【ゼン蛍】腕が立つとはいえ、 目が覚めて一番に感じたのは頭の鈍い痛みだった。よく眠れなかったのか、少しだけ体がだるい気もする。出来るなら二度寝をしたいところだけど、今日は朝から依頼人と待ち合わせをしていた。
少し憂鬱な気持ちを振り払って体を起こす。早めに終わらせてあとはゆっくり体を休めよう。そう思いながらも始めた身支度は、いつもよりゆるりとした動きだった。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
知恵の殿堂に向かう途中で、パイモンがこちらをちらちらと見ながら声を掛けてくる。
「何が?」
「何がって……凄く顔が赤いぞ? 熱でもあるんじゃないか?」
自分でもそう思う。起きてすぐは頭痛と少しの倦怠感だけだったのに、ご飯を食べているうちにぐんぐんと体温が上がっていくのを感じていた。幸い熱っぽい(というより絶対に熱がある)だけで動けないことは無さそうなので、歩みを止めずに待ち合わせ場所に向かっている。
「大丈夫だよ。ほら、時間に遅れちゃう」
「でも……」
パイモンの声が聞こえなかったふりをして教令院の扉をくぐる。依頼人との待ち合わせ場所はこの先だ。すると視界の外から名前を呼ばれ、声のした方へ視線を向けると。
「アルハイゼン?」
まさか会うとは思っていなかった人がそこにいて素直に驚く。彼の仕事場なのだから居てもおかしくはないけど、実際出会うことは珍しい。私の声に反応するでもなく、少し早足で近寄ってきたアルハイゼンは目の前で立ち止まると、無言で私の額に手を当てた。いつもは温かく感じるその手がひんやりとしていて、気持ち良さに無意識に目を閉じた。
「パイモン、ここで何をしている」
「うぇ?!」
いきなり矛先を向けられたパイモンはおかしな声を上げた後、自分たちが依頼人とこの先で待ち合わせていることを説明した。
「依頼の内容は?」
「遺跡に行くから一緒に来て欲しいって事だったぞ。合流したらすぐ出発するつもりで」
「蛍」
「……ん?」
パイモンの言葉を最後まで聞かずにアルハイゼンが私の名前を呼ぶ。ゆっくり目を開くと同時に額に添えられていた手が離れていき、前髪に触れて私の視界を開く。あれ、何でアルハイゼンがいるんだっけ。
「君は今、自分の状態を理解しているか」
「……? うん、これから依頼人と一緒に遺跡に行くところなの」
ハァと盛大に溜息を吐かれた。パイモンがオロオロとした様子で私の周りを飛びながら泣きそうな声で私の名前を呼ぶ。
「そんな状態の君を送り出すわけにはいかない」
「何で? いつも通りだよ?」
本当は違うけど素直に言えば今のアルハイゼンは許してくれないだろう。だからそう答えたら、明らかに眉を顰められた。
「腕が立つとはいえ、今の君は明らかに戦える状態ではない。今日の依頼は断るべきだ」
それでも一度引き受けたものを簡単に断るわけにはいかない。だから無理矢理話を終わらせることにした。
「大丈夫だよ。待ち合わせ時間に遅れちゃうから行くね。またね、アルハイゼン」
そう言って別れようとしたら手を掴まれた。何をするのかと顔を向けたらアルハイゼンの姿が視界の下へと消えていき、突然の浮遊感。瞬間、ぐわんと視界が回って酷い頭痛が襲う。アルハイゼンに所謂お姫様抱っこをされたことにも気付かぬまま、次いで襲ってきた吐き気にアルハイゼンにただただしがみついた。
「パイモン、依頼人のところに案内してくれ」
「お、おぅ。こっちだぞ!」
アルハイゼンが歩く振動にすら吐き気が刺激され、時折言葉にならない声を漏らしながら気持ち悪さに耐える。
「あいつだ!」
「君が今日の依頼人か?」
「え? アルハイゼン書記官? どうして、それと旅人さん……?」
「見ての通り彼女は体調を崩して依頼を受けられる状態にない。君の依頼は急ぐものか?」
「い、いえ、まだ余裕はありますが」
「ならば後日に改めて欲しい。延期による損失があるのならば出来る限りの補償はしよう。それで構わないな?」
「は、はい!」
有無を言わせない威圧感に依頼人は思わず姿勢を正して勢いよく答えた。申し訳なく思いつつも酷い吐き気に言葉が紡げない。そのまま踵を返したアルハイゼンは私を抱きかかえたまま進む。
行き先は分からない。目を開けていられない。ぎゅっと閉じた目から涙が零れて火照った頬を伝う。気持ち悪い気持ち悪いきもちわるい。それでも今吐いてしまえば全部アルハイゼンにかかってしまう。それだけは嫌だとアルハイゼンの上着を強く握りしめて胸に額を押し付けて耐える。どこに向かっているのか分からないけど、自分のせいなのは棚に上げて早く止まってと願った。
どれくらい歩いたのか、ようやく立ち止まった先で体を下ろされる。仰向けになることも出来ず体を芋虫のように丸めたまま横になると、握り締めた拳を解かれ上着と共にアルハイゼンは離れていった。酷い喪失感に襲われ、無意識に手を伸ばす。
「あるはいぜん……? どこ、っ?」
「ここにいるよ」
伸ばした手が喪失感を払うように大きな手に包まれる。少しだけ顔を上げれば涙で歪む視界にアルハイゼンの姿が映って安堵する。
「旅人さん、私が分かりますか?」
声がした方にゆっくり視線を動かすと見知った顔があった。
「……ざか、りや……先生?」
「えぇ、そうです。ならここがどこか分かりますね?」
「……び、ま……すたん」
「はい。意識はしっかりしているようですね。少し体に触れますよ」
それから首元に手を当てたり目を開いたり簡単な質問に答えたりと一通りの診察を受ける。
「恐らくですが風邪でしょう。随分と熱が高いようなのでこの薬を飲んで様子を見て下さい。それと」
色々と説明をするザカリヤ先生の声が遠い。
「熱が下がらないようでしたらまた来ていただけますか」
「あぁ、ありがとう」
全く動けない私の代わりに説明を聞いたアルハイゼンが薬を受け取り、来た時と同じように私を抱き上げて歩き出す。多分家に戻るのだろう。また歩く振動に耐えているうちに私は意識を失っていた。
次に意識を取り戻した時、私はアルハイゼンのベッドの上に居た。吐き気も頭痛も治まって今あるのは倦怠感とまだ下がり切っていない体の熱。顔を動かすとベッドのそばで本を読んでいるアルハイゼンが視界に入った。こちらが起きたことに気付いたアルハイゼンは本を閉じると腰を上げて近付いてくる。私の額に乗せていた布を取り手を当てるとふむ、と声を漏らした。
「熱は大分下がったようだな。薬が効いたようで何よりだ」
「くすり、飲んだ記憶ない……」
「ほとんど意識を無くしていたようだったからな」
それでも自分で飲んでいたと説明される。
「そっか……」
ぼんやり天井を見上げる。今何時なんだろう。依頼人には悪いことしちゃったな。パイモンは別の部屋にいるのかな。働かない頭でもそんなことが浮かんでは消える。
いつの間にか部屋から居なくなっていたアルハイゼンは、少しして額を冷やす為の水受けと飲み水を手に部屋に戻ってきた。ゆっくり体を起こされて、受け取った水を飲むとほんのり冷たい水が火照った体に染み渡る。
「ごめんね、アルハイゼン」
コップを返しまた横になった私に新しく絞った布を乗せたアルハイゼンに謝る。
「何故謝る」
「だっていっぱい迷惑かけてる」
「……君は、俺が体調を崩して苦しむ恋人の世話を迷惑だと、そう思う人間だと思っているのか?」
「そう、じゃないけど、でも」
手を煩わせているのは事実だ。教令院で出会って介抱されるに至った時、彼は仕事中だったはずだ。そして今、何時かは分からないけど窓から見える外はまだ日が落ちてはいない。だとしたら本来仕事中なはずで、今ここにいるということは仕事を休ませていることになる。
言いたいことがまとまらなくて軽く唇を嚙み締めた時、アルハイゼンがベッドサイドに腰かけ頬に触れる。
「君の他人を思い遣る気持ちは美徳だろうし、本来悪いことではないだろう。だが自分を蔑ろにしがちなところは改めた方がいい」
「私、存外自分勝手だよ?」
「本当に自分勝手な者はこんなときにでも他人を気にしたりしない」
頬を撫でた手が、熱でうっすらと滲んだ涙を拭う。
「こんな時ぐらいは甘えてもいいんだ」
「あまえる……」
これ以上、彼に何を甘えればいいんだろう。こうして仕事を休んでまで看病してくれている時点で十分甘やかしてもらっている。返答に困っていると、察したのかアルハイゼンが続けた。
「こんな時、君の兄はどうしていた?」
「お兄ちゃん?」
「あぁ」
昔の出来事を思い出す。今みたいに熱で苦しんでいた時、お兄ちゃんはアイスクリームを用意してくれた。冷たくて、甘くて、食欲が無くても喉を通った。それからずっとそばに居てくれた。ずっと手を握ってくれて、少しずつ眠くなってきたとき「目が覚めた時にもずっと居てね」なんて冗談で言ったのに、起きたら本当にずっとそばに居てくれた。
――今はどうやったって叶わない、遠い日の思い出。
語っているうちにもう二度と会えない気さえしてきてぶわりと涙が溢れた。そうなったらもう全然止まらなくてぐずぐずと涙を流しながらお兄ちゃんを呼ぶ。答える声は当然無かった。
泣き止めない私はただ両手で顔を隠した。けれどその手を掴まれたかと思えばそのまま体を起こされ、アルハイゼンに跨るように座らされて抱き締められる。首筋に顔を埋める形になり何をされたのか驚いているうちにポンポンと背中を叩かれる。それがとても優しくて、また涙が溢れてぎゅうと抱き付いて泣いた。そして知らぬうちに私はそのまま眠ってしまっていた。
再度目を覚ました時、私は眠る前と同じ体勢でいた。それほど時間は経っていないのか、私を胸に抱いたままアルハイゼンは本を読んでいたようだ。少し動くと肩まで布団に包まれていることに気付く。ベッドに寝かせて良かったのに。そう思って寝てしまう前の自分の行動を思い出し、風邪の熱とは違う熱で顔が熱くなるのを感じた。
「え、と……忘れて」
色々言わなきゃいけないことがあるだろうに、開口一番に出た言葉はそれだった。
「何をだ」
「その、泣いちゃったこと、とか」
アルハイゼンの肩の布は私の涙でまだ湿っていた。距離を取ったアルハイゼンが私の顔をじっと見る。彼の顔を見ることは出来なかった。きっと目元が赤くなってるから可愛くない顔になってる。それに随分と情けない姿を見せてしまって恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
「それは出来ない相談だな」
「どうして」
「折角聞けた君が抱える思いをどうして忘れなければいけない」
「……アルハイゼンには必要無いものだよ?」
「それは俺が決めることだ」
それから突然、私を抱えたままアルハイゼンは立ち上がる。
「アイスを用意している。食べるだろう?」
いつの間に用意したんだろう。それよりどうして。そう考えてハッと気付く。自分が言ったのだ。お兄ちゃんがしてくれた。アイスクリームを食べたことと、――起きた時もずっとそばに居てくれたこと。また泣きそうになってぎゅうと抱き付いて、食べると小さく答えた。