目覚めの足音は、外からではなく胸の中から訪れた。
「ん……?」
といっても、加齢によってどんどんせっかちになってくる体内時計のせいでもなく、それよりもう一層、外側。裸でねむる剥き出しの胸板に、ひやりと冷たいものが当てられたからであった。
ゆっくりと目を開く。まだ、思考回路はなめくじが這うような速度だ。ええと、今日は仕事もなくて、そんなのたいそう久々なことで、だからこそ昨夜は二人して夜の底まで潜ってそりゃもう大盛り上がり……、したからこんなに身体がだるいのか。多分そう長くも寝ていないと思う。
……ということは。やっと全部がつながって、視線を落として納得する。「あー」と、声にならない呟きが喉の中でうずまいた。
(そっか、寒かったもんなあ……)
生涯の相棒には、モクマしか知らぬひみつがある。
隣同士、おんなじベッドで眠る夜。一定の室温以下という条件で、朝方のわずかな時間、ほんの時たま、抱き合った後は確率が上がるのだけれど……、彼は、こうやってぴったりとくっついてくることがあった。寒いので、暖をとりにくるのだ。しかも器用なことに覚醒直前には離れるので、本人も知らない。
(猫ちゃんみたいだよな……)
ほっぺをふにふにと触るとくすぐったいのか僅かに身を捩るが、それでおわり。これくらいなら起きないというのは実証済みだった。
安心しきったような寝顔には寄りがちな眉間の皺もなく、常より幼く見える。まるで母親の胸の中のよう、すっかりなにもかもを投げ出し任せるような委ねかた。
長い金の髪を掬って、手のひらの上で小川をつくる。母ゆずりの宝物に触れようと、やっぱりチェズレイは眠りの彼岸からこちらには戻ってこなかった。
見つめるモクマの顔が、複雑な色を重ねてくしゃりと歪む。
(こんなふうに、なっちゃって……)
昔――具体的にいえば彼の故郷での騒動以前――は、熱を交換して、燃え上がって、その火花がついにぱちんと弾けて消えた瞬間、チェズレイは余韻も何もなく、さっさと自分のベッドへと戻っていた。
実はずっと寂しかったんだよ、と告白したら、名残惜しくなるのがこわくって、とかわいい答えが返ってきたので、まあ、あっさり許してあげたのだけど。
夜と朝の、境目の時間。紗のかかった窓の向こうで、空が目を開けて新たな一日を始めようとしているのが見える。地平線のかなたからこぼれる光に染められたあわい紅色は、まるで相棒のうすい瞼の皮膚のよう。彼がしがみついてきたのも、昨日盛り上がってレースカーテンしか引かないままで寝てしまったから、眩しかったのもあるのかもしれない。
「ん……」
腕の中のひとが身じろぎして、上掛けがずれる。
生まれたての朝日を浴びて浮かび上がる身体のふちどりは、やっぱりつくりもののような、完璧なかたちをしている。
だけどその透き通るような白い肌には、痛々しい傷のあとが浮かんでいた。最終的には消えるものも多いと言っていたけれど、本当のところはわからない。
寒いだろう、上掛けを戻してやりながら、布地を掴む指先に、ぎゅっと力が入る。
(……これは、俺のためについた傷。俺と約束をふたたび交わすため、俺に何も言わぬまま、あの賢い男が、愚かな無茶をした代償)
ばかだとおもう。叱りたいと思うけど、その痛切な祈りを、必死で結んだ目を自分で断ち切ってしまった絶望を、想像すると胸がいっぱいになって声にならない。ひたむきとか、そんな簡単な言葉じゃ表せない。きっと胸の中の気持ちは彼自身も理解しきれておらず、そんなものを自分が正確に汲み取れるわけもない。
(だけど、事実は、直視しなくちゃいけない。これは俺への罰でもある。この情を、伝えきれていなかった俺の……)
――せめて、これからは、もう、ひとつだって。
あの雪国ですべてをさらけだして、またチェズレイにひとつ近づけた。近づけるように、してくれた。薄いカーテン越しだった最後の壁が取り除かれたような、やっと直接、素肌に触れられたような……。
むにゃむにゃと、薄い唇が啄むように動く。
ほんとは、甘えん坊な子どもだったのかもしれない。でもその真相は、彼も知らぬのだろう。物心ついた時からそんなの許されなかったから。或いは、変わったのかもしれない。やっと安心できる場所を見つけて。
どっちだって嬉しい。その対象が自分であるのなら。彼の、安心毛布で在れるのならば。
モクマだって、ひとと同衾して、朝まで寝こけるなんてことは今までなかった。一時の熱に踊らされて、そのあとに来る揺り戻しはいつもの比じゃなかった。気配にも敏感で、いや、今だって闖入者があればどんなに爆睡しても起きる自信がある。だけどチェズレイ相手だけは、ちがうのだ。
特別な例外。その、理由は……、
「……ひとつに、なったからかな……」
「おや、ずいぶんと少女趣味な言い方をなさる」
刻一刻と明度を上げる部屋に、返答が舞い込んだ。モクマの目がぱちぱちと開閉する。下を見れば、起き抜けの色を濃く残した、ねむたい紫とぶつかった。
「起きてたの」
「あなたの声で起きました。おはようございます。……それにしても、昨日あんなにしたのにまだ足りないのですか?」
「え? ……あっ、あー、そう!!」
その瞳が、声が。可笑しそうな風向きに転がって、問われた意味がはじめ取れなかったけれど、一拍おいて理解して、あわてて頷く。
抱きついてきたのはお前だよ、などと真実を告げた日には、この特権を永遠に失ってしまいそうだからだ。……でも、嘘ついちゃった。やっぱり下衆だ。
「ふうん……」
だけどまだ半分眠りの国にいる詐欺師さんは誤魔化されてくれたようで、まァ、寒いですからね。特別にゆるします。なんて言いながら、ゆっくり目を閉じて、そのまままたすうすうと、一定のリズムの寝息が胸の中で繰り返されるようになった。
「……」
朝の始まりに、残されたのはモクマひとり。そのほっぺが赤いのは、陽に焦がされたせいか、はたまた内から生まれた熱か。
(……許されちゃった……)
身体のなかに身体をうめて、それでも足りなくて、さらに奥を求めて、口付けて唇を割って、汗に濡れた肌をくっつけあって、同じ頂の星を目指すふたりは、そのとき確かに、ひとつだった。でもそんなの一瞬で、波が去れば結局、ばらばらに戻ってしまう。
(……けど)
それでいいのだ。完全に一つになってしまったら、あのとろけるような微笑みを見ることも、不意の言葉に胸打たれるのも、離れた熱に感じた寂寥に、濁りの重さを知ることもできなくなってしまうから。
「すきだよ、チェズレイ」
起こしたくないから言葉にはせずに、かわりにぎゅっと抱きしめる。
無粋な朝日がおまえの眠りを妨げぬよう。おまえが憂いなく、夢を見続けられるよう。
幸せな眠り。二十年越しにあたえられたおやすみは、モクマの心をずっとやさしく温め続けている。
おしまい