが一手打つのが遅かった、ワガハイらは既に逃げたので今回も諸君の負けである、お気の毒に。さて、諸君への頼みごと、ぜひお聞き届け願いたい。上手に見えたるは、ワガハイらがとある屋敷にて発見した正真正銘の真作。然るべき施設にご寄付いただけるよう、警察諸君の真摯な対応に期待している》
     黒野は長椅子に近寄り、重みのあるカーテンを捲り上げた。現れたのは豪奢な額縁に彩られた絵画やブロンズ像数点だった。黒野の目つきが変わるのが分かる。
    《では、再度まみえる日にはまた楽しき頭脳戦を!》
     プツリと音を立ててレコードが静まる。紅井は電源を切って、長椅子の前でしゃがみこんでいる黒野に近づいた。
    「本物だ」
    「マジかよ」
     黒野はブロンズ像の土台の作りがどうだ、画家のサインがどうだと説明するが、紅井に審美眼はない。ひとまず現場保存をと半開きのままだった書類棚を元に戻す。と、黒野の怒声が部屋に響いた。
    「猫畜生が、折角の好機がコソ泥共のせいで台無しだ!」
     黒野は目に見えて苛立ち、長椅子の隣に積まれた小机の山を蹴り飛ばした。連鎖して物が崩れる音が相次いで起こり、静まる。紅井は何も言えずに見ているしかない。黒野は紅井を振り返り、大げさに美術品のほうへ手を翳してみせる。
    「こいつらは被害届の添付資料にも、入られた家の財産目録にも載ってねえ。大方盗品か資金洗浄目的、良くて闇市場流れのコレクションだ」
    「返す先がねえから、美術館に入れろって言ってたのか?」
     頷いた黒野は苛立った様子のまま、粉まみれの椅子に腰掛け、机に踵を叩きつける。そして懐から手帳を取り出し紅井に放り投げた。初めて見る手帳だった。開くと、普段の黒野の筆跡とは異なる細かい字で警視庁内の記録簿の通し番号、新聞記事の日付、過去の事件の資料の名が記されていた。その中に見知った警視庁高官の名前が見え、紅井は顔を上げて黒野の瞳を見つめた。
    「チマチマ集めてた上の不正の資料だ。あいつら捜査中に見つけた美術品を横領してやがった。告発の手筈が整った瞬間に盗賊だ。そんで誰の家から盗ったか白状もしねえ、やってられねえな!こっちは一年かけてクビ飛ばす算段してたってのによ!」
     黒野は溜息とも嘆息ともつかない息を吐いて、立ち上がると出口に向かって大股で歩き出す。
    「おい! どこ行くんだ」
    「レコードと手帳と現品がありゃあ、あとは本庁のバカ共でどうにかなる……どうにかうまく丸めるだろ。得にならねえ話にかかずらうつもりはねえ」
     そのまま振り返らずに進むので、紅井は慌てて手帳をテーブルに投げ捨てて後を追う。往きはあれだけ注意深く進んだ廊下が出るときはあっという間だ。外が眩く見える。最後に門と化した元・扉を潜るときに、黒野は上背のある体をそっと屈めた。その仕草で先ほどの怒りが持続していないことを悟った紅井は急いで彼の隣に並ぶ。
     日の光の下で見るお互いの格好は思った以上にひどかった。黒を基調にした制服は真っ白な粉で汚れ、ブーツははべたついた埃が擦れた跡が見事に残っている。
    「……悪かったな、私情に付き合わせて」
    「いや、その、オレが粉のやつやっちまったし、品は見つかったしよお、成功だろ!」
     黒野は紅井の頭頂に残った粉を丁寧に払い、襟足から背中にかけてをはたく。
    「コートは戻ったらブラシをかけろ。ついでに汚れも落ちる」
    「お前はどうすんだよ」
    「この格好じゃどうにもならねえ、一旦下宿に戻る。先に本庁に報告頼めるか」
     紅井が頷くと黒野は手帳はあそこにあったことにしろ、と念を押してコートの裾を翻して走って行った。その姿をぼんやり眺めていた紅井のふくらはぎに痛みが走る。見下ろすといつの間にか愛猫がブーツに絡みついた埃と格闘していた。



     報告は黒野が戻る前に終えることができた。盗品が見つかりました、以外に触れることがなかったからだ。課長も言い含められていたようで何も聞かれず、捜査は引き続き行われることになった。黒野は持ち札がなくなったのを幸いとどこかへと去って行った。

     おざなりな報告書書きで午後を潰し、寮に戻って夕食が済んだところでまた愛猫が消えた。建てられてずいぶん経つ寮は本庁以上に抜け道が多い。この国の治安は本当に大丈夫なのかと心配になる。
    「にゃーこー、でてこーい」
    「朱雀」
     振り向くと分厚い記録簿を抱えた黒野が立っていた。赤みのある燈りのせいか昼間より幾分冷気が和らいでいる。本人には言っていないが紅井はこの毒気の抜けた黒野の佇まいが好きだ。
    「いねえのか」
    「おう、メシ食ってこようと思ったんだけどよ。お前、また図書館かよ」
    「まあな。飯は近所か」
     紅井の大食は寮内でも知られていて、晩飯と夜食の量に制限がかけられている。仕方なく外食が増え、そのための夜間外出も大目に見られている。
    「いつもんとこだ、解決した日に食いに行くと調子が出んだよ!」
    「あんまりゲン担ぐんじゃねえぞ、手落ちが出る」
     黒野は嗜めるように言うが、昼間の緊迫感はない。
    「わーったよ、玄武も今日は早く帰れよ。……あんま無茶すんな」
     パン、と背中を叩くと黒野は一瞬気の抜けたような表情を見せ、今日初めてゆるやかに笑った。
    「ああ、気ぃ遣わせて悪いな」



    「おーい、おやっさん、いつもの」
     店内は胡麻油の香りに満ち、故国の記憶がないとはいえ東洋系の系譜を持つ紅井の食欲を誘う。料理長を兼任する店主も同じく東洋系で、おまけが多いところも好みだ。
    「オウ、遅えな。エビ食うかエビ」
    「食う。先生は」
     店主は顎をしゃくって奥を示した。店の隅には間仕切りで作られた小さな個室があり、紅井は掲げられた〈占い屋どら猫〉の真新しい暖簾をくぐる。帝都では珍しい淡色の髪をした小柄な男が、卓の真向かいの席に腰掛けていた。
    「よお、猫先生」
    「ヤァヤァ、ようこそ。人生にお困りか。家庭に職場、恋愛に嫁姑、ニャンでもカイケツどら猫先生でにゃんす!」
     手の内で筮竹をジャラジャラと搔き回す男が大怪盗猫柳当人だった。
    「うまくいったぜ、一応、全部な」
     紅井は丸椅子にドカッと腰を下ろし、財布から数枚の札を抜いて机に叩きつけた。畳んだ扇子でそれを引き寄せながら猫柳は口を尖らせる。
    「ワガハイの言ったこと、信じてにゃかったでにゃんすか」
    「警察がドロボウ信じてどうすんだ」
    「占い屋は裏がないからウラナイと申しまして……」
     猫柳はまあ当たるもハッケ、当たらぬもハッケとも申すもんですが、と笑い、金を袂にしまった。
    「あのよぉ、あの粉のやつ、金輪際やってくれんなよ」
    「にゃはは、やっぱりれこーどの録音がヘタクソなもんで、接触不良のせいにできたらいいにゃあと……ちょっと仕込みすぎたでにゃんすかね」
    「ふんじん爆発? とか言ってたぜ」
    「人殺しの趣味はにゃいもんで、お二人が無事でよかったよかった」
     猫柳はけらけらと笑い、しかしこんなに捜査が速いなんて驚き桃の木、本庁の刑事さんは腕がいいんですにゃあとうそぶいて、パッと扇子を開いた。
    「眼帯クン、まさかトサカクンが内通してるとは夢にも思わず、今頃ヤケ酒でもかっくらってるでにゃんすか?」
    「……内通じゃねえ」
    「にゃあにゃあ、これは失敬」
     扇子で口元を隠し猫柳は目だけで薄ら笑う。紅井は口籠って床を見つめた。



     今日の顛末は当然猫柳一党の仕込みだったが、事前情報を流したのは紅井だった。
     警視庁を挟んで反対側の民家に下宿している黒野が、毎夜寮を訪れては図書室の古い捜査資料を漁っていることをにゃこを追っていて偶然知った。黒野が何をしているか尋ねても同僚の誰も答えられない。自分で突き止めるしかないと、人が滅多に入らない閉架の前で黒野のブーツの跡を、そして棚板の埃がない場所を丹念に探し、彼のあたっていた記録を特定した。自分の行動が露見しないように埃の代わりに石膏と細かい綿を混ぜた粉末を撒いた。すべて黒野の教えた手法だ。
     黒野が探っていたのは美術品の闇取引だった。この十数年で帝国とその近隣国から消えた絵画、彫刻、工芸品のリスト。捜査に携わった今は高官となっている刑事や外交官たちの名簿。オークションの開催記録。広範な記録と、日々の捜査の中で黒野が見せる無駄が重なる。必死で辿った線が黒野の描いただろう画と重なったとき、紅井の心中にあったものは達成感ではなかった。
     このままでは黒野は死ぬ。黒野がどの理由でこの事件を追っているのかは分からないが、盗品の出元は各国王室や軍の有力者に及んでいる。乱暴に明るみに出せば大陸中の火種になるのは国際情勢に疎い紅井にも理解できた。聡い黒野はそれを承知の上で、警視庁どころか帝国全体の地雷を踏みぬこうとしていた。
     そうなれば、彼は唯一絶対の忠誠を誓った女王陛下の名の下に殺されるのだ。
     悩みに悩んだ紅井が頼ったのが猫柳の盗賊団だった。〈ぎぞく ひゃくとおばん〉の子供じみたチラシの連絡先に電信を打った。数日して、単独捜査中に東洋系の男に中華料理店の割引チラシを渡された。中で待っていたのが猫柳だった。
     依頼は高官宅への侵入と美術品の窃盗。盗んだ物はどこへ持って行こうと勝手だが、なかでも高価なものはどうにかして正当な持ち主の元へ返還できるようにしてほしい。手引きはする。情報も出す。報酬は薄給を貯めたものがある。そう振り絞るように告げた紅井に、猫柳は報酬と手引きは不要だと笑って返した。
     刑事さんが何考えてるかなんてちっとも興味はないでにゃんすが、思いつめた若者を放っておくような、人情味が消えた浮世もそれはそれで許しがたし。情報だけくれたら、あとはワガハイたちにお任せを。経費だけは頂戴しますけどにゃ。

     それから猫柳は一味と策を弄し、紅井は怪しまれない程度に中華料理店に通っては進展しない捜査状況を明かした。そうして全ての仕込みが終わったのが四日前で、猫柳は仕上げに黒野だけにそれとわかるように罠を仕掛けた。釣果が出たのが今日だったのだ。



    「どっちにしろ、このお店も今日で引き払う段取りなんで、今回のお話はここでどっとはらい。また縁があったら悪巧みでも」
     差し出された手を睨み、紅井は己の手のひらで強く叩く。面食らった顔の猫柳に精一杯の虚勢を張った。
    「握手はお前が手錠してからだ、次はねえ」
     猫柳はくるりと表情を変え、笑みを浮かべる。
    「そうこなくっちゃあ勝負のしがいがないでにゃんす!」



     これは裏切りではないと紅井は思っている。自分は黒野を案じている。案じているから死なせたくない。黒野が何をしているか、知った時の血の気が引く感覚は今まで味わったことのないものだった。
     黒野は紅井が余暇に何をしているか、紅井の通う店がどこにあるのか、これまで一度たりとも尋ねてこない。質問を重ねるのは常に紅井で、黒野は何も訊かない。その態度を信頼だと思うには、黒野玄武は周到すぎる。
     紅井の存在は、事件より出世より軽く、身辺を疑られるほどには実力を認めてられていない。
     それが癪に障る。いかに群れようと打ち解けようと根本の孤独を黒野は否定せず守り続けている。技法を教えるのは純粋な好意からだろうが、翻せば黒野なしの紅井の人生を身勝手に描いている。今回の一部始終を話しても、彼は怒るより先に紅井を褒めて、それからそんなに腕が上がったんじゃあ相棒はもうやめだなと平然と口にするだろう。それは紅井の望みではない。
     一人で抱え込むなと言いたい。手伝えることは何でもする。黒野のひた隠す運命に巻き込んで欲しいと思う。だが今の黒野は拒絶するだろう。受け入れられるまで、紅井は身勝手に黒野の命を守ると決めている。彼の執念を捻じ曲げて、どれだけ彼を傷つけてでも。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
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    エヌ原

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    keram00s_05

    DONE「神秘のAquarium」ガシャで突如として生まれた人魚野くん(頭領)に狂った末に出来上がったもの。ショタ貴族×人魚野くんという派生朱玄。
    愛と海の境界線あの日、俺は海の中に水面を明るく照らす陽の光が落ちてきたのだと思った。


    オレの誕生日になると親父は全国各地の商人を集めて、誕生日プレゼントを持ってこさせ、オレがその場で一番気に入ったものを買ってくれる。今年はオレが10歳だからか、例年になく豪勢だった。可愛くて珍しい動物に始まり、色とりどりの宝石、見たことも着方も分からない洋服、そして、綺麗な女性たち。
    椅子に座ったオレの目の前で商人達はこれはどうだと意気込んで、商品を差し出してくる。オレは膝の上にいる親友のにゃことああでもないこうでもない、これはどうか、あっちの方が好きかと話し合っていた。
    にゃこは偉大な海賊が残した宝の地図か、未知の技術が記録されている金属の円盤が良いのではないかと言うが、オレは正直どちらもとても欲しいとまではいかなかった。というよりも、どんなに珍しい物であろうと毎年毎年たくさん見せられると目新しさが無くなって飽きてしまう。現に去年は「これで良いかな」という気持ちでプレゼントをもらった。
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