「あっ」
と、思った時にはもう遅かった。
楕円の形ですべすべで真っ白で、プラスチック製の頼りないベッドに行儀よく並んだ、十個の卵。が、冷蔵庫の定位置におさまろうとしたその時、つるりとモクマの手を滑り落ちて、
「ッ! ッだ~~~っ!!」
ご自慢の瞬発力でキャッチしようとするも、ごっちん。前方不注意のせいで冷蔵室の出っ張りに額をぶつけて、叫びと共に目の前に星が散った。
そうして常ならなんでも掴める守り手の指先はむなしく宙を掻き、結果……、
「うっ、そ、でしょ……」
額を押さえながら呆然としゃがみ込む。
未開封の透明なパックの中で、真っ白だった卵には、どれもこれもヒビが入ってしまっていた。しかも見たところ、ご丁寧に十個全部に。これではすぐにでも使わないとだめになってしまう。
「はあ……、買出しなら任されよ、とか、言っといてこれか……」
背中を丸めて、声がどんよりと沈む。
卵には申し訳ないが、もう一度買いにいけばいい話だ。今日の夕飯当番のチェズレイが準備を始めるには時間があるし、お金だって心配はない。相棒だって呆れはすれど怒ったりはしないはずだ。
……だけど。今日は、今日ばっかりは。やたらとついていない日だったから。
信号で毎回止まる。泣いている子供に話しかけたら誘拐と間違えられる。喧嘩に割って入ったら余計なことするなとビンタされる。
いや、別にそれくらいならなんてことはない。普段だったら気にしなかった。
そもそものきっかけは、今日の朝まで遡る。チェズレイと同道の誓いを結んでから、モクマはオフの日には機材を使ったトレーニングを始めた。入院中にアーロンに教えてもらったのがきっかけだったが、守り手として、自己流ではなく、きちんと力をつけたいと思ったのが理由だった。
だけど今朝、セーフハウスのトレーニングルームで、いつものバーベルがうまく上がらなかったのだ。頑張ったらなんとか上げられたが、違和感が強い。まるで、身体全体に重りでもつけられているかのよう。体調が悪いわけではないのに……。
(まさか……)
異変を目の当たりにして、モクマの脳裏を過ったのは、自らの体力の衰えであった。
確かにミカグラを発って数年、齢は四十を越え、一般的には肉体年齢のピークはとうに過ぎている。
時は戻らない。仕方のないことだとは理解しているが、背中を伝うのは冷たい汗だった。だってまだまだチェズレイの夢は叶っておらず、自分は守り手としての手腕を買われて傍にいるのだから。いや、もうそれだけの関係ではなくなっているが、だからこそ、何の役にも立てない自分ではいたくなかった。頭脳労働の得意なチェズレイに対して、自分にはこの腕一本しかないというのに……。
予想していない訳じゃなかった。いつか訪れる未来であると。だけど思いの外ダメージを受けてしまって、この辺り物騒だし買出し行くよ、とか言って逃げるように家を出て、外でも運のないことが重なって、極めつけに卵も割って、モクマの心はすっかりしおれてしまったのであった。
「……どうしたんです、大声出して」
「……チェズレイ……」
立ち上がる気力も無くてぼんやりヒビを見つめていたら、トントントン、と、階段を下りる音と共に、本を片手にひょっこり相棒が顔を出した。
髪をゆるく横でひとつに結んで、クルーネックのゆったりしたシャツを着て、パンツもゆとりのあるストレッチ生地で、裸足にルームスリッパと、この数年で、彼も休みの日はずいぶんリラックスした格好をするようになった。それでも尚、凛とした美しさがまったく消えないのはすごいとしか言いようがないのだけれど……。
「……あァ」
黙って近くまで歩いてきたチェズレイは、床に転がったものを見て、納得したように頷いて、
「卵なんて、また買いにいけばいいでしょう? 夕飯のメニューだって変えられますし……、そう落ち込むと、いっそう老けこみますよ」
「うっ」
「? モクマさん?」
今はそんな他愛ない軽口が刺さる。妙に静かな相棒に、チェズレイは不思議そうに首を傾げた。……いかんいかん。立ち上がって笑顔を作る。
「いんや……、なんか今日、ツイてなくってさ。そのうえ卵まで全滅させちゃって、ちと落ち込んじまったっちゅーか……」
「……なるほど……」
「な、なに……?」
なんとか取り繕って話すけれど、つぶやきと共にじっと見つめられて、すこしたじろぐ。
すべてを見透かすような、嘘みたいに綺麗な、宝石の瞳。出会った時にはおそろしくてたまらなかったその視線が、いつの間にか愛おしくなって。だけど今は……怖い。真実を、知られたくない。
審判を待つ罪人のような気持ちでいると、しかしチェズレイは、フ、と、まなじりを下げて優しげな笑みを作って裁定を下した。
「……それでは、いい思い出に変えてしまいましょう。モクマさん」
それから数分。
プラスチックのケースを慎重に拾い上げたチェズレイは、そのまま迷いない足取りでシンクへ進み、まさか捨てるのかと思いきや、片手に抱えたまま、手を伸ばして戸棚を開けて、取り出したのはガラス製の大きなボウルだった。置いて、手を洗って、ヒビの入った卵を次々割り入れていく。
「えっ」
「ほら、モクマさんも呆けていないで」
「えっ、あ、うんっ」
二人でやればなんでも早い。瞬く間に十個の黄身が白身の海の中に泳いだ。それを泡立て器で溶きほぐし、次は牛乳と砂糖を取って来いと言われ、それらを一度温めて、混ぜて漉して、家中の耐熱の容器を総動員させて、等量ずつ流し入れていく。
「チェズレイ、これは……」
きびきびした指示に考える暇もなく動いていたが、お湯を張ったバットに並べられた時点でようやっと確信を得る。茶碗蒸しによく煮た作り方で、けれど砂糖のいっぱい入った、これは……、
余熱したオーブンのスイッチを入れて、振り向いたチェズレイが満足げに笑う。
「プリンです。明日のゲリラパフォーマーさんのお仕事でお渡しすれば良いのでは? 明日くらいまでなら保つでしょうし、ここらの子ならばすぐ食べてくださるでしょう」
彼らの笑顔を見れば、あなたのことですから、不運を嘆く気持ちなどきっと忘れてしまいますよ。
そう締めくくったチェズレイの声は、話し方は、瞳は、ひどく優しかった。
ぐっと、胸にあたたかいものがこみ上げる。
「~~、チェズレイ……っ!」
思わず手を伸ばして。腕を引くと、おとなしくチェズレイはモクマの胸の中に入ってきてくれた。
どきどき、二つの鼓動の音が近い。躍った髪のしっぽから、服から、卵と砂糖の、同じ甘い匂いがする。ぽんぽんあやすように背を叩かれながら、窘めるような、からかうような、静かな声。
「それに、この私と一生の誓いを結んでおいて、ツイていないだなんておっしゃるおつもりですか?」
「うん。うん……、そう、だよねえ」
そうだ。こんなきれいで、つよく、割れた卵を魔法のように笑顔に変えてくれるひとの傍にいられるのに、ツイていないなんてあるものか。
なにより……、沈んだ気持ちを取り返そうとしてくれるその気持ちが、うれしくって。
「終わり良ければすべてよし、ってね。ありがと、チェズレイ」
「おや、酔っていないのに格言が。フフ、ですが、それはちょっと受け入れ難い」
「えっ」
「終わりを美しく……も、当然ですが、」
腕の力をゆるめて顔を見ると、チェズレイは茶目っ気たっぷりに笑って見せる。
「私はね、過程も楽しみたいタイプなんです。卵の消費のため、食べきれない量のプリンを作る。昂りもしない、刺激もない、取るに足らない記憶ですが、それも……、まあ、悪くはない」
「……うん……」
柔らかな言葉が、胸の中に降り注ぐ。ああ、やっぱり好きだなあ、と、思う。
チェズレイはいつまで経っても不思議な子で、悪党としての面も確かにあり、冷静でリアリストで、絶対に敵わないくらい、頭が良くって。
だけど、こうやって落ち込む恋人に掛ける言葉は優しくて、一緒に居て時間が経つ内、どんどん、柔らかでまっさらな部分を開いてくれて。
傍に、いたいと思う。傍にいる権利を得たいと思う。終わりの日まで、二人で紡ぐ『過程』を全力で楽しみたい。身体のことは引っ掛かるけれど、でも、衰えるなら、倍努力すればいいだけだ。
すべきことは決まった。めらめらと決意を燃やすモクマに、チェズレイはああ、と声を上げた。
「過程と言えば……、私の差し上げたトレーニング用リストウェイトはどうでしたか? 最近筋トレもマンネリ化していると言っていたでしょう」
「えっ、なにそれ」
だけど。続いた言葉に、まぬけな声が出る。
「何それ、って……今日起きたら巻いてあったでしょう。反応を楽しみにしていましたのに、つれない様子で内心落胆していたんですが……」
「は……?」
は。え。ばっと袖の中を見れば、確かに両手両足に何かが巻かれている。呆然と見ていたら、「着けっぱなしなんですか? 流石に重いでしょうに、あんまり無理すると身体を痛めますよ」と指摘されて……、
無言のまま手を伸ばして、試しにひとつ外すと、ごとん、と、卵の時とはまったく違う音がした。
ぱちぱち、床を眺めて。ふ、と、口元がゆがむ。
……そりゃあ……、
こんなの着けていたら……、
(身体も、重いわな……)
「ぷっ、あは、ははははは!!」
「? モクマさん?」
なんでそんなことに気付かなかったのか。いやだって、そこまで重くなかったし、違和感に気づいた時には、同時に持ち上がってきたチェズレイの傍にいられなくなる可能性の方が、ずっとずっと恐ろしくって。だけど、それにしても……!
突然笑い出したモクマに、チェズレイが驚いたように目を丸めるが、さすがに真相は明かせない。ばれようものならきっと、相棒も大笑いして、そんな一日で身体訛らないでしょうとごもっともなことを言われてしまうだろうから。
ひいひい笑い転げて、やっと落ち着いて、涙を拭って、首を振る。
「……そうだね、過程も、大事だよね」
笑っても泣いても、どんなに愛しあって惜しんでも、すべてのものに等しく終わりは必ずやって来る。欲張って来世まで約束したけれど、でも、やっぱり今を、大事に生きたいから。
一日でも長く、お前の刃でいたい。それがこの胸に生まれた、新たな決意のたまご。
おりよく鳴ったオーブンに駆け寄りながら、モクマはそれなりに、だいぶ、一般的にはかなり……重たい枷を巻かれているとは思えない脚で、軽やかに駆け出すのであった。
おしまい!