セーフハウスにふたりきりのしずかな夜更け。
だだっ広いリビングのソファに腰掛けて、お気に入りの濁り酒を口に含む。あまく喉を焼くアルコールが、身体を巡ってゆるやかに頭を溶かしていく。
そこに、罪悪感も忘れたい想いも存在しないなんて。
まさかこんな気持ちで酒が飲める日が来るとは想像もしていなかった。
(それもこれも、全て――)
「モクマさん、どうですか?」
ちょうど思い描いていた声に呼ばれて振り向くと、長い髪をひっかけてむきだしになった薄い耳たぶの上で、ちいさな赤い石が嵌まったカフスは、まるでそこにいるのが当たり前のような顔をしていた。
「おお~……」
お猪口を置いてきちんと向き直る。次回の潜入向けに開発された超小型の発信機は、見た目だけではまったくそうとは見えないし……、
「うん、バッチリだよ。どう見てもただのアクセサリー。それにしてもチェズレイはなんでも似合うねえ、パーフェクト・ビューティって感じ!」
「……それはどうも」
つい立ち上がって、まじまじ見てしまう。深い紅色と目元に輝くアートメイクとそこに填まるアメジストの、なんとすばらしく調和することか。
相棒からの惜しみない賛辞を、褒められ慣れすぎている男は眉ひとつ動かさずに応えたけれど――、一拍おいて、ほんのすこしだけその表情をくもらせた。
「パーフェクト……完璧ですか」
「うん?」
一歩進んで、カフスを外して、お猪口のとなりに。そのままソファに座ったチェズレイに目で促されて、モクマも隣に舞い戻る。
近い距離。長い長いまつ毛がふわりと羽ばたいた。目を合わせて、薄い笑み。
「……人は完璧なものに目を奪われますが、その実、愛するのは欠陥や余白らしいですよ」
「……。まあ、わからんでもないかな」
「モクマさんはどうですか?」
「わっと、近い近い」
もっと寄ってこられた。思わずのけぞってしまう。一緒に歩むときめてだいぶ経ったとはいえ、このひとの綺麗すぎる顔にはちっとも慣れない。
瞳いっぱいに、チェズレイが映る。すこしだけ笑みにあやしげな光が増す。
「完璧な私の美貌には、三日で飽きてしまう?」
「……もう、お前さんとミカグラ出てから三日どころじゃなく経ったと思うけど?」
「一緒にいるのは感情がなくてもできるでしょう」
返答がはやい。そも、こういう問答でこの頭のいい人にモクマが勝てる道理はないのだ。
一緒にいるのに感情がなくとも? そんな訳あるかと言いたいが、彼の過去を思うと何も言えなくなってしまうので、そこは一旦、置いといて。
肩に手を置いて、こちらに傾く身体をぐっと押し返す。どころか、もうちょっと押し気味で。
「!」
逆転した体勢に、チェズレイの目が丸くなって、手が後ろに伸びて身体を支えようとしているのが視界の端に見えた。押し倒すつもりはないので、片手は背中に回して、まるでワルツのピクチャーポーズのような格好になって。
「……チェズレイ。
たしかにお前は、とびきり綺麗だけども」
目は逸らさせない。じっと見つめて、言葉をさがす。
「人間、見た目だけじゃない。お前の執着や深い情は、もちろん欠陥でもないが、いつも言っているだろう、お前だけの味わい深い風味だよ。……ほら、クセになっちゃうってやつ?」
ああ、もっと、おまえのように、ドラマみたいに鮮やかな言葉選びができたらいいのに。
相変わらずの芸のない酒のたとえに、だけど反った背にあわせて髪をなびかせるチェズレイのよく見える表情は、
「…………」
「……ほら、まあた可愛い顔してる。こんな風にどんどん新しい顔見せてくれちゃってさ。飽きるもんか」
こんなに、愛しいのに。かわいいのに。
すぐ試すようなこととか言うくせに、自分が攻め込むのは良いくせに、こうやってすこし寄ろうものなら急にしおらしくなっちゃうんだから。
ねえ、チェズレイ。おまえは知らないかもだけどさ、おれはね、どんどん欲張りになっちゃってるんだよ。おまえのせいだよ、責任とってよね。
なんてのは、怯えさせたら嫌だから言わないけど。まったく下衆だなあと内心苦く笑って。
そっと手を離してやれば、チェズレイはばつがわるそうに目を逸らして、髪を直しながら「そうですか」とつぶやいた。
「へへへ。……で、俺は?」
テンポを乱されるとチェズレイはいつもちょっと静かになる。くるりと指に髪を巻きつけるしぐさを微笑ましく眺めながら、さて、今度はこっちの番だ。
「俺のことは? 飽きられちゃったら悲しいなあって」
不思議そうな視線に晒されて、補足してやると……、
「あなた……ご自分の容姿が完璧だとお思いで……? 私でもそんな傲慢な自負はしていませんが……」
「いやいや違うって!」
あ、戻った。
しゅんと眉を下げて、お決まりのかわいいあの顔。と共にすらすら話す声はすっかり元通りで、ついでに調子はずれのことを言われてつい突っ込んでしまう。
ちがう。そうじゃ、なくて……。
気恥ずかしさを抑えながら、でも聞いておきたくって。後頭部を掻きながら言うのは……、
「……ほら、人は『余白』に惹かれるんだろ?」
その言葉足らずのもぞもぞしたつぶやきに、けれどさとい男は「あァ」とすぐに糸を繋げて微笑んだ。
「……なるほど。すっかり私の手で暴かれてしまった丸裸のあなたでは、もう隙間がないと?」
「……そういうことです……」
はっきり言われると、やっぱり恥ずかしい。
チェズレイはどんどん新しい一面を見せてくれて、まったく目が離せないけれど。
自分は生来、そんな面白い人間ではないのだ。二十年の放浪生活で軽口は覚えど、モテるわけではないのはお墨付きなワケで……。
約束を、したので。違える気は更々ないし、守り手としての使命は全うするつもりだけれど、恋人としてはどうにもこうにも自信がない。
しくしくと項垂れれば、しかしチェズレイは……、
「……フ、フフフフフ……」
「え。チェズレイさん?」
「……………こんなに、掘っても掘っても新たな色を見せておいて、何が『余白がない』なんだか………」
「え、なになに?」
「いいえ」
その、笑い声のあいまにささやかれた吐息のような言葉は、唇のうちだけでのみ広がって、ついぞモクマの耳には届くことがなかった。
なんだなんだ。慌てて尋ねるけど、チェズレイは瞬きののち、笑みをあの毒気のない澄んだものに変えただけで、やはり答えは教えてもらえずに……、
「そういえばモクマさん、ご存知ですか? マイカに伝わる諺。壊れたポットにも、どこかに必ず相応しい蓋はあると言う」
「え、ポット? ……あ、破れ鍋に綴じ蓋?」
「ええ、正解です」
そのまま話題はぽんと飛んでしまった。ついていけぬまま返すと、嬉しそうに頷かれる。
そうして、そっと、目が閉じられる。
なにか、遠くのものに想いを馳せるように。
あるいは、愛おしいものを胸に描くように。
しずかな声が、広い部屋の、しんしんと積もる夜を震わせる。
「……まるで、私たちのようではないですか?」
震わせて、ゆっくりとそう言ったので……、
「あ~、うんうん、たしかに俺たち息ピッタリだし……ってええ? おじさん割れたフタなの!?」
思わず良い感じに頷きかけて、声がひっくり返る。え、いまの話の流れ、この例え話に収束するやつだった!?
「おや、お嫌ですか? 仕方ないですね、今なら特別にお鍋役をお譲りしてもいいですが……」
「その悲しげな顔、ナベのがいいの!? それどういう感情!?」
またあの、捨てられた子犬みたいな顔しくさってからに! おじさんその顔に弱いんだって!
やっぱりまだまだ、この詐欺師さんの心のうちは、万華鏡のように掘り出しがいがありそうだ。
なんだかいまいち、よくわからないムードになってしまった調理器具のふたりの夜は、今日もこんこんと更けゆくのでありました……。
「……ふう」
どうにも腑に落ちないのか、チェズレイは割れたお鍋じゃないでしょ! とまだつっかかる忍者(そこか?)をシャワールームへ追い立てて。
にせものの赤い石を摘んで、間接照明に透かす。
(忍び座の頭上に真紅の星あり……でしたっけ)
今でも時々信じられなくなる。あかい奇石を追って四人が出会い、最悪のファーストインプレッションだった忍びはこの濁りを風味と笑い飛ばして、濁ったまま幸せになれると断じて、生死を共にする指切りを交わしてくれた。
……破れ鍋に、綴じ蓋。
だって、そうでしょう。執着に濁りきった詐欺師と、下衆の守り手。そんなの、きっと、他に似合いのペアなんてないのだろうから。
「……だけどねえ、モクマさん?」
手のひらに血の色を。約束を抱いて、ぎゅっと握る。
誰をも受け入れられる完璧なポットよりも、あなたに唯一の存在である方が、ずっとずっと価値があると思うんですよ、わたしはね。
(……なァんて、ね)
おしまい!