開け放たれた窓から風が吹き込んで、レースのカーテンがひらひらとはためいた。
『南国』という響きから覚悟していたよりも随分、ここの気候はチェズレイにとって過ごしやすいものだった。確かに気温は高いが、湿度が低いのだ。カラリと晴れた空の真ん中に輝く太陽はギラギラと容赦なく照りつけているが、ここは室内だからたださわやかな風だけを享受できる。
故郷での一件から、もうひと月と半月。
チェズレイはモクマの母の住む南の島で療養を続けていた。飛行場に着くなり担ぎ込まれた病院から退院できたのが三週間前で、その足で実家に挨拶に行きやれやれ一安心、親子水入らずの時間を堪能してもらったら世界征服の旅路に戻ろう、などと考えていたチェズレイに、守り手がOKを出すはずもなく。「そんなこったろうと思った」と溜息吐いた後でいつの間にか長期滞在の手続きを取られていたヴィラタイプのホテルに連行されて、それからは毎日、甲斐甲斐しくお世話される生活を送っている。
「それでは今日は二階部分ですね。プライベートルームが二つ、衣裳部屋が一つに、もう一つの空き部屋は……、まあ、拡張性を持たせた方がいいでしょう。まずはモクマさんの部屋ですが――」
「ふむふむ」
広い広いスイートタイプのヴィラの、窓際に置かれたベッドのヘッドボードに背を預けて身体を起こして、細い指がタブレットの上で器用に踊る。そのすぐ傍に椅子を置いて、どれどれと覗くのはモクマの陽に透ける銀の髪だ。
ここ最近のふたりの話題と言えば、西の大陸に新たに建てるセーフハウスの内装についてである。
どこかにひとつ、ちゃんと拠点をこさえないか。なんちゅうか、家みたいに帰れる場所が欲しいな、って。そんな、物欲のないモクマの珍しい要求に、チェズレイが否やを唱える理由はなかった。大まかにサイズ感だけ確定したところですぐに業者に連絡して可能な限りのインテリアや床材、壁材の資料を取り寄せて、数時間後にはどうぞお好きにお選びくださいと並べたら、お前さんほんとに働き者だよねえと困ったような顔をさせてしまった。
……働き者だと知っているなら、本当は仕事をさせてもらいたいのだけれど。モクマは頑としてそれを許そうとはしなかった。
常に同じ部屋にはいるが、無駄に喋りかけたりするわけでもない。だけど、タブレットで本を読んでいても何も言わないのに、メールを開いた瞬間取り上げられる。どういう仕組みか本気でわからないが、尋ねても「見てたらわかるよ」としか返されない。腑に落ちないが、結局根負けした。わかった、仕事はしない。その分セーフハウスはモクマのリクエストだ、最高のものを作りたい。だから協力してほしい、と。言ったら相棒はとびきりの笑顔を浮かべて、もちろんだ、と、優しく抱きしめてくれた。
「まずはベッドですかね。その大きさや配置によって置けるものが変わってきますから。モクマさん、寝具にこだわりは? これなら安眠できる、などあればぜひそれを」
「うーん……、」
……尋ねておいて何だが、まあ、あまりないだろうことはわかっていた。モクマはいつでもどこでも寝ようと思えば寝られるし、爆睡してようと物音がすれば一瞬で起きられるのだ。
「せっかくの個人部屋ですし、マイカ式にしてもよろしいのですよ。畳を敷いて、そこでは裸足で過ごして……、眠るのも、たとえばそう、ライスクラッカーベッディング、など」
「……なんて?」
「そのまま直訳、煎餅布団です。昔お住みだった四畳半の雨漏りする部屋だって、お望みであれば完璧に再現してみせますよ」
予想通りのつっこみに歌うように返せば、モクマはやれやれと頭をかいて、「まったく、よくもまあ、いろいろ調べるんだから……」とこぼして、それからそっと、手のひらが頬に添えられる。
「……俺のことを知ろうとしてくれんのは嬉しいけども、それなら直接聞いてよ。タブレットと睨めっこしてないでさ」
「おや、嫉妬ですか?」
「うん。お前さんには一秒でも長く寝てもらって、早く元気になってもらわにゃ」
「ふふ、まったく、過保護なんですから……」
「過保護で結構。守り手さんだからね~」
おどけたような口調に反して、瞳は真剣だった。目と目がぶつかって、そこから彼の想いが流れ込んでくるよう。
そのまま、視線と同じ真面目な色に声を変えて、モクマは静かに続ける。
「……実は、さ。寝具のこだわりはないが、欲しいもんならあるんだ」
「なんですか? なんでも揃えますよ」
尋ねれば、手が離れて、すっと、節くれだった指が画面を差した。
「この、空き部屋。俺の好きなもの置いていい?」
「ええ、二人の家なのですから、当然です」
「そう。じゃあねえ……」
繰り返すが、この人は本当に物欲がないのだ。だからこそ、望むものがあるなら何でも与えたい。
メモを取ろうと入力用のペンを握る。モクマは目を伏せて、ゆっくりと――、
「……欲しいのは、お前さんが両手両足のびのび広げてもはみ出んキングサイズのベッドに、それに合わせたベッドマット、清潔なシーツに、それから掛け布団は涼しいのも、あったかいのも」
「……」
……ペンは、結局、画面の上を走ることはなかった。
だって。ばっと顔を上げると、モクマは微笑んで続けた。
「……そんで、枕はふたつ」
「……! そ、れは」
期待が、予感が、確信に変わっていく。
零れた声が震えているのがわかる。ああ、みっともない。
「一人で寝たい日もあるだろうから、プライベートルームはなくさないままでいい。けど、俺たち二人で寝るには、相当でっかいベッドを選ばんと」
もう、それは、ほとんど決定打だった。
耳から伝った言葉が、脳で像を結んで、それから身体を貫く雷となって、チェズレイの気持ちを天に昇らせた。
つまり、それは!
――やっと、やっと、『解禁』ということだ!
……実をいえば、いや、さきほどからの触れ合いでお察しだったかもしれないが……、ふたりは今や、世界征服の同道相手、死ぬまでの約束、来世への絆、言い表せぬ情……なんて数々のラベルに加えて、ごく最近、『恋人同士』という新たな関係に進んでいた。切っ掛けになったのはモクマの挨拶での『幸福』宣言で、説明は任せるよと丸投げからの突然のジャブにチェズレイはびっくり仰天してしまって、いやでも自分のこととは限らない、と考え直そうとしたところで、帰りの道すがら更に『お前のことだよ』と念を押されて。
モクマは、自分と出会えたことを幸福だ、と評した。共に在れることが、うれしいのだと。
それはチェズレイの頑なに閉じていた最後の心のドアをこじ開けて、瞬間、ついに気づいたのだ。
……ああ、わたしは、このひとのことを。
ホテルに戻ってそれを告げたら、モクマは目を見開いて、それから泣いて喜んでくれた。
心が通じ合うことの、幸福。愛する人が、自分のことを愛しているという、奇跡のような偶然。その日から少しずつ少しずつ触れ合いが増えて、接触に嫌悪感を覚えたらどうしようなんてのはすっかり杞憂で、キスをした日はただドキドキして眠れなくって、口の中に舌なんか入れられた日にはもうたまらなくなってその先を求めてしまって、モクマだってその目に欲の炎を宿して……、
――でも、いくらチェズレイが求めようと、絶っっ対、抱いてはくれなかった。
あやすように抱きしめて、背中を優しく撫でながら『怪我が治ってからね』と囁くだけなのを、何があっても覆してくれなかったのだ。
それが、それが、ついに!! これはどう見たって、解禁宣言!! チェズレイは食い気味に頷いた。
「わかりました!」
「よかった。じゃあ一緒に選ぼうか。ふたりで使うものだもんね」
「~~、はい!」
ああ、今ならあの灼熱の太陽の下でもダンスが踊れそう!
あからさまに浮かれるチェズレイを見るモクマの目はどこまでも優しくて、愛しさが溢れていて、だけどその光を、今は真っ直ぐに受け入れられる。ただ、嬉しいと、それだけを思う。
それからふたりで大きなベッドを選んで、よく眠れそうな遮光カーテンを選んで、揃いのパジャマまで選んで、チェズレイはもう夢心地だった。さらには「ずっとお預けしててごめんね。お前の身体がどうしても心配だったから。でもきっと、この部屋じゃ我慢できないと思う……」なんて言われて! もうもう!
すっかりすべてが決まって、業者にデータを送信して、じゃあ夕飯の準備しようかなと立ち上がったモクマを「ありがとうございます」とにこにこ見送って……、
(……ん?)
仮面の詐欺師は、ようやく気付いた。
……この家、ものすごい急ピッチで造らせても、できるの半年後じゃない?
――と、いうことに。
……え? それまでお預けってこと?
それを……今、快諾してしまった、という……こと……!?
「~~!?」
してやられた! この詐欺師! 下衆! 度を越した過保護守り手!!
突き刺すような視線を敏感に察して、モクマはくるりと振り返って……、
「(おだいじに)」
にっこり笑って、たぶん、唇だけで、そんなことを言った。
(~~、クソッ……!!)
怒りのあまり、ついつい脳内であの忌まわしき怪盗殿と似た言葉遣いをしてしまっていることにすら、詐欺師は気づかない。
この忍者さん、ヴィンウェイを乗り越えて心に忠実に、かなりグイグイくるようになったが、がんこなのは全く変わらない! 腐っても性根まで守り手! 恋人の身体が全快するまでは、本当に指一本触れぬつもりだ!!
タブレットの画面を割れるほど握りしめながら、チェズレイは心に決めた。
(絶対それよりも前に身体を元通りにして……、この私が最高にお膳立てした誘惑をお見舞いして、その理性、粉々にしてやる……ッ!!)
おしまい!